第3話 - 4


立秋の日。旧暦では秋の始まりでも8月初めはまだまだ暑く、夏の盛りだと思う。

ぼんぼり祭で鶴岡八幡宮の境内は賑わっていた。浴衣を着た観光客や、海外からの旅行客、地元に住んでいる親子連れなど様々な人が境内を行き来する。その姿をぼんぼりの淡い光が照らしていた。

ぼんぼり祭りは名前の通り、約400個のぼんぼりを灯すお祭だ。四角柱のぼんぼりを囲う薄紙には地元の商店や有名人のサインが書かれている。たまに可愛らしいキャラクターのイラストや、本格的な絵もあってバリエーション豊富だ。

椿は境内に上がるための長い階段の下から鳥居を見上げた。椿のすぐ後ろではねずみ色の仁平を着た男の子が友達と「誰が最初に上まで行けるか競争しよーぜ!」と、はしゃいでいる。祭りの非日常的な雰囲気に舞い上がっているようだ。小さなサイズのサンダルで走り出して、椿を階段で追い越していく。男の子の肩が椿の背中に当たった。ちょうど階段の3段目にかかっていた椿の下駄が傾いて、上半身がよろける。慣れない浴衣を着てきたせいで、脚を広げて踏ん張ることもできない。

あ、落ちる。

そう思ったとき、左から伸びてきた長い腕が椿の右肩を捉えて抱きとめた。落下する勢いを受け止められたことに戸惑いつつも、不安定だった右足がしっかりと段を踏み、どうにか落ちずに済んだ。腕の方向を見上げて、息を呑んだ。

「麗!」

隣にいるとは思っていなかった。突然現れた麗のブロンドは薄暗闇の中で目立っていた。麗が子どもたちに注意しようと一瞥すると、男の子たちは「やっべ」と慄き、ばたばたと階段を駆け上がりながら逃げていった。

「椿、怪我は?」

「ない、大丈夫」

「あのガキ何なの? 普通に許せないんだけど」

「それより、お祭には来ないのかと思ってた」

「私から誘ったのにばっくれる訳なくない?」

「だって、約束の時間に居なかったから…」

喉が渇いている。からからになった喉はそれ以上喋れなかった。いつものことだと思っていたから。期待するのは自分だけ。

昨日傘屋で麗が「明日のシフトは夕方で終わりでしょ? そのあとお祭行こうよ。二人で」と珍しく言うから、正直に浮かれてしまった。浮かれた気持ちで浴衣まで着てしまった。それなのに、約束の19時半を過ぎて麗は来なかった。

「遅れてごめん。マジでそれは謝る」

石段を上り終えてから、麗は頭を下げた。

「駅からの人混み舐めてた。こんなに混むって知らなくて……怒ってる?よね」

麗は小さな子どもがお母さんに叱られた時のように縮こまって、視線を彷徨わせながらおどおどしている。実際は麗の方が背が高いから上目遣いではないのだが、そんな錯覚をしそうになる。

「お祭、行ったことなかったの? これまでに一回も?」

「ない。今日がデビュー戦」

「それなのに誘ったの?」

「…………生徒会の後輩が勧めてくれた。行ったら仲良くなれるんじゃないですかって。子どものときも海外に住んでたから日本のお祭とか経験なくて」

「麗、さっきから子どもみたい」

「あのガキと一緒にしないでくれる⁉」

「違うよ。可愛いって意味」

「何、それ……焦った……」

麗は意味が分からないというようにTシャツの裾を指で引っ張った。麗は普段通りのラフな格好だが、わたしは押入れから引っ張り出してきた浴衣を着ていた。浴衣の生地に泳ぐ金魚の柄がこっちを見ている気がした。裾や袖に大きくあしらわれた蓮の葉の間を赤や黒の小さな金魚が泳いで水紋ができている。落ち着いた柄は目にも涼やかだ。

「浴衣、似合ってる。すごく綺麗」

麗は早口で言い切った。え、と思う頃には言い終えて境内の石畳に上がっていた。

「祭、初めてだから教えてよ。早く行こ!」

「……初心者のくせに遅刻は生意気!」

椿も遅れて歩き出した。下駄のカランという軽やかな足音が鳴って、すぐに祭の雑踏に飲み込まれていった。


初めて祭に来たと言う麗の言葉は本当だった。麗は屋台を見ながら「あれ食べたい」「こっちも食べよう」と綿飴や焼きとうもろこし、焼きそばを買って食べては喜んだ。その姿を横目に見ながら、こんなにお祭りを楽しめる人もなかなかいないんじゃないかと思ったりした。

空腹が満たされたら次は遊びだ。境内にずらりと並んだ屋台の通りを行き来して、型抜きやスーパーボールすくい、ヨーヨー釣りをした。麗は「こんな紙じゃすぐ破けるじゃん」とキレ気味だったが、やはり器用なのでしっかりとヨーヨーを2個ゲットしていた。ヨーヨーの輪ゴムを中指に通して手にバウンドさせて喜んでいる。口を開けて笑っている様子は

