第16話「生かそうか殺そうか、それが問題だ」
「デアボリカ様、医師から面会の要望が届いています。それに先立って、封書も」
部下からの報告に、一瞬だけ書類仕事をこなしていたデアボリカの指が止まる。
しかしすぐにペンを走らせることを再開し、顔も上げずに命令した。
「閲覧を許可する。要約しろ」
「は……。昨日の騒ぎについて、説明を要求すると」
医師からの手紙は、このように続く。
ご当主に招かれてこのような田舎に滞在してやっているというのに、自分の職務の領分をあのような無学な賤民に侵されたのは甚だ遺憾である。あまつさえその賤民はデアボリカ様の配下だという。十分な説明がなされない限り、デアボリカ様には造反の意図ありとみなし、ご当主様に直談判をも辞さないつもりである。
また、噂によればかの賤民は天使を名乗ったと聞く。これは宗教的に非常に重大な問題と考えている。自分は王都に国聖会に所属する宗教者の友人がおり、このことを相談しても構わない。
以上を踏まえて慰謝料の支払いを求む。
「くそったれの詐欺師風情が!」
デアボリカは癇癪を起こして、羽ペンを机に叩き付ける。ペン先から飛び散ったインクで書類が黒く染まるが、彼女は構うことなくその上から拳を叩きつけた。
「何が職務の領分だ、病人ひとり治したこともないペテン師の分際で! 母上が雇ったのでなければ、とっくにこの街から叩き出してやったものを! あまつさえ脅迫までしてくるか、薄汚いクズめが……!」
こめかみに青黒い血管を浮かび上がらせながら、デアボリカは吠える。
件の医師は元々デアボリカが大嫌いな人物だった。権力者に媚びを売るのと保身だけは得意な、インチキ施術を押し付けてくる無能なクズ。子供の頃に風邪を引いたとき、体の中の毒物を排出すると言われて嘔吐剤と浣腸を打たれて以来、彼女はあの医師からの診療を拒絶している。風邪を引いているところに栄養失調が加わり、デアボリカは生死の境をさまよった。もっとも、現在のナーロッパ地域で医師を名乗る人物は多かれ少なかれこのようなレベルだから、更迭して新しい医師を呼んでも同じだろうが。
患者の健康よりも金をこよなく愛するあの医師は、冒険者ギルドを運営している彼女なら、たっぷりと金をむしれると踏んでこんな脅迫をしてきたのだろう。
もっとも、今のデアボリカに金はない。
母親である領主に事の経緯を説明する際に、彼女は「事件の原因になったユウジは政治犯に担がれそうになっただけ。民衆が騒いでいた天使の奇跡の正体は、さまざまな病気の治療薬。錬金術師として有能な人物であり、生かしておくべき。その証拠にユウジは錬金術で調合した治療薬を市民に投与して、診療費として金貨50枚を稼いでおり、その全額を今回の事件の補填として献上したいと申し出ています」と説明したからだ。
大嘘である。
雄士は錬金術師などではないし、彼が稼いだのは銀貨1500枚、つまり金貨15枚だ。残りの35枚はデアボリカが当主に隠れて必死に蓄財していた裏資金から出した。デアボリカにとっては身を切るような大激痛である。しかし金貨15枚では母の心を動かすにはまるで足りず、どうしてもデアボリカが補填する必要があったのだ。
金で買えないものはない。たとえそれが命であってもだ。
というわけで領主には既に賄賂を渡しているので医師があることないこと訴えても問題ないのだが、王都の宗教関係者に泣きつかれるのはまずい。十中八九は医師のハッタリに決まっているだろうが、残りの一で知人が実在していると本当にまずい。
というのも、大ブリシャブ帝国は数十年前に宗教対立を引き金にして大きく国内が荒れており、内乱は起こるわ、議会が国王を追放するわ、その議会が互いに潰し合ってまた内乱するわ、収拾がつかなくなって追い出したはずの国王に頭を下げて戻ってきてもらうわ、非常にカオスな動乱を経験しているからだ。
現在は国王の統治下で一応の安定を迎えてはいるが、おかげで現在この国では宗教関連にはとてもデリケートになっている。天使を名乗って民衆を扇動し、クーデターを目論む不穏分子など、見逃されるわけがない。
雄士は自分で天使を名乗ったわけではなく、ただ祀り上げられただけだったのでかろうじて領主におめこぼししてもらえた。詐欺師に踊らされた民衆が盛り上がりすぎただけ、その詐欺師はデアボリカの元で観察処分におかれるという扱いで処理される予定だ。
この都市が片田舎の城塞都市で、領主一族がたやすく情報統制できるという点がプラスに働いていた。もしもこれが人の出入りの激しい大都市だったら、宗教関係者の目をごまかすことはできなかっただろう。こうして雄士の首は皮一枚でつながった、つながったのだが……。
(……やっぱり消した方が楽なんじゃないか、あいつ……?)
