第六章 第三話
両親の面会は短時間で切り上げられた。彼らは何か別の用事があるらしく、コンサート当日には必ず聴きに行くと言い残して、大学を後にした。水上が両親を見送る間、奏太は練習室で静かに待っていた。
ほどなくして戻ってきた水上の顔には、ほっとした表情が浮かんでいる。演奏前とは別人のように肩の力が抜け、目がやや潤んでいるようにも見えた。
「お疲れさまでした、先輩」
奏太がそう言うと、水上は微かに笑みを漏らす。
「うん……ありがとう。父さんは何も言わないかと思ったけど、予想以上に受け止めてくれたみたいだ」
「俺も隣でヒヤヒヤしてましたけど、すごく良い雰囲気でしたよ。お母さんも優しかったですし」
水上は顔を伏せて、静かに息をつく。
「母はいつも俺の味方なんだ。父は少しこわいけど、根は音楽を愛している人だと思う。ただ、俺が腱鞘炎でコンクールを辞退したときは、かなり落胆させたらしくて……」
そこで言葉を切り、左手首を見つめる。痛みがあるのか、少しこわばった表情だ。奏太はその腕を覗き込んで言う。
「今日の演奏で無理しませんでした? 大丈夫ですか?」
「少し痛みは走ったけど、平気。むしろ、今は心が軽い……。腱鞘炎そのものがすぐ治るわけじゃないが、精神的には前を向けそうだよ」
穏やかな口調で言いながら、水上が椅子に腰掛ける。隣に座った奏太も、息をつきながら「ああ、よかった」と呟く。二人の視線が交わった瞬間、自然と笑みがこぼれる。
「これでコンサートに向けて、さらに頑張れそうですね」
「そうだな。あと二週間……。やるべきことはたくさんあるけど、君とならやれる気がする」
水上の瞳は揺るぎない意志を宿している。ほんの数か月前、腱鞘炎に怯え、クラシック以外の音に壁を作っていた彼が、今はこんなにも前を向いている。奏太はその変化を目の当たりにし、込み上げてくる感動を抑えきれない。
その夜、水上が珍しく「夕食を一緒にどうか」と奏太を誘った。場所は学外の学生寮にある水上の部屋。奏太にとって、先輩の住まいを訪れるのは初めての経験で、少し緊張していた。
「ここが俺の部屋だ。狭いけど、適当に座って」
室内は整然としており、家具も最小限。壁際にある本棚には楽譜や音楽理論書がぎっしり詰まっている。小さめの電子ピアノが置かれ、スリムなデスクにはノートパソコン。部屋全体からストイックな性格が見え隠れするが、どこか暖かい雰囲気も感じられる。
「先輩、料理得意なんですか?」
「そこそこ。母から基礎は叩き込まれたし、一人暮らしだと自然とやるしかないからな」
水上はそう言うと手早くエプロンを着け、キッチンで作業を始める。奏太は遠慮がちに「何か手伝いましょうか?」と申し出るが、「今日は俺がやりたい」と断られる。少し不安もあるが、楽しみに待つことにした。
やがて出来上がったのは、パスタと簡単なサラダ。見た目も美しく、手際の良さが伝わる。さっそくテーブルに並べられた料理を見て、奏太は目を丸くする。
「すごい……めちゃくちゃ美味しそうです」
「簡単なトマトソースのパスタだけどね。食べてみて」
二人は向かい合って座り、いただきますの言葉を交わす。パスタを一口、口に含んだ奏太は、本当に美味しくて驚く。麺の茹で加減が絶妙で、ソースの酸味と甘みもほどよいバランス。サラダにはオリーブオイルとレモンのドレッシングがかかっていて爽やかな風味だ。
「先輩、本当に料理上手なんですね! 知らなかった……」
「母が料理好きでね。子供のころから見よう見まねでやってみたら、意外と楽しくて続けてるんだ。ピアノほど厳しく批判されるわけでもないし、失敗しても何とかリカバリーが効くし」
水上はフォークを持ったまま微笑する。その様子に、奏太は心が穏やかになるのを感じた。彼にとって料理は、評価やプレッシャーから解放される数少ない行為なのだろう。
「俺も実家が漁師町なので、魚の調理だけは少し自信あるんです。今度帰省したら、何か送りますね」
「魚か……いいな。新鮮な魚はなかなか手に入らないから助かる」
そんな気楽な会話をしながら食事を進め、やがて食後のコーヒーまで用意してもらう。
「ごちそうさまでした、本当に美味しかったです」
「ああ、気に入ってくれてよかった」
照れくさそうに頷く水上の表情がとても新鮮だった。
食事の後、部屋の隅に置かれている電子ピアノに二人の目が向いた。
「先輩、弾くんですか?」
水上は少し迷ったが、電源を入れた。
「せっかくならさっきのジャズ曲、ちょっとやってみようかな」
まるで昼間の両親との面会を思い出すように、水上が「My Funny Valentine」のメロディを鍵盤に乗せる。ここは狭い部屋でグランドピアノほどの響きはないが、それでも彼のタッチは繊細に空気を振動させる。ジャズが持つ自由さを感じさせる微妙な和声進行を加え、ゆったりとしたテンポで余韻を楽しんでいる。
奏太はそっと聴き入る。午後の面会で聴いたときよりも、さらに解放感がある。まるで水上響が本来持っている表現力を存分に発揮しているかのようだ。音が減衰すると、部屋に静寂が訪れ、その直後に水上が息をついて手首を押さえる仕草をする。
「大丈夫ですか……?」
すかさず問いかけると、水上は苦笑しながら言った。
「この狭い部屋に音を響かせるには、ちょっと力んだかも」
