第十二章 新たなアンサンブル
第十二章 第一話
夏の終わりを告げる風が、青葉市の街を静かに吹き抜けていた。八月の蒸し暑さはまだ残るものの、朝夕には秋の気配が漂い始め、風の質が微妙に変わりつつあるのを感じる。この街特有の、湿度を含みつつも軽やかなそよ風が、大学キャンパスに建つ音楽棟の大きな窓をやさしく叩いていた。
音楽棟の窓から差し込む陽光は、真夏の強烈な白さではなく、どこか柔らかく、穏やかな色合いを帯びている。高い空とわずかに色づき始めた木々の葉が、キャンパス内に次なる季節の訪れをそっと告げていた。
そんな午後のひととき、奏太は練習室のピアノの椅子に腰掛け、指を鍵盤の上で休ませていた。サックスを専門とする彼にとって、ピアノはまだまだ未知の領域だ。とはいえ、夏休み中に水上の手ほどきを受けたこともあって、簡単な曲なら弾けるようになってきた。以前は「自分にはピアノは難しすぎる」と感じていたものの、挑戦してみるとその構造や和声感覚が楽しく思えてくるから不思議だ。楽器としての扱いは当然サックスとはまるで違うが、異なるアプローチを学ぶことが、奏太の音楽観をぐんと広げてくれた。
「まだまだだな……」
奏太は小さく苦笑いしながら、目の前に広がる鍵盤にそっと触れた。音が穏やかに響いて部屋の壁に反射する。夏休みの間に水上から教わった練習曲の中でも比較的やさしめのフレーズを、ゆっくりと弾き始めた。単純なコード進行でありながらも、一音一音を丁寧につないでいくことで初めて美しいメロディラインが浮かび上がる。楽譜を追う目は真剣だが、その表情にはどこか楽しげな集中が感じられる。
そんな穏やかなピアノの音が響く中、ドアが静かに開いた。水上が二つの紙カップを手にして部屋に入ってくる。軽く上着を羽織った姿からは、外の風が少しだけ肌寒くなっているのだろうと想像できる。
「お疲れ様」
水上は微笑みながら奏太にカフェラテの入った紙カップを差し出した。そのカップからはほのかなコーヒーの香りが立ち上り、秋の入り口に相応しい、やわらかな温かさを感じさせる。
「まだまだだよ。とくに左手の独立がどうも難しくて……でも、ピアノの構造を知ることで、アンサンブルのときに響の演奏をより深く理解できるようになった気がする」
奏太はそう言いながらカフェラテを受け取り、一口含む。身体にやさしく染み込むような温度と、ほんのり香ばしい味わいにほっと息をついた。
「それが狙いだったんだ」
水上の声には穏やかな満足感が滲んでいる。
「サックスとピアノは確かに違うけれど、共通する要素も多いしね。お互いの楽器の役割を理解しあえると、アンサンブルが格段にまとまってくる」
水上は奏太の隣に腰掛けると、自分のコーヒーからゆっくりと湯気を吸い込み、口をつけた。その様子を見ていると、ピアノという楽器自体が彼にとって特別な存在であることが改めて伝わってくる。かつて腕の故障により演奏から離れていた期間の苦悩や、そこから再び舞台に立つまでの道のりを思い出すと、水上がこうして「教える側」にまわっている姿には感慨深いものがある。
二人は軽く肩が触れ合う距離を保ちながら、少しの間、言葉を交わさずに座っていた。大学祭からもう三ヶ月ほどが過ぎ、新学期が目の前に迫っている。あの舞台で、二人の音楽と想いが重なり合った日の記憶は、まだ鮮明に心に刻まれている。これまで遠かったように思えた水上の存在が、今ではこんなにも近く感じられるのだから、人生は何が起こるか分からない。
「そういえば、村瀬教授から連絡はあった?」
奏太がふと思い出したように尋ねる。教授はいつも丁寧で厳格だが、同時に学生の力を伸ばしてくれる教育熱心な人でもある。
「ああ。来週あたりに打ち合わせをしたいって。十月の音楽祭の件で話があるみたい」
水上はコーヒーの紙カップを置きながら答える。大学祭の演奏が地元で評判を呼んだこともあり、市の文化事業「青葉音楽祭」への出演オファーが舞い込んでいたのだ。特に水上の場合、十年前に同じ舞台で賞を受けて以来の再出演ということで、市の関係者たちも大いに注目しているらしい。
「十年ぶりの音楽祭……正直、俺はかなり緊張してる」
