第8話 -2

道場まで戻るために庭園の中を歩きながら、麗は瑠衣と会ったときの話をした。


あれは江の島でデートした数日後のことだ。

水族館で椿に振られた後、麗は椿に会いに行こうとしていた。往生際が悪いとは自覚しているけれど、あの感じでは付き合えない事情があるんじゃないかと踏んだのだ。

椿は「麗は悪くない。わたしの問題なんだ」と謝った。

その問題に私は介入できないの?

なにか、力になれないのか。それとももう話もしたくないのか。椿本人に聞かないと分からない。数日悩んでから、もともと聞いていた椿のシフトの日に傘屋を尋ねた。

傘屋のある道に差し掛かって、店の前に人影が見えた。

店の横に植えられた百日紅の木の下に立っていたのは、花と同じピンク色の髪の毛の女性だった。ハイブランドの旗艦店に立っているドアマン並みに怖い顔で仁王立ちしていた。ミニスカートを履いた華奢な体躯では厳つい印象にはならないが、猫が威嚇しているときのような緊張感があった。

横を通り過ぎて傘屋の暖簾をくぐろうとすると、「あんたが麗?」と訊かれた。ピンク色のぱっつん前髪の下で、長いつけまつ毛の目がぎろりとこちらを睨んでいる。

正直に「そうですけど」と答えた瞬間に胸倉を掴まれていた。Tシャツの襟がVネックに形を変えそうなくらい強く掴まれて、至近距離に鬼の形相がある。麗の方が瑠衣よりも遥かに身長が高いが、瑠衣の気迫に圧倒されてしまった。

「椿の、幼馴染の……」

「単刀直入に聞く。どういうつもりで椿ちゃんに付きまとってんの?」

胸倉がぐっと掴まれて苦しい。

「っ……! 付きまとってません」

カラーコンタクトレンズの下で瞳孔が完全に開いている。苦しいし怖いし何なんだこの状況⁉

「椿を揶揄うつもりで好きとか抜かしているんだったら、殺す」

怖いけれど、でも、その言葉はいただけなかった。

揶揄う? 私が椿を?

咄嗟に瑠衣の両手首を掴んでいた。強い力で握ってしまい、瑠衣はバッと手を離した。

「私は本気です」

「はァ?」

「揶揄ってなくて、マジです。それこそあんたに横槍を入れられる筋合いは無い」

「江の島で偶然椿に会ったら泣いてたから来たんだけど?」

「それ、は……」

椿、あの後泣いていたんだ。確実に私が泣かせてしまったということだ。だったら尚更会って謝らないといけない。暖簾をくぐって扉を引こうとすると、瑠衣が遮った。

「ちょと何無視してんのよ!」

「椿に会って、謝らないと」

「今日は椿は来てないし、何も知らないくせに近寄らないで」

「何も知らないで好きになったわけじゃない!!」

つい声を荒げてしまった。はっとする。ここは路地の真ん中だ。

瑠衣が麗を店の脇に引きづるように連れていき、細い小道に入った。瑠衣も店の前で目立つのは良くないと思ったのだろう。

「椿の何を知っているっていうわけ?」

「高校は行ってからのことは、椿が話してくれました。学校のことも」

「あの子、話してたんだ……」

瑠衣は目を丸くした。

そして、麗が軽い気持ちであの女先輩のように椿に告白したのではないかと本気で勘違いしていたことを瑠衣は謝罪した。

「急に掴みかかって、悪かった。でも、椿を泣かせたことは変わらないわよね」

「……私にとっても、椿は一番大切な友達です」

終始一貫している麗の言葉のまっすぐさに、瑠衣の心は揺らいでいた。しかし最後まで瑠衣は椿の味方だった。

「半端な気持ちであの子に近づかないで。大事な妹みたいな存在なの。今後もし傷つけたり泣かせたりしたら、絶対に許さないから」

その言葉に、麗は無意識にほっとした表情をしていた。

「何笑ってんのよ」

「あ、いえ。椿の味方になってくれる人がいて良かったと思って」

「勘違いしないでくれる⁉ あたしの方が何年も前から椿のことを見守ってきたんだから。子どものときからずっと!」

麗は頷いた。そんなことは分かっている。まだ椿について知らないことはたくさんある。子どもの頃の椿がどんなだったのか、学校の話もそんなに聞けていない。瑠衣との関係も、椿の口からは聞けていない。だけど、一緒に居た時間や気持ちの種類に差があったとしても、椿のことを大事に思っていることは瑠衣と同じだった。