子どもよりも赤子……? 傘屋以外の場所で会うのは初めてなのに、初めてな気がしなかった。

「最後にあれやろーよ」

麗が指さしたのは射的だった。コルク栓を銃弾にした拳銃を撃って台から景品を落とすゲームだ。ああいうのって大体景品に重しがついていたりして落ちにくいように細工しているんだよな。麗に言おうとしたら隣にいなかった。

「おっさん、1回撃たせて!」

麗は屋台の中に入って小銭を渡していた。こっちを振り返って銃を構えている。好奇心で目がキラキラしていた。

「やるの?」

「銃って格好いいじゃん」

「小学生みたい」

「どれにしよっかなー」

麗は銃口を向けて的を選んでいる。

「これ」と照準を合わせたのは30cmほどの高さはあるテディベア。首には水色のリボンが結ばれていて、つぶらな黒目のビーズは茶色い毛に埋もれている。

ベニヤ板に肘をついて、照準をあわせた。

「落ち、ろ」

引き金を引いた。目に見えない速さでコルク栓が跳ぶ。テディベアの左肩に当たった。トン、という軽い音で落ちたのは────コルク栓だけ。テディベアはびくともしていない。

「え…………これ無理ゲーじゃない?」

こっちを振り返った麗は悔しそうに片眉を歪めていた。口角の端がプルプルと震えている。何でも器用にできるからこそ、初回で当てたのに景品が落ちないことが気にくわないと顔に書いてある。

そして3つの銃弾を使い尽くし、弾を当ててもテディベアは微塵も動かなかった。諦めがつかない麗はもう1回ゲームをしようと財布を出そうとした。

「そんなにあのクマが欲しい?」

「だってこれ絶対イカサマじゃん」

麗はほっぺを膨らませた。薄い頬肉がぷっくりと小さく丸を描いて、なおのこと幼く見える。

「これでお願いします」

麗が財布を出す前に、椿は店のおじさんに1ゲーム分の小銭を渡してコルク栓を受け取った。

「椿もやるの? どうせ落ちないよ」と、麗は拗ねた口調で言う。

「麗は見てて」

浴衣の袖を捲ってベニヤ板に肘をつき、銃を構えた。腰は引かずに、呼吸しやすい体勢にする。的に重りが付いていようと所詮的当ては的当てだ。狙いを定めて、一点を撃ち抜くのは弓道と同じ。

「椿…………?」

背後で間抜けた声がした。

深く息を吸って、吐く。効き目の右目だけを開けてテディベアの眉間の上を狙い、腕の揺れでずれないように固定する。姿勢が定まったら、人差し指で引き金を軽く引く。──当たる。そう確信した1秒後。ドン!というさっきまでは聞こえなかった音でぬいぐるみが地面に落ちた。端の方で店のおじさんが口をぽかんと開けている顔が見えた。

「次は何にする?」

「椿、え凄い! え、落ちたの!?」

「見ての通り」

「うわ、一発じゃん…………」

椿は床に落ちたテディベアを信じられないという眼差しで見た。その横顔を見たら誇らしい気持ちになった。自分がすごくなったみたいに感じたが、後から恥ずかしさが追いかけてきた。わたし、ドヤ顔で何やっているんだろ。でも麗は喜んでくれたからいいか。麗はテディベアを大事そうに抱きしめている。

その後も駄菓子やおもちゃを次々に射的して落としていたら、5ゲーム目になる前におじさんから「もう勘弁してくれ」と断られてしまった。あんなに棚いっぱいに景品が並んでいたのに、そのときにはスカスカになってしまっていた。

社殿の外に向かって歩きながら麗が「椿があんなに運動神経いいって知らなかった」とテディベアに顔を埋めながら呟いた。

「運動神経はあんまり良くないよ」

「謙遜? いいってそういうの」

「違くて、本当に弓道しかできない。走るの遅いし」

祭の空気は非日常で、不思議と口を軽くする。

「弓道?」

「小さい頃からやってて、高校も弓道部」

「そうなの!? だから射的も上手かったんだ」

「的当ての要領でやったらできただけだよ」

小さい頃から射的だけは得意だから、お祭りに行ったら必ずやらせてもらっていた。そのことを話すと麗は大袈裟なくらい褒めてくれた。それは、やっと椿が心を開いてくれたことに純粋に喜んでいるようでもあった。そんな風にまっすぐに話を聞いてくれるなら初めから話せばよかった。警戒しすぎていたのかもしれない。ハリネズミやハリセンボンみたいに、怯えて棘を出す動物みたいだ。こんなに明るい麗と自分は正反対にすら思えた。

