空と地

 ――夢を見る。降りる駅で降りずにずっと電車に乗り続けることを。

 ――夢を見る。高い所で気持ちいい風に吹かれることを。

 ――夢を見る。自由に空を飛べることを。


 跳べる、飛べる、翔べる。

 自分は飛べると錯覚する。この高い所から足を踏み出せば自由に飛べると。

 空高く、気持ちいい風に乗って青い空を飛びたい。手を広げ羽ばたきたい。

 きっと気持ちいい。幸福感、万能感、全能感に浸れるだろうことを夢想する。なんのしがらみもなくなんの枷もなく飛べる。どんなに気持ちいいだろう。それがただ落ちるだけだとしても、地面に激突するその寸前まで、自分は幸福感に浸れるだろう。

 飛びたい、跳びたい、翔びたい。

 暗示のように、命令のように脳内で言葉が響く。いますぐに足を空中に踏み出そう。

 ほんの数秒後にはそれが叶うことを確信する。その衝動に従い足を前に出そうとした時、声が耳に届いた。


「死ぬ気か、貴様」


 突然の声に振り向くと女性が立っていた。白のブラウスに黒いスラックス姿。手には黒い缶コーヒーを持ち、少し離れた所からこちらをただ眺めていた。


「誰?」


 結んだ長髪が風に揺れている女性へ問う。


「いい風に吹かれながら一服したかったのに。今飛び降りなんかされたら煙草が不味くなるだろうが」


 女性は強い口調で言った。


「せめて死ぬなら私が煙草を吸い終わってからにでもしてくれないか。騒ぎになったら心休まらんだろうが」

「僕のこと、止めないの?」

「死ぬのは君の自由だろう。私は私の煙草を吸う自由を邪魔しなければ構わんよ」


 涼しい顔でなに食わぬように女は言ってのけた。


「……」


 黙って彼女を見ていたが、彼女は無表情のまま踵を返して屋上の入り口の中へと消えた。そしてすぐに畳まれたパイプ椅子を持ってきて僕の5メートル程前に広げて座った。

 手に持っていた缶コーヒーを開けて一気に飲み干すと、胸ポケットから煙草の箱とライターを取り出し煙草へと火を点けた。

 一息吸うと、安堵するかのように煙を吐き出した。


「旨いな」


 彼女の一連の光景をただじっと見ていることしか出来なかった。ただの人形のように、かかしのように立ち尽くして見ることしか僕は出来なかった。

 彼女は見られている視線に気づき、虚空からこちらへと視線を向け足を組んた。


「一本吸うか?」

「いや、いらないです……」


 そう答えるのがやっとだった。それ以外にどんな言葉を返せばよいか思い浮かばない。


「で、青年よ。なんで飛び降り自殺なんかするんだ? いじめが原因か?」

「自殺だって決めつけないでください。それに飛び降りるんじゃなくて飛ぼうとしてたんです」

「はっ」


 女は鼻で笑った。


「飛べないだろうが。そのまま地面へ激突して死ぬだけだぞ」

「飛べるんです。落ちるだけだとしても、激突する寸前までは飛べてるんです」

「それは君の錯覚だろうが。他から見れば飛び降りて落ちて死んだとしか思われんぞ」


 彼女の言うことにムッとする。


「例えそうだとしても、僕にとっては飛べてるんでいいんです」


 何をこんなムキになる必要があるんだろうか。冷静になるために後ろの風景を見る。

 どこまでも続くビル群。高い高い青い空。先程と同じ交わることのない世界がそこには広がっていた。


「おいおい、まだ私は吸い終わってないぞ青年」


 彼女は飲み終わった空き缶に煙草の灰を落としていた。まだ煙草は少ししか短くなっていなかった。


「あなたには関係ないですよね」

「関係あるさ。ここで君が飛び降りて私が誰かに見られでもしたら、関係者と思われて連行でもされるだろうが。そんな厄介ごとに巻き込まれるのは困るんだが」

「人が死んでるのに自分の心配をするんですか?」

「まだ死んでないだろ。それに死んだ後の心配なんかしてどうするんだ? 死後は認識なんて出来ないんだからさ」

「それはそうでしょうけど……」


 何も言えなくなって黙り込む。この人のズレた感覚に付いていけそうになかった。