瑠衣は路地の壁に寄っかかっていた背中を起こして、麗に紙きれを渡した。開くと、ボールペンで数字とアルファベットが書いてある。

「あたしのSNSのID。椿に何かあったら連絡して」

「いいんですか⁉」

「付き合うことを認めたわけじゃなくて、あくまで椿の友達としてってこと忘れないでよ」

瑠衣はそう言いながらもメモを用意していたということは、初めから相手に問題がなければ渡すつもりだったということだ。

「ありがとうございます」

「あんまり調子に乗るようだったら絞めに行くから」

口ではそんな脅し文句を言いながらも、大切な妹を想う心は透けていて、瑠衣は本物の姉のようだった。


その様子を聞いた椿は、「瑠衣ちゃんは昔からわたしのことを面倒見てくれてたから……」と気まずそうにしていた。

「椿のために怒ってる瑠衣さん、ちょっと格好良かった。悔しいけど」

「そうなんだよ! 瑠衣ちゃんはね、格好いいんだ」

椿はうれしそうに賛同していて、瑠衣さんに嫉妬してしまいそうになっている自分がいた。

そうして歩いている間に弓道場に到着した。靴を脱いで板床に上がりながら「弓道、再開したんだね」と言うと、椿は頷いた。

「わたしも変わりたいから、もう一回始めることにした」

まだ日没前で、空は曇っているが的場は目視できる。椿が壁に立てかけていた弓を手に持つのを見守った。話では聞いていたけれど、椿が弓を弾く場面を見るのはこれが初めてだ。

射場の後方に立ちながら、てきぱきと準備していく椿の背中に視線を注ぐ。しゃんと伸びた背筋と、上背よりも大きな弓。その背の向こうに小さく的が見えた。率直に、弓道の的までの距離って結構あるんだな、と思った。

弓は足元に2本残し、手に1本持っている。準備が整ったところで、椿はこちらを振り返った。

「見てて」

祭の射的を思い出す。あのときも椿は「見てて」と言ったけれど、今の方がずっと真剣な面持ちをしている。

椿は深呼吸した後、ゆったりとした仕草で矢を構えて、腕の筋肉で弦を大きく張らせた。研ぎ澄ませた集中が肌に伝わってきて、片時も目が離せない。

弓で的を半分隠して狙いを定め、流れるように矢を放つ。パアン!と弦音がはじけ、一筋の風が立った。風を切った矢は緩く弧を描いて、的の右上に刺さった。

「この音……」

この音を、私はずっと昔に聴いたことがある。麗の中に幼いころの記憶がよぎった。あれはいつだ? ずっとずっと昔─────。

その後、矢を持ち替えた椿によって2度、あの音が鳴った。記憶の箱の最深部から探し当てるには時間が足りないけれど、間違いなく聴いたことがある音だった。

最後の一射を終えた椿が的場に向かって一礼をした。矢は2本、的に刺さっている。

麗は拍手をせずにはいられなかった。見事だった。

椿は前に進もうとしている。学校に行くとかいけないとかではなくて、自分の中で一番大事にしていたものをもう一度掴みに行っていた。傷つけられても、立ち止まってもまたこうして弓道に戻ってきたということだ。それは、ものすごく勇気のいることだと思う。椿の偉大さをたたえるように力強く拍手していると、椿は「もういいってば」と照れ笑いしていた。やっぱり椿が笑っていると、私も一緒になって柔らかく笑ってしまう。

記憶の箱が開きかけたそのとき、ざぁっと強風が吹きぬけた。目を開けると風だけではなく雨も降り始めていた。そろそろ台風の季節、もしや……という麗の予想通り、この日の夜から関東に台風が近づいてくるという予報だった。ぱらぱらとまばらに降っていた雨は次第に雨粒を大きくし、一瞬で豪雨に変わった。道場の屋根を強い雨音が叩く。的場に矢を取りに行った椿は髪をぐっしょりと濡らしてしまっていた。

「御園さんに傘、借りるか……」

御園のおかげで二人とも傘を借りることはできたが、境内の外に出たときにはバケツをひっくり返したような水圧で雨が降っていた。傘をさしていてもずぶ濡れになるのは時間の問題だ。

深夜まで雨は続くというので、帰るしかない。椿の家の方面まで帰ろうと思うと、駅までかなり歩かないといけないが、その点、麗の家までなら徒歩数分のバス停から一本で帰ることができる。

「今日、うちに泊まってく?」

麗が訊くと、椿は「そうさせてもらえたら助かる」と答えた。二人でバス停の方に向かって足早に歩いていく。土砂降りの雨の中では、邪なことを考える余裕なんて1mmも残っていなかった。

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