第八章 第二話
大学の構内を出ると、激しい雨が容赦なく体を打つ。佐伯からもらった傘を広げるが、突風が何度も傘を煽り、さっそく骨が曲がってしまいそうだ。だが、ゆっくり歩いている時間はない。
灯台公園は市内から電車で三十分ほど、さらにバスに乗り換えて崖沿いの道を行き、そこから徒歩で数分という不便な場所にある。観光名所ではあるが、悪天候の日にわざわざ行く人はまずいない。
奏太は駅へ急ぎ、最短ルートを使って灯台公園へ向かう。その間、スマホの乗り換え検索で調べつつ電車を待ち、車内で揺られながら「先輩……」と何度も心で呼びかける。息苦しいほどの焦りが胸に押し寄せる。
ようやくバスを降り、海沿いの坂道を上ると、どこからともなく潮の香りが混じった雨風が吹き付けてくる。午後三時を回ったころなのに、空は厚い雲に覆われて夕暮れのように暗い。遠雷の音さえ微かに聞こえる。
灯台公園への入口に立つと、視界には白い灯台が雨に霞んでそびえている。崖の上に作られた公園はほとんど人影がなく、強風で木々がざわめき、砂利道が水溜りで不規則に光っている。
(先輩、ここにいるのか……)
奏太は雨でびしょ濡れの靴を気にもせず、傘を半分閉じて公園内を探す。すると遠くに、人影らしきものが見えた。灯台の脇にある柵の近く、崖へ続くあたりにポツンと立つシルエット……。間違いない、水上だ。
猛烈な風雨の中、奏太はその影へ向かって叫ぶ。
「水上先輩──!」
彼の声は風にかき消されそうになるが、人影がゆっくり振り向く。やはりそこに立っていたのは水上だった。雨に打たれ、黒髪が顔に貼り付き、目はどこか虚ろだ。奏太は息を切らし、駆け寄って傘を差し出す。
「先輩……ここにいたんですね。心配したんですよ!」
「……どうしてここに来た」
水上は冷静にも聞こえるが、その奥に動揺を秘めた声。肩から服までずぶ濡れで、左手首を押さえるように抱いている。
「佐伯先輩から場所を聞きました。連絡くらいくださいよ……みんな待ってるんです!」
「……ごめん」
水上の声はか細い。激しい雨がその音を掻き消そうとするが、奏太の耳には確かに届いた。傘を無視して、あえて雨に濡れながら佇んでいる姿に、奏太は胸を締めつけられる。
「先輩、こんなところに一人でいて、手首は大丈夫なんですか? コンサートも近いのに……」
「……もう、いいんだ。大学も行かない。コンサートにも出ない……」
水上は海へと向けたまなざしを伏せつつ、弱々しい声で言う。その表情には諦めと絶望が混ざっている。
「何を言って……」
奏太は衝撃を受けつつも、強い口調を抑えきれない。
「俺たち、あんなに頑張って準備してきたじゃないですか! 先輩だって、自由に弾く楽しさを見つけはじめていたのに……」
水上はかすかに苦笑する。
「それが恐ろしいんだ。……俺は今まで、“完璧に弾くこと”でしか自分の価値を確かめられなかった。腱鞘炎になって、もう昔のようには弾けない。クラシックの世界を捨てる勇気もない。ジャズに踏み込む勇気もない。……何もない、俺には」
まるで魂を喪失したかのような言葉。雨は激しく降り続き、二人の体温を奪おうとしている。
「それでも……先輩の音楽が好きだ! 好きなんです!」
奏太は傘を放り出すようにし、大きく叫んだ。水上が驚いたように顔を上げる。
「先輩のピアノを初めて聴いた時、衝撃を受けたんです。クラシックなのに、胸の奥を激しく揺さぶるような……。そんな素敵な音楽を捨てるなんて言わないでください!」
「でも、俺はもう……」
「腱鞘炎が怖いのは分かります。評価を失うのも怖いのは分かる。だけど、一度諦めたら、本当に何も残りません!」
雨の音が二人の声をかき消そうとするが、奏太は構わず言い続ける。その声には、あふれる感情がこもっている。
「俺は先輩の笑顔を取り戻したいんだ。あの日、ブルーノートでジャズを初めて弾いたときの輝き。あれは先輩の本音だったじゃないですか!」
水上は顔をそむけて唇を噛む。何かを言い返そうとしたが、声にならない。彼の目には涙のような雨のしずくが伝っている。
「奏太……」
か細く呼ばれる名前。それは奏太の胸を刺すように甘美で、同時に痛ましい。
「先輩……響」
奏太は水上の手を取る。雨で冷え切った左手首をそっと包む。痛みを抑えるようにぎゅっと手を重ねると、水上は小さく震えているのが分かる。
「逃げたいなら逃げていい。でも、俺は追いかけます。先輩の音がまだ失われてなんかいないって信じてるから」
雨が二人の顔や髪を濡らし、視界を遮る。水上は一瞬目を閉じ、そして奏太の顔をじっと見つめる。暗い瞳の奥に、微かな光が戻り始める。
「……なぜ、そこまで?」
「俺も、先輩がいないと、吹けないんです。先輩のピアノが好きだから……。先輩自身が、好きだから……!」
雨音がすべてを覆い尽くす中での告白。水上は驚いた顔をし、それから苦しげな声で言う。
「俺には何も返せないかもしれない。家族の期待も、佐伯の告白も、腱鞘炎の痛みもあって……もう限界なんだ」
奏太はぎゅっと手を握り、さらに近づく。二人の距離はほとんど密着するほどだ。
「限界なら、ここから始めましょう。先輩の音楽を、二人で作っていけばいいんです」
水上の目がうるみ、こぼれた涙が頬を伝う。それは雨と混ざり合い、どこへ流れていくのか分からない。
「……助けて……、ほしい」
その言葉を聞いた瞬間、奏太の胸が激しく鼓動を打つ。もう、止まらない。
「……っ! もちろん!」
まるで自然の摂理のように、奏太は水上を強く抱きしめた。ずぶ濡れの身体同士が重なり合い、冷たさが逆に刺激となって互いの体温を感じさせる。水上も抵抗しない。かすかに息を詰める音が耳に届く。
「響……俺がそばにいます。どこにも行かせない」
水上の肩が震え、苦しげな声が喉から漏れる。雨なのか涙なのか、その頬を伝う水滴がわからなくなるほどに二人は寄り添う。
遠くで雷鳴がかすかに鳴り、海面に稲妻の光が走る。しかし灯台の光が二人を薄く照らし、まるで救済の一瞬のように、世界が静止した。雨の音と風の唸りしか聞こえない空間で、奏太と水上の心は一つの和音を奏で始めた。
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