第四章

 アカデミーでは季節ごとに舞踏会が開催される。社交界デビューする年頃の令息や令嬢たちのデビュタントの模擬練習に一役買っており、婚約者がいない男女の出会いの場としても重宝されていた。今回は皇太子が参加するとあってその準備にも余念がない。各家門が挙って寄付を申し入れ、例年なく豪華な催しになっていた。いちばん張り切っていたのはブラッドリー伯爵家で、皇太子の覚えをよくしようと躍起になっているようにさえ思えた。対するロックウッド侯爵家はアメリアがライオネルのパートナーに抜擢された栄えある立場ではあったが、いつも以上の対応はしなかった。ロックウッドも所詮他の貴族と同じように、皇太子に媚びていると思われたくはなかったからだ。

 舞踏会は宵の帳が下りる頃に始まって真夜中の鐘が鳴るまで続く。令息は婚約者や気になる令嬢を伴って参加するのが習わしで、パートナーが見つからなかった者たちは会場でダンスの相手を探す。ケレンはこれまでアメリアを伴って参加していたが、ダンスが苦手だと言い張るヨルドはいつも会場の隅っこに引っ込んでいた。そんなヨルドが今回は堂々とケレンを伴って会場にいるとあって、華やかにドレスアップした令嬢たちが色めき立っていた。いつもは申し訳程度の正装しかしていないくせに、この度はしっかりとめかし込んでいるせいで彼の眉目秀麗さが余計に目立つ。それが子女たちの羨望を惹くものだから、ケレンは内心気が気ではなかった。

「どうして今回はそんなにめかし込んでいるんだ」

「ケレンをエスコートするんだから当たり前だろう?お前が笑いものになったら困る」

 いつにも増して魅力的なヨルドにそう微笑まれて、ひとりときめいているのが悔しい。お手をどうぞと差し出された手を叩けば、ヨルドがくすぐったそうにその顔を笑みに崩した。いつもならアメリアをエスコートしているケレンは、ヨルドと並ぶとエスコートされる側になる。ほら、と今度は腕を差し出されたので大人しく腕を絡めた。この際、気恥ずかしさは飲み込むに限る。

 ファーストダンスはいちばん身分の高い者から踊る。これまではケレンとアメリアが務めていたが、今回は皇太子であるライオネルがアメリアと共に務める。ダンスフロアの中心へとアメリアをエスコートするライオネルは、まるで絵本の中から飛び出してきたようだ。ライオネルから贈られたドレスに身を包むアメリアの美しさも、ライオネルの秀麗さに見劣りしていない。お似合いのふたりが優雅に踊るのを眺めながら、ケレンはこれが本来の正しい姿だと満足していた。ここだけ切り取れば、原作通りのハッピーエンドに見える。

 とはいえ、アメリアがあのドレスを着るまでにひと悶着あった。舞踏会の数日前にライオネルからドレスと装飾品が入った箱が届いたとき、ケレン宛にも同じような箱が届いたのだ。アメリアの箱には今彼女が身に着けているドレスが入っていたが、ケレン宛の箱には明らかに高そうな正装一式が入っていた。まるで皇族が舞踏会で着るような華やかなデザインで、これを着て共に踊れと笑うライオネルの意志が透けて見えるようだった。

 アメリアはライオネルの、ケレンを諦めていないらしい態度にすっかり憤慨し、直前まで別のドレスを着ていくと言い張っていた。こういうときのアメリアの頑固さにはケレンでも手を焼く。その上ライオネルはアメリアの意図を見透かして、わざわざ豪奢なドレスを贈ってきたようにも思えた。たしかにドレスは美しかったが、こういうドレスを贈っておけばうれしいだろうという意図が存分に織り込まれている。どうにか宥めすかして着てもらうまでの努力を思うと、この光景に満足するくらい許されるはずだ。周りの令嬢たちからもアメリアのドレスは好評のようだし、侯爵家でもあれほどのものは用意してやれなかったかもしれない。

 ダンスを終えたふたりが深々とお辞儀をした。音楽が鳴り止み、割れんばかりの拍手が沸き起こる。ふたりが捌けて次の音楽が始まると、令息たちがパートナーを伴って次々とフロアに出ていく。皇室や名門主催の舞踏会よりは砕けている雰囲気が、気安さと華やかさを両立させていた。踊るつもりはなかったケレンもいつの間にかヨルドに引っ張り出されていた。

「なんだ、ちゃんと踊れるんじゃない」

 踊り終えたあと、注目の的から逃れるようにホールの端へと避難したところへ、アメリアが近づいてきた。ヨルドはその言葉に嗜みですからとにやりとする。胸に手を当てて軽く頭を下げるのへ、アメリアがだいぶケレンにリードされていたけれどと揶揄した。

