4.物陰から現れたのは
「先生お願いっ。後もうちょっとだけっ」
トマが美術部顧問と学年主任に縋り付くも、首を横へ振られるだけ。既に下校時間も迫っているし、外が暗くなっては探すのも困難だろう、との判断からだ。
「それでもさぁっ」
「いいよ、トマ。ありがとう」
僕はトマの肩を掴み、周囲を見渡した。
「皆さんも、ありがとうございました。お時間を取らせてしまい、申し訳ありません。今日はこの辺で終わりにしましょう」
「でも、いいのイレール君? それだと、コンクールの締切に間に合わないんじゃ」
「大丈夫。実は、コンクール用に描いたけどボツにした奴が、いくつかあるんだ。それを徹夜で手直しすれば、まぁ、明日の締切までにはどうにかなると思う」
そう。ずっと考えていた。
もし見つからなかったら、どうするか。
真っ先に浮かんだのは、コンクールを見送る、という選択。けれどその場合、フェルディナンさんとの勝負は、自ずと僕の負けになる。
別に、構わないと言えば構わない。元々戦うつもりなんてなかったのだから。
でも、他の人はどうだ? 作業場まで設けてくれたパウル子爵家は勿論、家族や友人、美術部員、クラスメイトなど、僕を応援してくれている人達は、きっとがっかりするだろう。事情が事情だから仕方ないとは言え、それでも、期待を裏切ってしまうのに変わりはない。不戦敗より、そちらの方が嫌だった。
ならば、どうするか。
別の絵を仕上げるしかない。
正直きついが、やって出来ないわけではない。僕は昔から、美人を描くのは早いんだ。特に裸婦画は、半日で色付けまで終わらせることも度々あった。
いや、ほら、無駄なものがないっていうか、僕が苦手な服を着ていない分、そりゃあもう描きやすくてさ。集中のあまり記憶が飛んで、気付けば裸の女性がカンヴァスに横たわっている、なんて日も度々あった。
「え?」
ってなる僕の傍で、ギュスターヴ兄さんはもう大爆笑。
エドゥアール叔父さんも
「ある種の才能だね」
と笑っていた。
だから、まぁ、ちょっと露出多めで、ちょっと草木少なめな春の女神にすれば、どうにかなると思われる。
帰っていく美術部員とトマ達を見送り、僕はリザさんに頭を下げる。
「では、リザさん。申し訳ありませんが、もう一日、馬車と作業場をお借りします」
「どうぞ遠慮なくお使い下さいませ。さぁ、参りましょう」
リザさんと共に、貴族クラス用の馬車が止まっている停留所へ向かう。パウル子爵家の馬車は、既にきているらしい。それに相乗りさせて貰い、子爵邸へお邪魔するのだ。
頭の中で、作業場に着いてからの段取りを確認しながら、足早に歩いていると。
「……イレール君」
物陰から、いきなり人が現れた。びっくりして、思わず声を上げて仰け反る。
「あ、す、すまない。驚かせるつもりは、なかったんだ」
相手も、僕の声に相当びっくりしたらしい。丸くした目へ、すぐさま申し訳なさそうな色を浮かべる。
「いえ」
と反射的に否定したところで、僕はもう一度驚いた。
何故、ここにフェルディナンさんが?
