3.◆とある子爵令嬢はほくそ笑む◆
◆ ◆ ◆
「リザお嬢様、なにか良いことでもございましたか?」
迎えの馬車に乗り込む際。リザは、子爵家に仕える御者から、そう声を掛けられた。
思わず振り返れば、柔らかく微笑む御者と目が合う。
「本日は、どことなく晴れやかなお顔をなさっていますので」
「……そうかしら?」
「えぇ。少なくとも、ここ最近のように、浮かない表情はされておりませんよ」
リザは、一つ目を瞬かせた。
それから、つと、口角を緩める。
「そうね。今日は、良いことがあったわ」
「左様でございますか。それはよろしゅうございました」
ふふ、と喉を鳴らし、リザは馬車の座面へ
流れる街並みを窓から眺めつつ、リザは、今日の出来事を思い返した。
何度となく現れる男爵子息。逃走を手助けしてくれる友人。クラスメイトも、さりげなくリザを隠してくれたり、代わりに男爵子息の相手をしてくれたりしている。
だが、他の貴族クラスの生徒や、平民クラスの生徒は、そうではない。
ここぞとばかりに囃し立てたり、妙な噂を流したり、ありもしないリザの非を、聞こえよがしに囁いてくる者もいた。
見世物扱いをされているようで、気分が悪かった。いくら友人達が気にするなと言ってくれても、悪意はどうしても耳に入り込んでくる。
身体的な内容については、特に。
ちらと、目線を下げる。
途端、膝に乗せた手が見えないほど大きな胸が、視界の半分を占領した。
母親譲りのそれは、昔は嫌いではなかった。だが、年齢と共に成長していくにつれて、どんどん周りからの視線を集め、同時に厭らしい感情も向けられるようになる。褒め言葉に見せ掛けた嫉妬や嘲笑も、何度となくぶつけられた。
望んで手に入れたわけでもないのに、何故こうも言われなければいけないのか。自分ではどうにもならぬことを、一体どうやって処理すればいいというのだ。感情に任せて怒鳴り付けてやりたかった。
けれど、自分は子爵令嬢。貴族として、そのような振る舞いは褒められたものではない。父の評判にも関わる。だから、ぐっと堪え、やり過ごすしかないのだ。
頭では分かっている。
しかし、どうしても納得がいかない。
何故。どうして。そんな想いのまま、今日も逃げた。見つかってしまいそうで、形振り構わず走っていたら、いつの間にか平民クラスがある棟の方まできていた。
普段足を運ばない場所だったから、どこがどうなっているのか分からない。それでも、男爵子息と鉢合わせたくない。その一心で、兎に角前へ前へ進んでいく。
そうしたら、彼と出会ったのだ。
エドゥアール画伯の弟子にして、芸術界の次世代を担う一人と謳われている、若き天才。
「……イレールさん」
呟いただけで、リザの唇は、自ずと弧を描いた。
突然やってきたリザに驚く顔。
この場に留まると言われ、戸惑った顔。
スケッチブックに向き合う真剣な顔。
唐突に褒められ、困ったような、照れているような顔。
そして、話し掛けてくれて嬉しいと、そう言って浮かべられた、控えめな笑顔。
どれもこれも、リザを苦しめてきた感情は含まれていなかった。その目がリザの胸に向かうこともなく、只管スケッチブックの中の野良猫へと注がれる。
自分という存在に興味を持たれないことが、こんなにも気楽だと思わなかった。ここのところ、ずっと誰かしらの目に晒されていたから、殊更そう思う。
悪意や好奇から解放されたあの瞬間は、今のリザにとって、正に救いのひと時だったのだ。
気付けば、またこの場所へ来ても良いかと、口に出していた。
きっとあそこは、イレールの隠れ家だったに違いない。なのに無粋にも踏み込んで、更には居座ろうとするなんて。貴族の令嬢としてだけでなく、一人の女性としても、褒められた行為ではなかったと重々承知している。
けれど、イレールは許してくれた。
自分もいるかもしれないが、それでもよければ、と迎え入れてくれた。
本心からか、それとも渋々だったのかは、分からない。もしかしたら、リザを哀れに思っての言葉だったのかもしれない。
なんにせよ、頷いてくれたのだ。ならばその気持ちに少しでも報いられるよう、不快に思われない振る舞いを心掛けるべきだろう。
「何か、お菓子でも持って行ってみようかしら……」
それから、美術関連の話を仕入れておこう。お父様なら、最新の情報をご存じに違いない。
次世代のエースと知り合ったなんて聞いたら、お父様は一体どんな顔をなさるかしら。リザの口元は、音もなく緩んでいく。外を眺める眼差しも、弓なりに細まった。
明日の学校が楽しみだわ。
ここしばらく感じていなかった高揚感に、リザは豊満な胸をそっと手で押さえた。
◆ ◆ ◆
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