「ケレンのダンスが完璧なのは、この前まで踊っていたアメリア嬢がいちばんよくご存じでしょう」

「ケレンのエスコートは完璧だもの。殿下とは残念だけど息が合わない気がしたわ。早く終わらせたいという気持ちが透けて見えるみたい」

 大袈裟に溜息を吐いた彼女が傍の長椅子に腰かけた。ライオネルは令嬢たちに請われるままダンスに興じている。アメリアはこのあと再び彼と踊る気も、他の令息と踊る気もないようだった。豪奢過ぎるドレスが重たくて動きにくいとごちる。

「わたしのことを考えて贈ってくるのなら、こんなドレスにはならなかったはずよ。これはケレンに服を贈る大義名分に使われただけの可哀そうなドレス」

 嘆くアメリアの隣に座って、改めてこの前助けてくれたことへの礼を述べた。なにか飲むものを取ってきてもらうよう、ヨルドに目配せをする。小さく頷いた彼が人混みに紛れてしまうと、打って変わったアメリアが彼と踊れてよかったわねと笑った。ひとつ溜息を零したことで気を取り直したらしい。

「あなたすごく楽しそうだったわよ、ケレン。ヨルドのあなたを見る瞳といったら!」

「アメリア、いつからその辺の女の子たちみたいになったんだ?」

「だって素敵だったんだもの。あのとき殿下のパートナーに名乗り出てよかったわ。このドレスを着てきた甲斐があったわね」

 アメリアに片目を瞑られてケレンは面食らってしまった。それでも彼女がそう思っているのなら反論はすまい。

 たしかにヨルドと踊るのは楽しかった。ダンスは苦手だと言っていた彼だが、元来の身体能力は高いのだ。いくら武人の家系とはいえ、子爵令息たるものダンスの教養くらいは身に着けている。最初のうちは周りの目が気になったが、見つめてくるヨルドの視線に気持ちが高揚していくうちに、いつの間にかどうでもよくなっていた。再び踊りに出ようとまでは思わないが、仲睦まじさを見せつけることはできただろう。

「わたしが贈った服はどうしたんだ、ロックウッド」

 いつの間にやら、ライオネルに見下ろされていた。声にも薄く笑う顔にも憤慨している気配はなく、ケレンが着てこないことは想定の範囲内だったのだと窺い知れる。さっと人混みが割れてライオネルのための空間ができあがっていた。それに満足するように笑んだ彼に、先ほどの絵に描いたような王子様然とした雰囲気はない。

 ライオネルから贈られた服を着るつもりはなかった。送り返すわけにもいかず、箱に入れたままクロゼットの中に置かれている。アメリアは突き返してやればいいと言い張ったが、侯爵家の立場上、皇太子からの贈り物を無碍に扱うわけにはいかなかった。あの服を贈ってきた意図を汲んでライオネルと踊るつもりもない。

「申し訳ございません。ですが、わたしには袖を通す資格はありません」

「まだそんなことを言うのか」

「わたしは殿下のご好意に応えることはできません。ここは周りの目もありますし、アメリアのことを尊重してくださいませんか」

 立ち上がって頭を下げると、あからさまな溜息を吐かれた。アメリアは立ち上がることもせず、ただライオネルを真っ直ぐに見つめている。蔑ろにされて怒っているというわけではなさそうだった。彼女は最早、この男になにも期待はしていないのだろう。

 見つめてくる瞳が黒く染まり始めていた。態度が少し傲慢に感じるのは、彼が抱える闇が滲み出てきているせいだろうか。ぞわりと、背筋が恐怖に粟立つ。今ここにヨルドがいてくれない不安が、ライオネルからの視線を向けられるたびに増幅していく。

「テディはどうした?可憐なお前を残してどこへ行った?」

「ヨルドはわたくしのためにお水を取りに行ってくださったのです、殿下。ほら、戻って参りましたわ」

 アメリアが言った通り、ヨルドがグラスを片手に戻ってきた。少し慌てた様子なのは、ライオネルがケレンにちょっかいを出していると周りから察したからだろう。彼の姿が見えた途端、顔を覗かせていた不安が引っ込んでいった。ヨルドが冷静を装ってアメリアにグラスを渡す。それからさり気なくケレンを庇うように立った。

「皇太子殿下にご挨拶申し上げます。我がパートナーがなにか失礼なことを?」

「お前のパートナーか。まぁ、今はまだと言っておこう」

「それはどういうことでしょう?」

 その言葉にヨルドがぐっと拳を握り締めた。嘲笑うような声の響きに、今度は嫌な予感が背筋を這い上がってくる。救いを求めるようにそっとヨルドの拳に触れると、彼の手の力が弛んだ。ヨルドに手を握り締められて、張り詰めていた気持ちが少し和らいだ。ヨルドの怒りも少しだけ、同じように和らぐのがわかる。

