第2話「絹の痕跡」



朝日が窓から差し込む前、凛は既に目を覚ましていた。昨夜の出来事が夢ではなかったことを、口内の痛みが証明していた。舌先で探ると、唇の内側に小さな裂け目があり、血の味がかすかに残っている。


「これは本当に起きていること」


おそるおそる指先を見ると、皮膚の下の白い筋がより鮮明になっていた。透明な肌の下で、細い絹糸のような何かが蠢いているようだ。


凛は震える手で携帯を手に取り、地元の老人ホームに電話をかけた。祖母の親友だった植田マサ子は、今も健在のはずだった。


「もしもし、植田さんはいらっしゃいますか?成宮千代の孫の凛と申します」


数分後、電話口にマサ子の掠れた声が聞こえた。

「凛ちゃん、お久しぶり。千代のことで何か?」


「はい、おばあちゃんが残した...絹糸のことで聞きたいことがあるんです」


電話の向こうで、一瞬の沈黙があった。

「絹糸?...あの絹糸を見つけたの?」マサ子の声が急に緊張したように聞こえた。


「はい。古い木製の箱に入っていたものです。わたし、それを使ってウェディングドレスを作っているんですが...」


「やめなさい!」マサ子の鋭い声が凛の耳を突いた。「今すぐそのドレスを燃やしなさい!そして糸にも触れないで!」


凛は驚いて言葉を失った。「で、でも、どうして...」


「あの糸は呪われているのよ。千代が村に戻ってきた時、彼女は違う人になっていた。何かが彼女に取り憑いたの」マサ子の声は恐怖に震えていた。「彼女は二度と裁縫をしなかった。あの糸を隠したはずだったのに...」


「取り憑いた?」凛は混乱した。「何が取り憑いたというんですか?」


「蚕神(こがみ)よ」マサ子の声は低くなった。「古い伝説があるの。この地方では、蚕を育て、絹を作る女性たちは蚕神に守られていると言われていた。でも同時に、欲深い者は罰せられる。千代はあまりにも完璧な絹糸を作りたいと願い...そして」


突然、電話が切れた。何度かけ直しても、応答はなかった。


窓の外を見ると、空は灰色の雲に覆われていた。美咲が来るまでにはまだ数時間ある。凛は決意を固め、祖母の家へ向かった。答えはそこにあるはずだった。


***


成宮千代の家は、村の少し外れにある古い木造家屋だった。凛が子供の頃は時々訪れたが、千代が施設に入った後は誰も住んでいなかった。庭は荒れ放題で、雑草が膝まで伸び、かつて美しかった桜の木は枯れかけていた。


家の中は静寂に包まれ、埃と湿気の匂いが充満していた。凛は慎重に足を踏み入れた。床が不気味に軋む。遺品整理の時には急いでいたが、今日は違う。家のすみずみまで調べる必要があった。


まず、千代の仕事部屋に向かった。そこには古い裁縫台がそのまま残されていた。引き出しを一つずつ開けていくと、針や糸、はさみなど基本的な道具が整然と並んでいた。しかし、特に変わったものは見つからない。


「蚕神...」


凛は言葉を呟きながら、部屋を見回した。そこで気づいたのは、床の一部が微妙に色あせていること。慎重に畳を持ち上げると、その下に小さな収納スペースが現れた。


心臓が早鈍りする。凛は震える手で中を探った。そこには一冊の古い日記帳と、布に包まれた何かがあった。


「これは...」


そっと布を開くと、中から一匹の大きな蚕の乾燥した死骸が現れた。普通の蚕より大きく、そして奇妙なことに、それは完全に白く化石化したように見えた。しかし、目のあるべき部分には、人間の目のような模様があった。


吐き気を覚えながらも、凛は日記帳を開いた。それは昭和27年から始まっていた。千代の美しい筆跡で、日々の裁縫の記録や、村での出来事が綴られている。


しかし、昭和28年の夏頃から、記述が変わり始めた。


「今日、山の奥の古い神社で不思議な儀式を見た。老婆が蚕を祀り、絹糸を紡いでいた。その糸は月明かりのように輝いていた」


そして、数ページ後。


「老婆から教わった通り、月の光の下で蚕を育て始めた。普通の蚕と違い、桑の葉ではなく、生糸を食べさせる。老婆は言った。"己の身を捧げれば、最高の絹糸が得られる"と」