デアボリカは机の上で頭を抱え、昨日から幾度となく湧き上がってくる疑問を繰り返した。
確かにこの世に唯一無二の価値を持つ存在ではある。手をかざすだけでどんな病気も治してしまうなど、まさしく古の
問題はあいつが生きた人間であることだ。しかもトラブルメーカー気質で、共感性の欠片もない異常者。世間知らずのバカのくせに、時折無駄に頭が回るから行動を予測できない。優しそうな細マッチョの東洋人というセックスアピールの塊のような外見をしているから、ギルドメンバーたちは彼を夫にしようと競い合って無駄に殺気立っているし。まあそれは彼女たちを焚きつけたデアボリカが90%悪いのだが。
≪説明しよう!
ブリシャブ人女性のツボに入る三大セックスアピールはエキゾチックな黒髪、細マッチョ体型、そして優しさだ!(大ブリシャブ帝国国勢調査調べ)
日本人男性がブロンド美人に憧れるように、金髪や赤髪を見飽きたブリシャブ人女性は漆黒の髪が大好き! 異世界だろうが隣の芝生は青く見えるものなのだ!
そして生殖欲がつよつよなので、自分の子供を可愛がって育ててくれそうな優しい表情や料理上手ぶりを見るとグッとくるぞ! 日本人オタ男性が「俺の嫁」と言うノリで、「パパにしてやる♥」と言い出すのがブリシャブ人女性である!
三要素コンプしている雄士は、我々の世界でいうとキラキラの金髪でわがままボディの家庭的な性格の聖女という、男の理想爆盛りフルコース満漢全席のような存在にあたるぞ!
世間知らずでバカという欠陥はあるが、それも処女こじらせたシコ猿の目には自分の色に染め放題の無垢な男の子として好意的に解釈される! 我々の世界の男が、多少アホでも可愛くてエロくて家庭的で優しいピチピチの美少女ならウェルカムしちゃうのと同じである! むしろ世間知らずな方が俺色に調教できるぜゲヘヘみたいな需要まである! 美人は得だな! ……得かなぁ!?≫
ちなみにデアボリカは雄士のことをとてもエロいと感じているが、抱きたいとは思っていない。下手に手を出してあんなトラブルメーカーの身内になりたくないし、デアボリカにとっては性愛よりも名声や権勢の方がずっと価値があるからだ。
いっそあいつに人格がなくて命じられたまま治すだけの機械であれば、こんなに頭を悩ますこともなかったものを。あーあ、あいつを言いなりにする方法ってないかな~。なんか毒とか魔術とか使って人格だけ消せないだろうか?
……こういう思考をする時点でデアボリカは
言いなりにすることができないのであれば、なんとか頑張って手綱を握る努力をするか、いっそ消してしまうほかない。当主には助命嘆願したばかりだが、葬ってしまうのが一番手軽な解決法である。
それに、雄士の能力をうまく金に換える方法もない。医師が縄張りにうるさいし、またぞろクーデターの旗頭にされてはたまらないので、この都市ではもう彼の能力を使えない。一応ひと稼ぎする方法は思いついているが、実行するためのツテがなかった。
デアボリカの立場はあくまでも地方都市の領主の三女にすぎない。領内では王女のように偉そうに振る舞えるが、よその貴族からすれば無爵位の
そんな田舎貴族の小娘にとって、雄士の存在は手に余るものだったのだ。もちろん本人は指摘されたとしても決してそんなことは認めないだろうが、無意識に雄士を消すことを考えているあたり、器の限界が見えていた。
なんにしろ、医師の脅迫で尻に火がついたデアボリカは早急に金を工面しないといけない。普段では手を出さないような危ない橋も、覚悟して渡る必要があるだろう。そしてその儲け話のタネになるのは雄士だ。現状うまく金に換える方法がないとはいえ、雄士の能力は無窮の富を生み出しうる金の大鉱脈といえる。
二択を突き付けられている。雄士を抹殺して身の安全を図るか、雄士という猛毒を飲み込んで野心を成就させる道具とするか。
(消すか、生かすか……)
机に視線を落としたデアボリカがぼんやりとそんなことを考えていたとき、おもむろに執務室のドアが開いた。ウェズが扉を開けて、顔を覗き込ませている。
「デアボリカ、お客様ですよ。至急応対してください」
「客? アポも取らずに押しかけてきた客なんて追い返したまえ。私は今、昨日の事件の後始末で忙しいんだよ」