「いずれわかる。ロックウッドは自らわたしの元へ来ることになる」

「お言葉ですが、ケレンが殿下に気持ちを明け渡すことはありません。それとも、なにかそうならざるを得ない状況を作り出すおつもりですか?」

 ヨルドの鋭い言葉に、ライオネルの表情が僅かに曇った。すぐに余裕の笑みではぐらかされてしまったが、彼ならやりかねないことをケレンだけは知っている。本の中でケレンの罪をでっち上げて遠くへ幽閉したように、今世でもなにかよからぬことを考えているらしかった。例えばヨルドの命を盾にされたらケレンは絶対に逆らえない。

「公衆の面前でわたしのことを問い質すとはいい度胸だな、テディ。まぁ、今宵は楽しい舞踏会だ。ロックウッドがわたしとダンスに興じれば許してやろう」

 そう笑う声には命令に似た響きがあった。ヨルドがしくじったと言いたげに眉を寄せる。

 ケレンの返事を待つつもりなどないライオネルの手が、ヨルドに握られている方の手に伸びてきた。手首を掴まれて引き剝がされると、どろりとした感触が肌の上を滑った。ライオネルの肌から溢れ出た闇がケレンの魔力へと引き寄せられてくるのがわかる。

「おやめください、っ!」

 思わず声を上げていた。思い切り手を振り払ってしまったのは、魔力同士がぶつかり合う衝撃を覚えたからだ。怯えるケレンをヨルドが抱き寄せて、ライオネルから庇うように抱き込んでくれる。大丈夫かと問われて、全身が震えていることに気づいた。底知れない闇の不穏さに撫でられた手首は、ライオネルの手の形に赤く腫れ上がっていた。

 恐怖を少しでも和らげたくてヨルドの胸に擦り寄る。大丈夫だと肩を撫でてくれる手が、少しずつケレンの冷静さを取り戻してくれた。ヨルドに縋りついて、どこかへ攫ってくれと強請りたい。このままふたりで、どこかライオネルの目が届かない場所まで逃げ出してしまえたらどんなにいいだろう。

 異変に気づいたアメリアがふたりを庇うようにライオネルに立ちはだかった。振り払われた手を呆然と見ている彼を厳しい表情で見据えている。

それまで遠巻きに見守っていた周りの者たちもなにかおかしいとざわめきだした。どうやらようやく、皇太子の様子がおかしなことに気づいたらしい。今の彼はどう見ても悪役側の人間だった。本の中でのヒーローたる彼の面影はどこにも見当たらない。

「殿下、お加減が悪いのではありませんか?」

 アメリアの一言にライオネルがようやく反応を示して、そんなことはないと否定した。薄く笑んでいる顔はしかし、目の奥が黒く濁っているように見える。すこしぼんやりとしているように見えるのは、ライオネル自身の意識が薄れているからだろうか。アメリアは上手いこと闇をコントロールできていると言っていたけれど、実際はそれほど甘い話ではなかったのかもしれない。

 これまでライオネルの具合が悪かったのは、闇と戦っているせいだというのがケレンとアメリアの考えだった。アメリアの魔法が一時的に闇を退けることに成功し、安定した体調を取り戻すことができるにつれ、彼女が呼び出される頻度が減っていったからだ。けれどそれはあくまでもこちら側の過信であった可能性が高いのではないかと、ケレンは赤く腫れあがった手首を見て思う。ライオネルの手から闇が染み出していなければ、こんな風に赤く腫れあがったりはしない。もしかしたらライオネルはもうあの闇に取り込まれ始めているのかもしれない。

 だってあの闇は、まるで意思を持っているかのようだった。ライオネルが操っていないのだとしたら、あの闇自体がもうひとつの意思を持っているということになってしまう。

 アメリアはライオネルに闇の支配が迫っていることに気づいていた。だからこそ先ほど、控室に下がらせる理由を作ろうとしたのだ。けれどライオネルに否定されては、アメリアも大人しく引き下がるしかない。その代わりに、彼女の聡い目がケレンの顔色が優れないことに気づいた。少々大袈裟に心配しているふりをしながら、ライオネルに鋭い視線を投げる。

「ケレン、顔色が悪いわ。少し風に当たった方がいい。お許しくださいますね、殿下」

「あ、ああ。もちろん。先ほどは乱暴な真似をしてすまなかった」

 柔らかさの中に断固とした響きを隠したアメリアの言葉にライオネルがそう応じた。どうやら少しは正気に戻ったようだ。アメリアにライオネルの対応を任せてしまうのは心苦しかったが、折角出してくれた助け舟に縋らない手はない。失礼しますとライオネルに頭を下げたヨルドが、バルコニーへと連れ出してくれた。

