3‐1.はい?



 完成した絵を、画面へ触れないよう丁寧に布で包み、僕とリザさんは、フェルディナンさんのアトリエを出た。お互い帽子と襟巻で顔を隠しつつ、美術アカデミーのサロンを目指す。



 十分ほど歩いたところで、目的の建物が見えてきた。コンクールの締切最終日だからか、学生らしき男女が、カンヴァス片手に列をなしている。僕達も最後尾へ並び、受付の順番を待つ。




「次の方、どうぞ」



 ようやく順番が回ってきた。僕は受付へ進み出て、帽子を取る。



「こちらへ必要事項をご記入下さい」



 差し出された紙に、名前や年齢、所属学校名、絵のタイトルなどを上から順に書いていく。




「……イレール君?」




 つと、名前を呼ばれた。

 反射的に顔を上げれば、そこには、美術アカデミー会員らしき男性達がいらっしゃった。先頭を行くのは、フェルディナンさんのお父様だ。名前は確か、ドミニク男爵、だったと思う。生憎ご挨拶をしたことがないので、ちょっと自信がない。


 どうも、平民はあまりお好きじゃないらしい。いつぞやに行われた絵画コンクールの授賞式で、壇上に上がった入賞者五人中、僕だけが無視されたもの。だから男爵の名前は分からなくとも、顔だけはよぉーく覚えている。気安く名前を呼ばれる間柄でも、当然ない。なのに、なんだいきなり。

 内心いぶかしみつつ、取り敢えず頭は下げておく。リザさんも、子爵令嬢らしい一礼を披露した。



 すると男爵は、リザさんが持っている布で巻かれたカンヴァスを一瞥し、僅かに眉を顰めた。




「息子から聞いたよ。昨日、コンクール用に描いた作品を紛失したそうだね。とんだ災難に見舞われたものだ。だが、こちらに来ているということは、絵は無事見つかったということかね?」

「いえ。結局見つからなかったので、新しく描き直しました」

「描き直した? 昨日の今日でか?」

「えぇ」



 すると、ドミニク男爵達は、失笑めいた声を零す。



「そうか、それは凄い。だが、たった一日、いや、半日もない時間で描いたものを、君は本気でコンクールに出すつもりかい?」

「そうですけど、いけませんか? 確かに、まだ絵の具が完全に乾いていないので、受付の方々にはご面倒をお掛けするかと思いますが」

「いや、なに。いけないというわけではない。だが、少々信じられなくてね。未完成なものを、芸術の最高峰たる美術アカデミー主催のコンクールに出そうだなんて。悪いことは言わない。止めておいたまえ。無駄に恥をかくだけだぞ? 辛うじて三等賞に入ったとしても、周りの作品との落差に笑われてしまうだろうな」