しかも、人目を避けるようにしているなんて。
「イレール君。その……君の絵は、見つかったのかい?」
「……いえ。学校の敷地内は隈なく探したんですが、結局見つかりませんでした」
「そうか……」
目を伏せて、フェルディナンさんは眉間へ皺を寄せた。拳も握り、なにやら思い詰めている様子だ。
どうしたのだろう。もしかして、何か心当たりでもあるのだろうか。
「あの……」
「イレールさん」
つと、リザさんが囁く。
「そろそろ、参りませんか? 時間もあまり残されておりませんし」
「あ、そうですね。あの、フェルディナンさん、申し訳ありません。僕、これから別の絵を仕上げ直すので、お話がないようでしたら、これで失礼させて頂きます」
「仕上げ直す、とは……これから?」
「はい」
「大丈夫なのか?」
「正直、厳しいですけど、やれるだけやってみます。一応、描きかけのものがいくつかありますから、それを使えば、明日の締切までには間に合うんじゃないかと」
フェルディナンさんの顔が、ゆっくりと歪んでいく。苦しみを押し殺すかのように、僕から目を逸らした。きつく噛み締められた唇から、何か言葉が出てくる気配はない。
「えっと……では、僕はこれで。失礼します」
「っ、待ってくれ」
不意に、腕を掴まれる。
フェルディナンさんは、真っ向から僕を見つめてきた。
「子爵家の馬車には乗らない方がいい」
「え?」
「それはどういう意味ですか、フェルディナンさん」
僕よりも先に、リザさんが声を上げた。
「そのままの意味です」
「ですから、何故そのようにおっしゃるのかと、わたくしは伺っているのです。我が子爵家の馬車は、毎日御者が丁寧に点検を行っております。とても不備があるとは思えませんが」
「リザさんのおっしゃる通り、馬車に問題はありません。あるのは、行き先の方です」
「イレールさんが子爵家に行くと、一体何の問題が? 作業場はあちらにあるのですよ。行かなければ、作品作りに取り掛かれませんわ」
「……行ったとしても、取り掛かれないとしたら?」
どういう意味だ? 思わず眉を顰め、フェルディナンさんの言葉を待つ。
フェルディナンさんは、迷うように目を彷徨わせた。眉間の皺も深め、苦々しく口を開く。
「理由は、後で話す。だから、どうか私を信じて欲しい。私を信じて、付いてきて欲しい。頼む」
そう言うと、深く頭を下げた。
僕とリザさんは、困惑に顔を見合わせる。
「……あの、フェルディナンさん。何故、そのようにおっしゃるんですか? 自分を信じて欲しいというのは、一体どういう意味なのでしょう?」
「すまない。まだ言えない。だが、必ず言う。けじめはきちんと付ける。私はただ、君を守りたいんだ。それだけなんだ」
「その言葉が本当だという根拠は、ありますか?」
「……ない。ただ信じて貰うしかない。私の発言が疑わしいのは、重々承知している。それでも、頼む。決して悪いようにはしない。君の名誉を、必ず守ってみせる。だから、どうか。どうか、この通りだ」
一層腰を折り、フェルディナンさんは動かなくなった。
そんな彼の
「……分かりました」
「っ、信じてくれるのか?」
「全部ではありませんが」
「……ありがとう。少しでも信じてくれて、本当にありがとう」
フェルディナンさんは胸に手を当て、改めて頭を下げた。それから、体を反転させる。
「では、早速だが着いてきて欲しい。二人共、こちらへ」
フェルディナンさんの後を追うと、そこには辻馬車が止まっていた。素早く三人で乗り込み、どこかへと走り出す。
「……フェルディナンさん」
不意に、僕の隣に座るリザさんが、身じろいだ。
「もしお答え頂けるのならば、お答え下さい。あなたは先程、パウル子爵邸へ行っても作品作りに取り掛かれない、というような趣旨の発言をされていました。更には、イレールさんを守りたいとも。それはつまり、子爵家の馬車で我が家へ向かった場合、イレールさんの身に危険が及ぶ、ということでしょうか?」
「……その可能性があると、私は思っています」
息を飲む音が、二つ落とされる。
「ですが、確実に、とも言えません。あくまで可能性の話です」
「っ、いくら仮定の話だとしても、そのように物騒な可能性がある時点で、可笑しいではありませんか。一体何が起こっているのです? イレールさんは、一体何に巻き込まれているのですか?」
「……申し訳ありませんが、今は言えません」
「何故言えないのですか」
「現段階では、私の想像でしかないからです。証拠がありません。だから下手な発言は出来ないのです。どうかご理解下さい」
「ならばその証拠はいつ手に入るのですかっ」
「……絵画コンクールの受付が締め切られるまでには、必ず。必ず見つけてみせます」
フェルディナンさんの言葉と目に、力が籠る。
あまりの気迫に、リザさんは何も言えなくなった。僕も、言葉が出てこない。
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