日記はさらに続き、千代が少しずつ変わっていく様子が記されていた。彼女は自分の髪の毛を蚕に与え、時には指先から滲み出る血も。そして、蚕は通常よりはるかに大きく成長していった。


「今日、初めての糸を得た。この世のものとは思えないほど美しい。この糸で作った花嫁衣装は、きっと一生の幸せをもたらすだろう」


そして、高橋美代子という女性のウェディングドレスを作り始めたという記述。しかし、完成間近になって、恐ろしいことが起きた。


「昨夜、恐ろしい夢を見た。美代子さんが私の作ったドレスを着て、口から糸を吐き出している。その糸は彼女の体内から出てきているようだった」


さらに、数日後。


「夢は現実となった。美代子さんが私のもとを訪れ、体調が悪いと訴えた。彼女の口から、私が作ったのと同じ絹糸が出てきたのだ。そして彼女は言った。"体の中で何かが動いている"と」


最後のフィッティングの後、美代子は姿を消したという。村では行方不明として捜索が行われたが、見つからなかった。そして、千代は次の花嫁のドレスを作り始めた。同じ悲劇が繰り返されていく。


日記の最後のページには、千代自身の恐怖が綴られていた。


「私の体にも変化が現れ始めた。指先から糸が出てくる。まるで体が糸を作る工場になったかのようだ。蚕神が私の体を要求している。もう逃れられない。最後の花嫁衣装を完成させる前に、ここを去ろう。誰にも見つからない場所で、この呪いと共に消えるために」


凛は日記を震える手で閉じた。口内の痛みが強くなり、喉の奥で何かが蠢くような感覚がある。指先を見ると、皮膚の下の白い糸がさらに鮮明になっていた。


そのとき、携帯電話が鳴った。美咲からだった。

「凛ちゃん、ごめん!今日のフィッティング、急用で行けなくなっちゃった。明日に変更してもいい?」


凛は混乱しながらも、冷静さを保とうとした。「ああ、全然大丈夫。むしろ助かるわ」


電話を切ると、凛は決意した。この呪いを解く方法を見つけなければならない。そして、美咲を守るためにも、このドレスを処分する必要がある。


しかし、家を出ようとした時、凛は異変に気づいた。足が重い。まるで何かに引き止められているかのように。見下ろすと、足首から細い白い糸が床に向かって伸びていた。恐怖に震えながら、凛はそれを引きちぎった。鋭い痛みと共に、足首から血が滲んだ。


***


アトリエに戻った凛は、ウェディングドレスを見つめていた。その美しさの中に潜む恐怖。祖母が残した絹糸で作られたこのドレスは、着る者を呪い、体内で糸を生み出させる。そして最終的には、人間を何かに変えてしまう。


「燃やすべきなのかもしれない」凛は呟いた。しかし、すでに自分の体内で変化が始まっている。ドレスを燃やしたところで、呪いは止まるのだろうか。


鏡を見ると、唇の端から細い絹糸が伸びていた。凛はそれを恐る恐る引っ張った。痛みと共に、喉の奥から糸が引き出される感覚。一度引き始めると止められなくなり、凛は一気に引き抜いた。口内に血の味が広がる。


引き抜いた糸を見ると、それは驚くほど長く、少なくとも30センチはある。そして、その先端には小さな黒い塊があった。


「これは...」


凛は凍りついた。それは小さな蚕のようだった。しかし、普通の蚕とは違い、表面は人間の皮膚のような質感を持ち、そして二つの小さな点が、まるで目のように凛を見つめていた。


パニックになった凛は、それを火であぶり、灰にした。しかし、既に体内には他にも潜んでいるのではないかという恐怖が彼女を襲った。


「蚕神...」


祖母の日記には、呪いを解く方法は書かれていなかった。しかし、一つの手がかりがあった。「老婆から教わった通り」という文。山の奥の古い神社で会った老婆。その神社はまだ存在するのだろうか。