「で、飛ぶとしてその理由は? 実はいじめてた側でいじめが発覚したからか?」


 いじめが原因で自殺しようとしていると、決め込んでいるようであった。


「学生の死ぬ理由がいじめだなんて決めつけないでください。それに僕はいじめられてなんていません」

「そうか。高校生なんだから、まだ死ぬ必要は早いと思うが」

「高校生じゃなく、大学生です」

「青年に変わりはないだろう。まだまだ人生は長いぞ、青年」

「これから先のことなんて考えてません。今、飛ぶことだけを考えているんです」


 彼女は目を閉じ、吸った煙草の煙をゆっくりと吐き出した。


「何を考えているのかさっぱりだな」


 それはこっちのセリフでもあった。


「あなたは何をしにここへ? わざわざ煙草を吸いにだけ来たんですか?」

「そうさ、ここは私の特等席でね。屋上で吸う煙草は旨いんだ。景色も悪くないしな」


 確かに景色は悪くなかった。8階建ての廃ビルから見える景色とは思えなかった。普通のビルとして整備されていれば、快適な屋上スペースになっていただろう。


「いつもここに?」

「ああ。晴れてる日で時間がある時はな。仕事場からも近いし」


 二十代後半ほどの彼女が、どんな仕事をしているのか気になった。


「仕事は何をしてるんです?」

「自由業さ」

「自由業って、どんなことを?」

「色々さ。飢えないようにはしてるから心配は無用だ」


 そう言い、煙草の灰を空缶の中へとまた落とした。


「別に心配なんてしてません。あなたみたいな人がどんなことをしているのか気になっただけです」


 彼女は答える気がないのか、無言のまま上を向き空を見上げた。


「さっきの質問の続きなんだが、飛ぶ理由ってなんだ?」


 顔をこちらに向けて再度同じ質問をした。


「飛ぶために……」

「飛ぶために飛ぶ……か。哲学だな」


 関心を示さない口調で彼女は漏らした。

 飛ぶ理由。飛ぶため以外の理由を探せば、それは「漠然とした不安」だった。言葉に出来ない漠然とした不安があるから。

 その漠然とした不安から飛びたい、飛ぼうと心は動いていた。

 飛ぼうと思えば飛べる。

 高く、高く、青い空へ。

 全身が身軽になって、地から離れられると信じられた。


「あなたは自分は飛べるって思えないですか?」

「思えんな。落ちるというなら分かるが」


 短くなった煙草を小さく一吸いすると、缶へと落とした。煙草を吸い終わったようだった。


「お前も本当は飛べるなんて思ってないだろう? 飛行は出来ないと」

「そんなことないです! 信じれば、暗示すればそうなると思ってます」

「飛ぶではなく、それではただの逃避だ」


 面白くないという顔をして、彼女はこちらを見た。


「まあ、もう煙草も吸い終わったし、私はここらでおいとまするよ」


 立ち上がり空缶を持ったまま彼女はパイプ椅子を畳んだ。


「君が何をしようと君の勝手だ。止めもしないし、推奨もしないよ。私の喫煙と同じだ。煙草は自由の象徴だからな」


 彼女はそう言って後ろを向くと、パイプ椅子を引き摺りながら一度もこちらを見ずに屋上入り口へと消えていった。

 一人取り残された屋上で僕は振り向く。そこには変わらず遠大な景色が広がっていた。眼下に見える車やコンクリートも変わらずに存在し続けていた。

 ずっと立っていた屋上の端から屋上内へと足を戻す。何故そうしたのかは分からない。

 もう、飛ぶ気がなくなっていた。先程までの衝動と決心は霧散してしまっていた。


「……飛びたかったんだろうか?」


 口からは自問自答とも言えない言葉が漏れ出た。


「きっと、今日は飛べないだろう」


 一言呟き終えると、僕は屋上入り口へと歩き出していた。


(終)

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空と地 頭飴 @atama_ame

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