「生憎とお客様は緊急の御用件のようですので」
「ああ、もういい。悪いが勝手に入らせてもらいますぞ」
客人の言葉を受けて一礼したウェズは、執務室のドアを大きく開けて彼を通した。
入ってきたのは老いた男性だった。上等な仕立ての燕尾服をまとい、頭にはシルクハット、手にはステッキ。どこに出しても恥ずかしくない紳士の正装を着こなしており、齢60を越えているだろう顔には強い威厳が備わっていた。
「ゴ、ゴールドン翁……」
「突然の来訪を平にご容赦願いますぞ、お嬢さん。この不躾は、昨日の集会を解散させた恩を以て見逃してくだされ」
彼は、雄士が言うところの「スラムのおじいちゃん」であった。
ただしその風体は昨日の擦り切れた部屋着とはまるで異なる。服装もそうだが、その眼光は鋭く爛々とした生気を湛えており、昨日の気力も萎えて朽ち木のように弱っていた老人とは別人のようだった。
しかし、デアボリカは目の前の姿の方が、より彼らしい姿であると知っている。
ゴールドン翁、スラムに潜む傑物。
複数の都市の貧民街を統率し、行き場を失くした者たちに食事と寝床と安全を与え、そして武器や麻薬の密売や密輸によって多くの利益を上げているという貧しき者たちの王者。
密売も密輸も国法に照らし合わせれば犯罪ではあるが、実のところ彼らの存在なくしては経営や治安維持が成り立たない貴族も多い。ゆえに彼らの存在は必要悪として目こぼしされ、【闇ギルド】または【盗賊ギルド】と呼ばれる。
ゴールドンの前身は男だてらに敏腕で知られた爵位貴族であったという。しかし十数年前の名誉革命と呼ばれるクーデターによって多くの爵位貴族が失脚した際、彼もまた領地を失い野に降った。
しかし彼はそれでくじけることなく裏社会でのし上がり、今や貴族であった頃よりも多くの財を得ているのだという。
数年前に脚に不自由を抱えて人前に出なくなってからは、気力も失って往時の覇気も失ったと言われていた。デアボリカも彼を直接見たことは一度しかなかったし、その時点ではしょぼくれた老犬のような目をした“終わった人物”だと思っていたが……。
(何が終わっているものか。なんという眼光だ、これが昨日まで病に伏せていた老人か)
ゴールドンは整えられた長いあごひげを撫でながら、じっとデアボリカに視線を向けている。まるで年季の入った
「これはこれは、ゴールドン翁。今日はご加減は随分とよろしいようで。御用がおありでしたら、私の方からうかがいましたものを。久々の日差しがお辛いでしょう」
デアボリカの言葉を意訳すると「日陰暮らしの犯罪者がのこのこギルドに訪ねてくるんじゃねえよ、関係を疑われたらどうするんだ」というところ。大ブリシャブ貴族特有の嫌味である。
「なに、脚の加減がすこぶるよくなり申したのでな。貴女のところのあの方のおかげですわい。今日はそのお礼を言いに参ったのです。よもやとは思いますが」
ゴールドンの眼光が抜き身の刃のように鋭くなる。
「あの方が手に負えなくなったから、なかったことにしようなどと……考えてはいらっしゃらないでしょうな?」
「……」
デアボリカの背筋が、一瞬で総毛立った。もう秋だというのに、じわりと冷や汗が脇を伝って滴り落ちるのを感じる。
「まさか、そんなことは。彼は有能な人物です。処分するなんてとても……」
「左様であればよいのです、老骨の杞憂ですわい。なに、噂に聞いたところによるとご当主は金貨50枚を娘御からプレゼントされたそうでしてな。あの方が稼いだ診療費の3倍ほどの金額、さてどこから出てきたのか。それがきっかけであの方を傘下に収めておくのが嫌になったのなら、ちと困ったこと……と思いましてな」
ゴールドンは年齢にふさわしい、穏やかな笑みを浮かべる。しかしデアボリカには、まるで抜き身の刃で頬をぺちぺちと叩かれているような錯覚が感じられた。
何が噂だ、この爺。領主の屋敷で二人きりでしたはずの密談が、どこの噂になるものか。すべてお見通しで来たのだ、この老人は。雄士を扱いかねたデアボリカが、彼を消すことを考えていることすらも。