「はぁ、そうですか。お気遣い、痛み入ります」



 適当に見えないよう気を付けながら、適当にお辞儀をし、僕は記入事項を全て埋めた。間違いがないか確認してから、受付担当のスタッフへ差し出す。




「……はい、ありがとうございます。では、作品をお預かりしてもよろしいでしょうか?」

「はい。リザさん、お願いします」



 リザさんは、持っていたカンヴァスから、布を剥ぎ取る。



 途端、周りからどよめきが上がった。

 ドミニク男爵達も、目を丸くしている。



「これは……素晴らしい」



 思わず、と言った様子で、受付の担当者が溜息を吐く。すぐさまはっと目を開き、気恥しそうに


「申し訳ございません」


 と笑う。



「それでは、お預かりします」



 そう言って、受付担当者が、リザさんからカンヴァスを受け取ろうとした。




 だが、横から伸びてきた手に、掻っ攫われる。




「ふむ……」



 ドミニク男爵が、奪ったカンヴァスを眺め始めた。眉間に皺を寄せ、頻りに唸り声を上げる。



「成程、確かに見事だ。流石はエドゥアール君の元で修行をしているだけある」

「はぁ、ありがとうございます」



 会釈をしつつ、返して下さい、という気持ちを込めて、手を差し出す。けれど、男爵は無視。僕の絵を、じっと見つめている。



「いや、見れば見るほど、実に素晴らしい。これを君は、昨日の今日で描いてしまったのか?」

「そうです」

「元から構想はあったのか?」

「いえ、そういうわけでは」

「そうか……」



 すると男爵は、何故か深く息を吐いた。




「イレール君。残念だよ。まさか君が、こんな嘘を吐くだなんて」

「……はい?」

「私もアカデミー会員の端くれだ。この作品の素晴らしさは十二分に分かる。これほどの作品が、たかだか半日で描き上がるわけがないとも、分かる」



 僕とリザさんの眉が、同時に動いた。



「この絵は、完成こそ昨日の今日でしたのかもしれないが、制作自体はもっと前から行われていたに違いない。何故、半日で、などとうそぶいたのかは分からないが、まぁ、思春期特有の自意識が、そのような誇張表現を口にさせたのだろう。よくある話だ」



 やれやれ、とばかりに肩を竦める男爵。その周りにいた会員達も、なにやら含みのある笑みを僕へと向ける。



 なんだか、嫌な空気が漂い始めた。




「だが、私が問題視しているのは、そこではない。いや、正確にはそれも気になるところだが、今は一旦置いておこう。

 私が指摘したいのはね、イレール君。君が、君自身が、半日で絵を描き上げたと言っている点だ。この時点で、もう既に可笑しいのだよ」

「……一体、どこがどう可笑しいのでしょうか」

「分からないかね?」

「えぇ、全く。僕は何も後ろめたいことはしていませんから」



 すると、いかにも残念だ、とばかりに額を押さえ、大げさに溜息を吐き出した。




「何度も言うが、これほどの作品を、たかだか半日で描けるわけがない。それでも君は、描いたと言い切った」

「事実ですので」

「私はね、そういう大言壮語たいげんそうご自体は悪いとは思わない。以前から描いていたものを手直ししてコンクールに提出するのも、悪いとは思わない。けれど、この作品を君が描いたと言ってしまう、これはいけない。

 はっきり言って、この絵は間違いなく上位入選する。それほどの出来だ。なのに、何故君は最初からこちらをコンクールへ提出しようとしなかったのか? 君だって絵を嗜んでいるのだから、作品の良し悪しは分かる筈だ。もし私が作者ならば、間違いなくこちらの絵を選ぶだろう。だが、君はそうしなかった。一体何故だ?」

「本来出す予定だった絵が消えてしまったので、仕方なく昨日の夕方に急遽描き始めたからです。それまでこの世に存在していなかったのですから、選びたくとも選べません」

「成程。話はそこに繋がるのか。だから君は、昨日の今日でこの絵を描いたと言わざるを得なかった。そうでなければ、辻褄が合わないから」

「あの、ドミニク男爵。何をおっしゃりたいのですか?」



 リザさんが、若干眉を顰めながら問う。



「リザ嬢。あなたも分かっているのではないか? いや、もしかしたらあなたさえも、イレール君は欺いてみせたのかもしれない」

「ですから、それは一体何だというのです」



「つまり、この絵を描いたのは、イレール君ではないのだよ」




 ざわり、と辺りからどよめきが上がる。



 僕の眉間の皺が、一層深まった。




「普通ならば、こちらの絵をコンクールに提出するだろう。だが君はそうしなかった。別の絵を出そうとしていた。そちらの方が良い出来だった、と言われてしまえばそれまでだが、しかし、これだけのクオリティの作品を、短期間で、それも学生が、いくつも生み出せるとは到底思えない。ならばこの絵は、一体何なのか?

 答えは簡単だ。別の誰かの作品。そうであれば、説明が付く。

 しかしそうすると、また新たな疑問が生まれる。一体誰が描いたものなのか? そこで思い出して欲しい。彼のすぐ傍には、プロの画家が一人いる、と」

「……つまりあなたは、叔父のエドゥアールを侮辱している、ということでしょうか?」

「何故そうなるんだ。私はただ、この絵は君の作品ではない。よって君がこれを自分の名前でコンクールに提出するのは許しがたい、と言っているんだ」



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