凛は地図を開き、村の周辺を調べた。幾つかの神社があったが、特に山の奥というのがどれを指すのか分からない。必要なのは、村の古老からの情報だった。


再び植田マサ子に連絡を取ろうとしたが、老人ホームからは「体調を崩して面会できない」との返事だった。他に頼れる人はいないだろうか。


そのとき、凛は古い写真アルバムの中で見た一枚の写真を思い出した。若かりし頃の千代と、もう一人の女性。その背景には鳥居が写っていた。写真の裏には「貴子と、蚕神社にて」と書かれていた。


「蚕神社...」


インターネットで検索してみたが、そのような名前の神社は見つからなかった。しかし、村の古地図なら図書館にあるかもしれない。


凛は急いで図書館に向かった。しかし、足を踏み出すたびに、体内から何かが引き伸ばされるような奇妙な感覚があった。まるで、体内の何かが彼女の動きに抵抗しているかのように。


***


図書館の古文書室で、凛は昭和初期の地図を見つけた。そこには確かに「蚕神社」と記されたマークがあった。現在の地図と照らし合わせると、それは村の北東、山の中腹に位置していたが、現在はアクセス道路すらないようだった。


「行くしかない」


凛は決意を固めた。しかし、その前に、美咲に警告しておく必要があった。彼女に呪いが移らないようにするために。


アトリエに戻ると、ウェディングドレスはまるで凛を待ち構えているかのように、静かに佇んでいた。その純白の色と繊細な刺繍の美しさは、内包する恐怖を一層際立たせていた。


凛は美咲にメッセージを送った。「ドレスに少し問題があって、作り直す必要があるかも。明日のフィッティングはもう少し先に延ばしてもらえる?」


返信を待つ間、凛は鏡の前に立ち、自分の体を調べた。指先の白い筋はさらに手首まで伸び、足首にも同様の変化が見られた。そして唇の内側には、小さな穴のようなものができていた。そこから糸が出てくるのだろうか。


鏡に映る自分の顔が、どこか他人のように感じられた。憔悴した表情、血色の悪い肌、そして瞳の中に宿る恐怖。


美咲からの返信が届いた。「大丈夫だよ!ゆっくり直して。でも、凛ちゃん、健康が心配。顔色悪かったし、ゆっくり休んで。」


凛は苦笑した。休んでいる暇はない。明日、蚕神社に向かう必要がある。今夜は準備をし、できるだけ休息を取らなければ。


しかし、ベッドに横になっても、凛の心は落ち着かなかった。体内で何かが成長している感覚。そして、ドレスの秘密。祖母は呪いから逃れ、数年後に村に戻ってきた。どうやって彼女は呪いを解いたのか。あるいは、解いていなかったのか。


凛は不安な思いで目を閉じた。すると、夢の中で祖母の声が聞こえた。


「凛...呪いを解く方法はある...でも代償が必要だ...」


「おばあちゃん?どんな代償?」


「誰かを...捧げなければ...」


夢の中で、祖母の顔がゆっくりと変わっていく。しわだらけの肌の下から、白い絹糸が浮き出てきた。そして、彼女の口が開き、そこから大量の糸と共に、大きな蚕が這い出してきた。


悲鳴と共に凛は目を覚ました。体は冷や汗で覆われ、喉は乾ききっていた。枕の上には、またしても細い絹糸が散らばっていた。そして今回は、枕カバーの上に小さな血痕が点々と続いていた。


震える手で頬に触れると、そこにも細い切り傷があった。まるで内側から何かが皮膚を突き破ろうとしているかのように。


窓の外は既に明るくなりかけていた。今日、凛は蚕神社に向かい、この呪いの真実を突き止めなければならない。そして、美咲を守るために、そして自分自身を救うために、呪いを解く方法を見つけなければならないのだ。


しかし、体の中の何かは、そんな凛の意思に抵抗しているようだった。まるで、彼女を別の道へと導こうとするかのように。

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