「儂はのう、随分と苦労を重ねて生きて参りました。財を失ったこと、名誉を否定されたことももちろん辛い。しかし一番堪えたのは、かつての身分を追われた者への世間の冷たさでした。誰も彼もが儂と娘たちに辛くあたり、食うものもなく、寝るところも追われ、街の外で寒さに震えて朝が来るのを待ったこともある。やがて同じく行き場を失くした者たちを集め、彼らに食事を分け与えるようになっても、いつも我らの心はあの暗く寒い夜にあったのです」
老人は、目を閉じて滔々と語る。
「……あの方だけです。あの方だけが、我らを同じ人間として扱ってくださった。儂らの心は、ようやく朝を迎えられたのです。……我ら賤民は、受けた恩を忘れませぬ。恩すら忘れてしまっては、人としての誇りを失って獣に堕ちる。それを知っているから、恩にしがみつくのです。人として生きていくために、仲間を尊重するのです。あの方はそれを思い出させてくださった」
ゴールドンは瞳を見開き、語気を強めた。
「そんな恩人を、貴方の器の小ささの故に害そうと言うのなら……儂らは報復をためらいませぬ。いかなる犠牲をもってしても、最後の一人まで復讐を成しまするぞ」
「は……ははは。仮に、の話ですよね」
冷や汗でびっしょりと服を濡らすデアボリカに、ゴールドンは小さく頷く。
「無論。しかし冗談でもないことは、既にご存じですな?」
ゴールドン翁がこの都市に流れ着き、まだ脚の自由を損なう前のこと。
彼が2代後の後継者にと目をかけ、大変に可愛がっていた孫娘が熱病を患った。
しかし当主一族が雇っていた医師は、スラムの住民であるゴールドンの再三に渡る要請を蹴り、孫娘は何の手当も受けられないまま命を落とした。
医師が変死体となって豚小屋で発見されたのは、その二日後のことだった。全身に焼きごてを押し付けられた跡が無数に残り、手足の指は豚に喰われていたという。
領主とゴールドンの間でどんな話し合いがなされたのかは、当時幼かったデアボリカの知るところではない。しかし、あの老人は決して怒らせてはならないと、幼いデアボリカは言い聞かされたのだった。
その理由を、大人になったデアボリカは突き付けられようとしている。
「ご安心を、暴力に訴えるつもりなどございませんよ。ただ、この街に卸している“箱”ですが……別の都市からも取引量を多くしてほしいと再三要望を受けておりましてな。はて、どうしたものかと考えておる次第です。取引量を見直す時期かもしれませんな」
「ま、待ってほしい。私は別にユウジに危害を与えるつもりなどないと言っているじゃないか。取引量を減らされるいわれは……」
「なに、頭の中で考えているというだけの話ですよ。ちょうど貴方があの方に対してなさっているのと同じですな?」
「ぐ……」
“箱”とは符牒であり、密輸入している貨物のことを指す。
デアボリカは闇ギルドを介して、密輸入に手を染めていた。冒険者ギルドという融通の利く私兵をもつ彼女にとって、密貿易はとてもやりやすい蓄財手段であったのだ。
スラムの子供たちが大角ウサギを狩るのに使っていた城壁の穴も、別に子供たちが空けたものではない。あれは闇ギルドや冒険者ギルドに荷運びをさせるためにデアボリカが用意したルートなのだ。子供たちはたまたまその穴を見つけただけなのである。
もちろん領主には秘密だ。発覚したらたとえ娘といえども厳罰は免れない。なにせ領主が本来得るべき関税をちょろまかして懐に入れているわけなので。ただし、この密輸入によってこの都市が繁栄しているのもまた事実ではあった。
都市間の正規の輸出入は商業ギルドが取り仕切っているが、多くの都市に影響力を持っている闇ギルドの取り扱い品目は商業ギルドよりも品揃えがよい。食料、武器、医薬品、マジックアイテムなど何でも揃い、その中には麻薬などのご禁制の品も含まれている。
闇ギルドが取引量を制限した場合、デアボリカが被るダメージは蓄財できなくなるというだけではない。都市で流通する品物の量が減ってしまい、商業活動に支障が出る。それを不審に思った領主が調査すれば、デアボリカの破滅につながるだろう。
暴力に訴えずとも、デアボリカの命運を絶つことなどゴールドンには簡単なことなのだ。
「翁は私に何をしろというのだ……?」
「ご安心ください。取引量を見直す、ということは増やす可能性もあるということです。貴方が儂らのささやかな希望を聞き届けてくださる寛大さをお持ちならば、我らは全面的に貴方の野心に加勢いたしましょうぞ」
