第九章 第四話

 水上と佐伯は寮の部屋で顔を合わせていた。響は自室にある電子ピアノを使って、大学祭で演奏する曲のデモ音源を作ろうと試行錯誤していたところに、佐伯が訪ねてきたのだ。


 部屋の中は整理整頓され、ベッドカバーの落ち着いた色合いと、壁に掛けられたいくつかの音楽関連のポスターが目を引く。作曲家のモノクロ写真や、ジャズライブのフライヤーなどがバランスよく並べられており、水上のクラシックとジャズへの複雑な憧憬を物語っている。


 佐伯は部屋に入るなり、少し居心地が悪そうに微笑む。


「悪いね、こんな遅い時間に。あ、これ、ちょっとした差し入れ」


 そう言って佐伯が差し出した紙袋には、シュークリームやドーナツなどの甘いお菓子がぎっしり詰まっていた。


「こんなにたくさん……?」


 水上は苦笑いを浮かべながらも、その気遣いが嬉しいと感じる。


 佐伯は部屋の中央に置かれた電子ピアノに目をとめる。ヘッドフォンが差し込まれており、先ほどまで水上が一人で演奏していたことがわかった。


「葉山くんから聞いたよ。三人で演奏するって本当?」


 佐伯の問いかけに、水上は頷く。


「うん。実はかなり乗り気なんだ。奏太も俺も。けど、瑞樹が断ったらどうしようって少し心配してたんだけど……」


 その言葉に、佐伯は口元に笑みを浮かべる。


「むしろ嬉しいよ。ただ、本当に僕でいいのかっていう不安はある。でも、一緒にステージに立ちたいって気持ちもあるよ」


 高校時代からの思い出話が自然と始まる。二人は同じ吹奏楽部で共に演奏していた時期があり、数多くのコンクールやイベントで同じステージに立ってきた。佐伯は当時から穏やかな性格で周りをまとめるのが得意で、水上の良き理解者でもあった。


 それがいつからか、お互いの心の中に微妙な変化が生まれ、佐伯にとっては水上への特別な感情へと変わっていった。それが叶わぬ想いだと知りながらも、ずっと近くで支え続けてきたのだ。


 水上は電子ピアノの椅子に腰掛け、佐伯に向けて手招きをする。


「じゃあ、ちょっと聴いてほしい。今のところこんな感じで作ってるんだ」


 そして、ゆっくりと鍵盤を叩き始める。クラシックの基本骨格を活かしながらも、リズムにはジャズの柔軟さが入り混じっている。水上はメインテーマを弾き終わると、途中で伴奏だけに切り替え、旋律が入る余地を示す。


「ここに、奏太のサックスが入る。で、その後、瑞樹のトランペットが対旋律を重ねてくれたら……」


 佐伯は静かに聴き入り、頭の中でトランペットのラインを思い描く。彼の指先は無意識のうちに空中で運指をしているようで、その様子が水上には微笑ましく映る。


「なるほど……僕のイメージだと、ここはもう少しハーモニーを厚くすると面白そうだ。例えば、サックスが低めの音域で支えるなら、トランペットは少し上の音域を強めに出すとか」


「そうだね。それなら音に立体感が生まれて、三人が交差する感じがもっと鮮明になりそうだ」


 そう言いながら水上は楽譜を取り出して、佐伯と一緒に眺める。書き込みはすでに相当な量にのぼり、もともとの譜面の半分以上が加筆で埋まっている。


「実際のところ、大学祭でのステージはあまり長い持ち時間はないんだ。でも、なるべく三人の良さを引き出したいから、曲はコンパクトにしつつも中身は濃くしたい」


 水上の意見に、佐伯はうなずく。


「なら、こういう構成はどうだろう。最初はピアノのソロで静かに始めて、途中からサックスが入ってだんだん盛り上がる。で、一度ピークを迎えたら一旦抑えて、そこからトランペットが入る。そして最後に三人の音が合わさってクライマックスへ……」


 それはあたかも、新しく築かれた彼ら三人の関係性を音で表すかのようなアイデアだった。始まりは小さな光――それが徐々に広がり、人々を包み込む。やがてさまざまな影や苦悩が顕在化し、一度は闇に沈むような瞬間があったとしても、最終的には三つの音色が重なり合って明るい未来へと続いていく。


 水上は佐伯の意見を聞いて、目を輝かせる。


「それいいな。まるで物語を演奏しているみたいだ」


 佐伯も満足げに頷いた。


「いつか、この曲を音源化して、多くの人に聴いてもらえたらいいな。僕たちの大切な思い出にもなるだろうし」


 二人はそう話しているうちに、お互いが抱えていたわだかまりや遠慮が溶けていくのを感じていた。佐伯にとっては、水上を“恋愛対象”として好きであった思いが完全に消えたわけではないにしても、今は心から祝福したいという気持ちが勝っている。水上を支える形が、以前とは異なるだけなのだ。


 水上も、佐伯がそばにいてくれることを素直に喜んでいる。自分が高校時代からともに歩んできた親友の音が、あらためて必要だと感じられるようになったのだから。


 やがて、二人は楽譜に新たな構成を描き込み、ひとしきり意見交換を終えた。甘い匂いを漂わせるドーナツにかぶりつきながら、ひと休みをした後、佐伯は明日からまた頑張ろうと言い残して部屋を後にした。


 水上は去っていく佐伯の背中を見送りながら、心の中でそっと感謝の言葉を呟く。多くの人に支えられて、ようやくここまで来られたのだ――この感謝を音楽で返そう。そう思いながら、水上は電子ピアノの椅子に座り直し、もう一度鍵盤に手を置いた。

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