「麗がお祭に行ったことなかったのは凄く意外だった」

「まだ疑ってるの」

「これだけ満喫してたら流石に信じてるよ」

「結構本気で疑ってたんだ」

「だって麗だもん」

こんな子が学校で人気者じゃないわけがない。誰とも夏祭りに行ったことがないなんて。

「私、友達いたことないから」

参道の端のぼんぼりに照らされ、麗が俯いている横顔が逆光になってよく見えない。

気づけばわたしたち以外の話し声がしなくなっていた。枝葉が風に擦れあう乾いた音がする。さっきまで近くで鳴っていた祭囃子が遠くに聞こえた。

「私、親が医者なんだけど、昔から近づいて来る人ってだいたいうちの家のことを気にしてて。おべっか使ったり、騙そうとしたり。嫉妬か知らないけど嫌がらせをされたこともあった」

ああいうことする奴って総じてダサくて嫌いだったなー、と麗は笑い声で言った。けれど、心の底から笑っているのではないことは明らかだった。

麗の家のことをわたしは何も知らなかった。話の節々から感じる生活水準からして、お嬢様だろうとは思っていたけど、本物だったらしい。だけどそんな風に傷つけられていたことは知らなくて、お腹の底が重くなるような、重力がここだけ重くなったみたいな感じがした。

麗は手水舎の桶に張られた水を指先で撫でた。

「で、もう全部気にしないことにしたんだ。他人とかどーでもよくない? 一生一緒にいるわけでもない奴の意見を真に受けるのって馬鹿らしいって。だから自分から仲良くなりたいと思ったのは椿が初めてだったんだ」

桶の淵に誰かが置いた野花が風に飛ばされて、暗闇の中に落ちた。

「何も知らなかった……」

麗の家のことを何も知らなかっただけではない。麗の心の中の孤独も、立ち直る強さも、わたしは何も知らなかった。麗はずっとわたしのことを知ろうとしてくれていたのに、わたしはその手を振りほどいてばかりいた。麗は初めての友達だと言ってくれたけれど、わたしはそんな大切なものをもらっていい人間じゃない。

わたしが深刻そうな顔をしていると思ったのか、麗は励ますように「そんな重い話じゃなくない? どこにでもある話じゃん」と笑った。

そんな暗い顔しないでよ、と麗はわたしの顔を覗き込んだ。足元の砂利が鳴る。

「私が友達いないって知ったら、見る目が変わっちゃいそう?」

「そんなこと……!」

「だったら良かった。驚かれるかと思った」

「それは、あんまり驚かないけど……友達と言うか知り合いは多くても、本当に気を許せる友達少ないのかもな、とは思ってたから」

「そう⁉ 私、友達少ないように見えるんだ」

「なんとなく……?」

距離の詰め方がぎこちない感じがしたので、割と序盤で気づいていたが麗が傷つきそうなので黙っておこう。予想は外れていないけれど、0人だとは思わなかった。

それよりも、それよりも麗のことをもっとちゃんと見ないといけない。この子はわたしに向き合おうとし続けてくれたのだから、今度はわたしから行かないと。せめて寂しい思いはさせたくない。

「でも、見る目が変わったりしないよ。麗は麗だと思う」

「ほんとうに?」

「うん」

「よかったぁ……私、椿に好かれてないのかと思ったから」

「それこそなんで⁉」

「なんとなく?」

「またこの流れ」

ちょっとおかしくて、自然と目尻がほどけたみたいに緩んだ。前屈みになって笑ったら横隔膜が震えた。こんな風に笑うのは久しぶりかもしれない。前にこういう笑い方をしたのは、表情筋の動き方を忘れるくらい前だ。

二人でけらけらと笑いながら歩いていたらいつの間にか鳥居を潜って神社の外に出ていた。小高い丘の上からは小町通りの屋根が見えた。下り階段の段差はかなり高い。

一段先に階段を下りた麗が斜め加減に振り返って「はい」と手を差し出した。

「浴衣、歩きづらいでしょ」

だから手を貸してくれるのか。その紳士めいた仕草に胸が甘くざわめいた。首筋のあたりがぞわりとする。なんだろう、この感じ。嫌だな、こんな風にドキドキするのは自分だけだということが恥ずかしい。

「大丈夫、このくらいなら下りれそう」

「そう?」

麗は手を引っ込めて、髪を小指ですくって耳にかけた。その仕草一つで絵になる。やっぱり手を取らなくて良かった。今、手なんか繋いだら脈拍の速さが伝わってしまう。汗だってかいている。変だ。おかしい。

下駄で慎重に石段を下りながら息を深く吐いたら浴衣の帯の下が苦しくなった。長い階段の一番下の段まで着いたときには多少は落ち着いていた。

神社のすぐ近くの大通りの横断歩道の前で信号待ちをしながら、麗が「私たち、友達なら連絡先くらい交換しようよ」とズボンのポケットからスマホを取り出した。友達、という響きに椿は我に返った。

芽生え始めた感情に蓋をして、「そうだよね」とコミュニケーションアプリを開いた。歩いている間に普通に息ができるようになっていた。暗闇の中では液晶画面の光が眩しい。

連絡先を登録しあって解散し、一人で帰り道を歩き始めても、どこか落ち着かなくてぼんやりしてしまった。麗の言う“友達”と言う響きが嬉しいのに、どうしてか苦しく思えてしまった。鼻から息を吸うと夏の夜の甘く湿った匂いがした。

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