奏太は率直な気持ちを口にした。自分はまだ学生で、経験も浅い。そんな自分がかつての"名演奏者"と並んで同じステージに立つなんて、想像するだけでも緊張するのは当然だ。
「でも、共演できるのが嬉しいよ。十年前、君が演奏した舞台と同じ場所で、今度は俺も一緒に立てるんだから」
その言葉には率直な喜びとほんの少しの照れが混ざっていた。奏太の目には水上が演奏する姿が浮かんでくる——幼い頃、偶然出会った演奏会での水上の輝かしい姿と、今や自分の隣にいる大切な存在としての水上。時間が描く奇跡的な軌跡に、奏太は胸が熱くなるのを感じた。
水上は柔らかな笑みを浮かべながら、小さく頷いた。そして言葉にしない親しみを込めて、そっと自分の左手の指輪に触れる。大学祭の夜に奏太に渡した、お揃いの音符のモチーフが施されたシルバーリング。それは二人にとって、単にアクセサリーというだけでなく、音楽を介して交わした深い絆を象徴するアイテムになっている。
「佐伯先輩も出演するんだよね?」
「うん。今日も練習に来るはずだけど、少し遅れるって連絡があった」
ちょうどその話をしているタイミングで、ドアが開いた。佐伯が姿を見せる。夏の日差しを浴びてきたのか、少し日焼けした肌がより健康的な印象を与える。彼の持つトランペットケースも、どこか旅をしてきたかのように外側がうっすらと色褪せているように見えた。
「お疲れ様、先輩。ボランティアはどうだった?」
奏太が声をかけると、佐伯はトランペットケースをそっと下ろし、満面の笑みを浮かべた。普段の彼からは想像できないほどの輝きが、その瞳に宿っている。
「すごく良かったよ。子供たちが素直に音楽を楽しんでいる姿を見ると、こっちまで嬉しくなる。教えるのって、楽器の技術だけじゃなくて、音楽そのものの楽しさを伝えることが大切なんだなって改めて気づかされたよ」
その言葉には、まるで新たな扉が開かれたかのような喜びがあった。佐伯は大学祭まではただ「演奏者」としての自分を磨いてきたが、子供たちと接した経験を通じて、音楽教育という道に意義を感じ始めたらしい。彼の顔には、自分の進むべき方向を見つけた人特有の、穏やかだが確かな光が宿っていた。
「それで——音楽祭の演目、もう決まってる?」
佐伯が聞いてくる。視線は奏太と水上を行き来しており、三人で作り上げるアンサンブルへの意欲が見て取れる。
「『光と影のアンサンブル』をベースに、新しいアレンジを入れたいと思ってる。大学祭のときよりも、さらにスケールアップさせよう」
水上が具体的なアイデアを語り出すと、佐伯も真剣な表情でメモを取るように頷く。
「いいね。トランペットのパートにも、もっとジャズっぽい即興やソロを盛り込めないかな。音色を重ねることで、曲に厚みが出ると思う」
「そうだね。クラシックの要素とジャズの自由度をうまく融合させたい。俺たちの強みはそこにあるから」
三人で意見を出し合っているうちに、部屋の雰囲気が一気に活気づいていく。夏休みの間に各々が伸ばしてきた技術や感性が、今まさにひとつの場所に集まって相乗効果を生んでいる——そんな実感があった。窓から差し込む柔らかな陽光の中、楽器を構えた三人の音が少しずつ重なっていく。
水上がピアノの鍵盤を軽く叩いてリズムを作り、奏太のサックスが繊細なメロディを奏でる。そこに佐伯のトランペットがアクセントを加え、瞬く間に部屋が音の洪水に包まれた。音が重なり合うたびに、新たな響きが生まれ、それを聴く誰かの胸を震わせるに違いない。
そうして充実した合奏をしばらく続けた後、時計を見るとすっかり夕方になっていた。秋の夕暮れは夏よりも早く、日が落ちる時刻が近づくと急に空気が冷えてくるようにも感じられる。
「さて、今日はこのあたりにしておこうか。明日も練習があるし、体力を温存しないと」
水上がそう提案すると、奏太と佐伯も納得した様子でそれぞれの楽器をケースに収める。音楽祭に向けての準備はまだ序盤だが、三人の心にはやる気と希望が満ちていた。
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