鏡門から浮雲山房(5)
「それにしても、カク。この酒、あれだろ。ゲンさんのところで一番良いやつだろ。随分と奮発してくれたんだな。スルメもよくこんなでかいの見つけてきたな」
私たち三人は図らずも同じ寿司を囲んで座ることになった。
「今、こいつと寿司食ってたんだよ。まだ残ってるし、カクも食え」
「よろしいので?」
「ああ」
カクと呼ばれた
「やはり、寿司は
「だよなあ」
「ま、説明がいるわな」
トキハシは決心したようにひとつ、息をつくと私に向き直った。
「お前も察しがついているように、こいつは覚醒党員だ。この町の連中からはカクって呼ばれてる」
「どうも」
カクが頭を下げた。
「トキハシは覚醒党員たちがどんな連中か知った上で、そうやって親しくしているの?」
私は
「ああ、知ってる。といっても、俺がこいつらの企みを知ったのは最近のことだ。そう。お前がトアノと旅を始める前。
「そんな。君は知っていて、それを止めなかったのか!」
思わず声を荒らげる私を制したのはカクであった。
「ご主人様。落ち着いてください。私から、ご説明いたします。トキハシさんとの関係や、私がどうして本日、貴方様にお会いしに来たのかを」
カクは何か決意したかのような口調で語り始めた。
「そもそも、この
私は黙って
「睡中都市の誕生以前から存在していた私たちは、貴方様から覚醒党員の名と人格を
トキハシが缶ビールをカクの手元に置いた。
「出会った頃のトキハシさんは素性も知れない私がこの町で生きてゆけるようにと、色々と計らってくださったのです。お陰様で、今では町の人々から信頼していただき、
そのトキハシは、ひとり、黙々と寿司を食べていた。
「ねえ、トキハシ、なんで?」
「何が?」
私の言葉で空気が緊迫しているのが肌に伝わる程よく分かった。
「君は彼が覚醒党員で、何をしようとしているか、今は知っているんだろ? どうして平気なの?」
トキハシは缶に残っていたビールを飲み干した。
「別に理由なんか無いさ。無理に理由をつけるなら、カクが俺の兄弟だからだな」
「この人が、兄弟?」
認めたくない。その思いが
「途中経過はどうあれ、覚醒党員に覚醒党員としての姿を与えたのはお前だ。なら、こいつも俺やトアノ、アリスエ、ウツギと同じような存在だ」
「でも、こいつらの
「いいのかって言われてもな。世界がそう動くなら、仕方ないさ」
トキハシは
「こいつらの仕事で、この世界が滅ぶとしても、俺はカクを憎まない。仕方ないだろ。
少しずつ、憎悪の切っ先が鈍り始めているのを感じていた。
「じゃあ、私はどうしたらいいんだ」
「もっと気楽にしてろよ。カクもお前の一部なんだ」
到底認められない言葉に、私は思わず叫んだ。
「違う。それは過去の私だ。
聞こえていた虫の鳴き声が止み、気味の悪い程の静けさが辺りを包んだ。
「こいつらの考えてることは間違いか?」
トキハシの鋭い眼差しに、私は思わず
「ああ、間違いだとも。夢を捨てて生きることが正しいなんて、どう考えたっておかしい」
カクはさも居心地が悪そうに縮こまっていた。
「なら、やっぱりお前は今でもカクの主人だ」
「は?」
「お前、さっきから覚醒党の思想だとか行動だとか、むきになって否定してるだろ。人が何かを否定することに
「そんな」
最も否定したかった思想が私自身の中にあるなどと、認めたくなかった。しかし、反論することもできなかった。反論することにより、一層その思想を内包していると思われたくなかったためではなかった。
強く否定するものをこそ、人は信ずる。思いがけず、私はひとつの真理を、実感を
「おいおい。そんなこの世の終わりみたいな顔するな。お前の中にどんな思想があったっていいだろ。結局、どれを選ぶかは、お前次第なんだから。ただ、お前の中にある思想なら、真っ向から否定するだけが扱い方じゃないってわけだ。だろ、カク」
カクはビールを開け、それを飲んだ。
「ええ、そうです。どれを選ぶかは、結局のところ、ご主人様次第です。その上で、私は申し上げたいことがあります。そのために、私は今日、ここに来たのです」
カクは一度言葉を切ると、両手を膝に置いて、私に向き直った。
「正しく、現実を見てください」
「どういうこと」
「そのままの意味ですよ、ご主人様。直にこの世界は消滅し、
カクの目を見ようとした視線は盲目となり、私は思わず、彼の首元に視線を下げた。
「正しい現実を見ることができれば、きっと、そこに生きることは怖くない筈です。現実には不安や恐怖しかないと思い込むことこそ、そう、夢です。それもとびきりの悪夢。私は今、貴方様にその悪夢からこそ、
足が
「不思議ですか? 覚醒党員がこんなことを申しては。でも、私の本質は他の覚醒党員と、何も変わりはないのですよ。私たちは決して
空虚な彼の顔に、悲しい笑みを見た。
「私はこの町で、名も知らぬ作者の創作に触れ、変わってしまったのです。人々の創作とは、かくも愛おしい。直にこの世界は消えます。しかし、きっと大丈夫ですよ。貴方がたの住まう現実は、決してグロテスクなだけのものではありません。でなければ、こんなに美しい世界は生まれなかっただろうと、私は確信しています。現実は睡中都市と同じように美しく、そこに住まう者たちもまた、美しいのです。だから、安心して、現実を生きてください」
カクは改めて正座をした。
「その上で、貴方や他の作家が創作を止めないのであれば、また、睡中都市でお会いしましょう。今になって思うのです。きっと、貴方がたはどんな現実に住んでも、なん度睡中都市が消えても、創作を止められはしない。どうか、ご主人様、幸せに、現実を生きてください」
カクは私の手を強く握った。私はそこに人の体温を感じた気がした。
「
もはや私は、カクを憎むことができなかった。この夏見町で
「覚醒党員である私がこんなことを申しては、皮肉に聞こえるかもしれませんが、そうではありません。どうか、夢から醒めて、幸せな現実を生きてください。今や世界と共に散った覚醒党員、皆、貴方がたの生がより良いものになるよう、お祈りしております」
カクは丁寧に頭を下げた。私は彼の
「では、私はこれで」
カクは
「なんだ。もう行くのか。いいじゃねえか。もう少し、飲んでけよ。それとも、今から何かあるのか」
トキハシが彼を引き止めた。
「そういうわけではありませんが、せっかくのお二人の時間にこれ以上お邪魔しては」
「いいよ。そんなの気にしなくたって。なあ」
トキハシが私の方へ視線を向けると、カクの頭も、同じように私の方を向いた。カクの素性と覚醒党員の所業は分断され始め、その事実が彼をひとりの人物として私に認識させようとしていた。
「ああ、飲もうよ」
「ご主人様」
カクがそう呟き、トキハシは立ちあがって台所から湯のみを三つ、持ってきた。
「そうこなくちゃな。さ、カクが持ってきてくれた酒で飲み直しだ」
乾き始めた寿司を囲み、酒盛りが再開された。もはや睡中都市の消滅の話も、苦悩礼讃の現実の話も出なかった。緊張がほどけ、正しい密度の時間が戻ってきたような気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます