第九章 第二話

 水上の失踪騒ぎのあと、無事にコンサートに出場することができた。急ピッチで曲を仕上げたため、周りからどのような反応をされるか気になったが、本人たちの不安を払拭するほどの大絶賛だったのだ。


 コンサートを無事に終えた奏太と水上は村瀬教授の研究室を訪れていた。長年音楽教育に携わってきた教授の部屋は、いつ訪れても整然としている。壁には音楽理論や作曲関連の専門書がずらりと並んでおり、棚の上には古い作曲家たちの肖像画が飾られていた。部屋にはグランドピアノが置かれ、窓際には頑丈そうな木製の机が据えられている。


 村瀬教授はその机の前の椅子に腰を下ろし、軽く組んだ腕の上に顎を乗せるようにして二人を見つめていた。自分の学生を慈しむようなまなざしの中に、厳しさとも呼べる鋭い観察眼が混在している。


「おや、今日は二人そろって。どうしたんだい?」


 教授はほほえみながら尋ねる。


 水上が進み出て、一礼をした。


「先生、実は今度の大学祭のことでご相談がありまして……」


「大学祭での演奏かな?」


「はい。実は僕たち、クラシックとジャズを融合させたオリジナル曲を作っているんです。僕が骨格となるピアノの旋律を作って、奏太がそこにジャズ的なアレンジや即興を加える形で。大学祭のステージで披露できたらと思うのですが……」


 響が言葉を切ると、奏太が続ける。


「まだ完成には至っていないのですが、曲名は『光と影のアンサンブル』にしようと考えています。先生に聞いていただいて、何かアドバイスをいただけたらと」


 教授は一瞬目を丸くしてから、満面の笑みを浮かべた。


「それは興味深い。二人の化学反応がどんな音楽を生み出すのか、私も楽しみで仕方ないよ。ぜひ協力させてもらいたい」


 そう言って立ち上がると、彼は書棚のほうへ歩み寄り、何やら古い木箱を取り出した。その中を探ると、一枚の写真をそっと取り出す。


「実はね、君たちを見ていると、この写真を思い出すんだ」


 教授が差し出した写真には、小さなホールのステージでピアノを演奏している少年の姿が映っていた。どこかあどけなさが残る面差しながら、集中力に満ちた表情で鍵盤に向かっている。その姿は、今の響にも通じるものがある。


「響、これ……君じゃない?」


 奏太は目をこらして写真をのぞき込み、思わずつぶやく。


 水上自身も驚いたように息をのむ。


「十年前の地方音楽祭で撮ったものだよ。実は私も偶然その場に居合わせてね。当時はまだ若手の指導者として活動を始めたばかりだった。水上君はすでに将来を嘱望されていたし、その演奏を聴いて大いに感銘を受けたんだ」


 教授は懐かしそうに微笑む。その表情には、かつての記憶が鮮明に浮かんでいるかのようだった。


「葉山君の入学試験の演奏を聴いた時、私の脳裏にあの時の音楽祭で感じた“特別な何か”が呼び覚まされたんだよ。もちろん、君があの会場にいたかどうかまでは知らなかったけれど……どこか不思議な縁を感じたのは確かだ」


 奏太と水上は驚きのあまり顔を見合わせる。


「先生がわざと僕たちをアンサンブルのパートナーにしたのは、もしかして……」


「そうとも言えるし、そうでないとも言える。私はただ、音楽の力を信じていただけさ。二人が出会えば、きっと面白いことになると思ったんだ。結果的にこうして、新しい曲を生み出そうとしているんだから、私の勘も捨てたもんじゃなかったな」


 教授は二人に写真を手渡す。写真の少年――幼き日の水上響は、今と同じように集中力にあふれ、その背後には薄くカーテン越しの日差しが射していた。


「これは私から君たちへのプレゼントだ。記念に受け取っておくといい。君たちが新しい曲を完成させた時に、また見返してほしいんだ」


 水上はしみじみと写真を見つめながら、深く頭を下げた。


「ありがとうございます。あの頃は確かに、ピアノしか見えていませんでした。それが今は、こうして奏太やいろいろな人たちと関わることで新しい世界を知りました。自分の音楽を創るということが、こんなにも自由で、こんなにも楽しいだなんて……」


 奏太もまた、写真の中の姿に思いを馳せる。記憶は曖昧ながら、子供の頃に初めて聴いたピアノの音に心を奪われた瞬間がよみがえるような気がしていた。


「僕はジャズばかりやってきたけど、クラシックとの融合がこんなにも刺激的だなんて想像もしませんでした。響が教えてくれる理論や技巧は、僕にとって新鮮な発見ばかりです」


 村瀬教授は嬉しそうに二人を交互に見つめる。


「二人の成長が私の楽しみでもある。ぜひ大学祭で、その成果を存分に披露してくれたまえ。私もあの日感じた感動を、もう一度味わいたいからね」


 そう言って教授は鷹揚に笑う。研究室を出るとき、二人の足取りはどこか軽やかだった。過去と現在が繋がったという確かな手応えと、未知の可能性への高揚感。それらが胸の奥で温かな火をともしているかのようだった。

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