「野心だと?」
ドキリ、とデアボリカの心臓が跳ねた。
いや、大丈夫。自分が密かに持つ野心は、一度も口にしたことはないはずだ。まだ私欲のために蓄財しているだけだと思われているはず。
「儂にも古い友人がおりましてな。多くの都市政府だけでなく、爵位を持つ貴族にも口利きができます。王の側近にさえも」
「……ユウジを使って彼女らに接近しろと?」
「病に苦しむ者は、身分を問わずいくらでもおります。病苦から逃れられるならばいくら金を積んでもいいと言うでしょうし……きっと感謝するでしょうな。中央の貴族に恩を売れますぞ」
ゴールドンはずいっと身を乗り出し、デアボリカの瞳を覗き込んだ。
「中央の政界に打って出たいのでしょう? このような田舎領主の三女として、誰にも知られずに朽ち果てていきたくはない。冒険者ギルドの長という身分程度で終わりたくない。自らの名を多くの者に知らしめ、歴史に名を刻みたい。それが貴方の野心なのではありませんか、デアボリカ殿?」
何故それを……デアボリカはごくりと唾を飲み下した。
誰にも言ったことはなかった。母や姉妹ですら、この領地の後継者の座を狙っているとしか思っていないはず。
冗談じゃない、こんな田舎の領地なんかいらない。私はもっともっと高みを目指すのだ。自分には無限の才能があり、それを活かせる場所は中央議会にしかない。その野心を言い当てられ、デアボリカはギュッと拳を握り込む。
ゴールドンはふっと表情を和らげると、好々爺然とした穏やかな人相を浮かべた。
「なに、この歳になればわかるのですよ。貴方のような野心に燃えた瞳を、これまでたくさん見てきましたからな。儂もかつてはそういう目をしておりましたわ」
「……交換条件として、何を求める?」
「儂はあの方さえご無事でしたら、それで十分で御座る。そうですな……ではあの方が無事であることの証明として、一か月に一度、彼を我が家に招いてもてなさせていただきたい。スラムの者にも、あの方にお会いしたいという者は多い。きっと皆も喜びましょう」
ゴールドンの言葉に、デアボリカは形のいい鼻を鳴らす。
「何がもてなせればそれで十分だ。医者に診てもらえない者たちを集めて、ユウジに治療させるということだろう?」
「……重病に苦しむ者のみ、十人程度に抑えます。あの方がお疲れのようでしたら、ご体調を尊重いたしましょう」
ゴールドンの言葉尻に弱みを見てとったデアボリカは、一転して不敵な笑顔を浮かべる。
「やはり元は貴族だな。昨日皆の前でした演説はどうした?」
「多くの者を動かすなら、方便は使わねばなりませんよ。それに、あの演説に込めた心も儂の赤心で御座る」
「まあいい、多少馬脚も見えた方がこちらも安心できる。その約定で手を打とう」
「寛大なお心に感謝いたします」
デアボリカに深々と頭を下げながら、ゴールドンはほくそ笑む。
――他人を思い通りに動かしたいなら、相手に主導権を握らせているつもりで唯一の選択肢を選ばせるのが良い。加えて費用がかからないなら言うことはない。年端もいかない才子気取りの小娘にも、いくらでも頭を下げよう。
かつて男だてらに侯爵であった頃も、失脚して平民の身分に落とされてからも、犯罪結社の親玉として返り咲いた今も、彼はそうやって人を動かす。
身を焦がすほどの野心に燃える若き才媛も、何十年もの時をかけて研ぎ澄まされた老獪な手管の前では、未熟な小娘に過ぎない。
少し弱みを見せてやればすぐに他人を見くびるというデアボリカの癖も、ゴールドンには手に取るようにわかっている。人品にはやや問題があるが、雄士の水先案内人としては及第点の才覚だろうとゴールドンは評価していた。
想定外があるとすれば、デアボリカはゴールドンがまだ把握していない理由で金に困っているという事情と、彼女の他人を軽く見る悪癖は少々度を過ぎていたということだろう。その選択が後にこの街を火の海に変える寸前の事態につながるなど、このときのゴールドンには知る由もなかったのだった。
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