「痛みが強いわけじゃないから大丈夫。でも……やっぱりこの左手首は、ずっと付き合っていくんだろうな」
腱鞘炎に向き合う彼の表情は、以前のような絶望感ではなく、覚悟や諦めが入り混じったものに変わっているようだ。奏太は少しでも彼を元気づけようと、隣に腰を下ろす。
「先輩は、精神的なストレスが痛みを増すって言ってましたよね。今日は、ご両親にも認めてもらえたからストレスも減るかもしれないですよ」
「……そうだな。実際、父さんが聴きに来ると言ってくれたのは大きい。あの人は口下手だけど、音楽への愛情は本物だと分かっているし」
そう呟くと、水上は左手をゆっくり回すようにストレッチをする。
「僕も何かできるならマッサージとかしますけど?」
「ありがとう。大丈夫、今は大した痛みじゃないし」
二人の間に穏やかな空気が流れた。
そのまま椅子に並んで座っていると、水上が急に真剣な声で切り出す。
「葉山……いや、奏太。君は将来、音楽で生きていこうと思っているのか?」
名前を呼ばれた瞬間、奏太の心臓がドキリと跳ねる。先輩は普段「葉山」と呼ぶことが多く、下の名前で呼ぶのは珍しい。
「えっと……そうですね。音大に入ってまではっきり決めてないのもどうかと思うんですけど、本当は音楽が好きで、続けたい気持ちは強いんです。ただ、実家は漁師をやっていて、姉が頑張ってくれてるんですけど、いずれ家業を継いでくれって話もあって……」
自分でも口ごもりながら話すと、水上は興味深そうな眼差しを向ける。
「それは大きな選択だな。音楽でやっていくか、家業を継ぐか……。どちらかに決めなきゃいけないとしたら?」
「分かりません。姉は理解してくれてるんですが、両親は正直、僕がいつか戻ってきて家を継ぐことを期待してるんじゃないかって」
すぐに答えが出るわけではない話だが、水上はうなずき、「そっか……」と呟く。そして、ぽつりと言葉を継ぐ。
「でも、君は素直に音楽を楽しんでいる。それは見ていて分かるし、俺も救われている。このまま進めば、きっと自分の進む道が見えてくるんじゃないか」
励ましともとれる言葉。奏太は目を伏せて、小さく笑う。
「そうだといいんですけどね。先輩の左手首だって、俺は治してあげられないけど……でも、音楽で一緒にいるとき、痛みが和らぐって言ってくれたじゃないですか。だから俺も信じたいんです。音楽が、俺らの問題を超える力を持ってるんじゃないかって」
水上は黙って聴いていたが、やがて微かな微笑を浮かべる。部屋の蛍光灯の白い光が彼の横顔を照らしており、その瞳には穏やかな熱が宿っているように見える。
「奏太……」
小さく名前を呼んだその瞬間、何かが変わった気がする。二人の距離が急に近づいたような、不思議な静寂が包む。奏太は思考が止まり、心臓が鼓動を打つ音だけが耳に響いた。
だが、水上はすぐに視線を外し、時計を見た。
「もうこんな時間か……」
奏太も時計を見れば、夜の十時が近い。寮の規則もあり、そろそろ帰らなければならない時間だ。
「今日はありがとう。なんだか料理まで食べてもらって……」
「いえ、こちらこそごちそうさまでした。すっごくおいしかったです! また今度、俺も何か作りますよ」
自然と弾む言葉のやり取りに、部屋に満ちていた微妙な緊張感が和らいでいった。水上は笑いながら「じゃあ期待してる」と返し、奏太は荷物をまとめて玄関へ向かった。
ドアの前で別れる間際、水上が少し恥ずかしそうに口を開く。
「奏太、コンサートまで残り二週間、いろいろ大変だけど……俺、君と一緒なら乗り越えられる気がするよ」
「俺も同じです。先輩とだから頑張れる。コンサートのステージで、最高の演奏をしましょう」
短い言葉の中に、お互いへの信頼と連帯感が凝縮されている。そう思うと、奏太の胸に熱いものが込み上げてくる。水上もわずかに目を潤ませて見えたが、すぐに視線を外して軽く首を振る。
玄関のドアを開けると、夜風が吹き込み、二人の緩んだ空気を引き締める。奏太は礼を言い、外へ足を踏み出した。
外灯に照らされた寮の前は静かで、夜空には星が散らばっている。冷たい空気を吸い込むと、一日の疲れや緊張が混じりあって、なんとも言えない感覚が押し寄せてくる。
(先輩の両親との面会も無事終わって……。しかも、あの人は今、本当に自分の音楽を取り戻している最中なんだな)
歩き出しながら、奏太は考える。水上は昔のトラウマを抱えつつも、勇気を出して新しい方向へ進もうとしている。それを近くで支えられるのは、他でもない自分なのだという実感。
そして、この気持ちは一体何なのか。胸が締めつけられるようなこの感情……。単なる尊敬や友情を超えたものを、奏太は薄々と感じ始めていた。
「……好きになってる、のかな」
口に出した途端、自分でも顔が熱くなるのを感じた。夜の闇に溶けるように呟きながら、心はかすかに震えている。水上がもし同じ気持ちだったらどうだろう、と考えると、頭が真っ白になる。
しかし、いまはまだコンサートも控えていて、水上には腱鞘炎の問題もある。そんなタイミングで、こんな気持ちを打ち明けるわけにもいかない。だけど、気持ちは止められない。胸の奥で静かに燃える火種を抱えたまま、奏太は寮の敷地を後にした。
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