人目がなくなると気が抜けて、置かれている休憩用の椅子に崩れ落ちた。あの場から逃げ出せてほっとしたのはヨルドも同じだろう。ひんやりとした夜風が混乱した頭を冷静に冷やしてくれる。

「護り切れなくて悪かった。手は大丈夫か?」

「見た目ほどは酷くない。痛みもないし」

 ケレンの前にヨルドが跪いて、壊れ物を扱うように手を見分してくれた。恐る恐る触れてくる指がくすぐったいだけで本当に痛みはない。バルコニーには室内からの光が漏れていたが、月明かりを加えてもはっきりとは見えないはずだ。それでも目を凝らして丁寧に撫でられていると、彼にはなんの魔力もないというのに、癒えていくような気がするのだから不思議だった。魔法なんか使えなくても、いとおしい相手の手には癒しの力が秘められているのかもしれない。

「いったいなにがあったんだ?」

 ヨルドからの問いには上手く答えられる自信がなかった。ケレンが考えていることは憶測の範疇を出ないし、本に書かれていないことは知りようがない。けれどわからないとはぐらかすこともできなかった。ケレンには巻き込まれてくれた彼に説明する義務がある。

「皇太子殿下はおそらく内側の闇に呑まれかけている。さっき手を掴まれたとき、その闇が殿下の手から染み出ているような気がした。それで払ってしまったんだ」

「なんともないのか?」

「たぶん、俺の中には入り込んでいないよ。あれは俺の魔力に惹きつけられて出てきたんだと思う。殿下の言動も本心からというよりは、あの闇のせいなんじゃないかな。あくまで俺の憶測だけど」

 そうであってほしいと、心のどこかで思っていた。ライオネルの残忍さがあの闇のせいだとしたら、ライオネルをどうにか正気に戻すことができればケレンとヨルドの断罪は回避できる。しかし本当にそうだろうか?原作にはそんな描写はなかったからわからない。

それでも平和な未来を手に入れるためには、あの闇をどうにかするしかなさそうだ。

「俺になにかできることはあるか?」

 ヨルドの真摯な瞳に見上げられて、この男を護り抜かなければという決意が固まった。ケレンは彼よりも非力だが、幸いあの闇に対抗できる魔法の力がある。この物語はどうしてもヨルドを断罪の道へと引き戻したいらしかった。ケレンを護ろうとライオネルに楯突くヨルドは、下手をしたら皇太子のいいように処分されてしまうだろう。

 それだけは絶対にさせない。

「もう二度と俺と関わるなと言ったら、そうできるか?」

「悪いが、その頼みだけは聞けない」

 間髪入れずに即答されて思わず笑ってしまった。どうして笑われているのかわからないとでも言いたげな、怪訝そうな顔もおかしい。

彼を遠くに追いやれないのは傍にいて欲しいと願うケレンのわがままだと思っていた。その考えこそが独り善がりだったとわかったことがうれしい。

「どうして笑うんだ。おかしなこと言ったか?」

「いや、お前はそういう奴だったなと思っただけだ。俺と一緒にいたら命が危険だと言われても、離れる気はないんだろう?」

「当たり前だろう。お前の姿が見えないだけで不安になる」

「さすがにそれは過保護過ぎると言っているだろう」

 そう冗談めかしたら、深刻そうな顔をしていた彼がようやく笑ってくれた。立ち上がったヨルドがそろそろ戻ろうと言いかけたところで、室内へと続くドアが開いた。顔を覗かせたブラッドリーが妙に深刻そうな顔で、ちょっといいか?と問う。ケレンが頷くのを合図に、彼が後ろ手にしっかりとドアを閉めた。

「ひとりなのか?」

「ああ、お前たちに話しておきたいことがあって、」

 そこまで言って言い淀む。普段は取り巻きを従えて王様然としているブラッドリーは、ひとりでいると年相応の少年にしか見えなかった。いつも突っかかられているだけに、しおらしい彼を目の前にすると調子が狂う。警戒を露わにしていたヨルドも、少々戸惑うような視線をケレンに寄越した。

「さっき、ライオネル殿下の様子がおかしかっただろう。最近よくああいう顔をするんだ。正直、怖いと思うことがある」

「お前は手放しにあの男を崇拝していたじゃないか」

「ああ、そうだ。皇太子殿下に気に入られれば安泰だろう。けれど最近は逆らうとなにされるかわからなくて怖い。最初の頃はああいう風ではなかったんだ。お前に執着しだしてから殿下は変わられた」

「ケレンのせいだと言いたいのか?」

 そうヨルドに凄まれてブラッドリーが慌てて否定した。

「違う!そうじゃない。これはあくまでも父から聞いた噂だが、殿下はなにか呪いのようなものに苛まれているらしいのだ。ケレンとリデル嬢が時折殿下に呼び出されていただろう。それでその呪いを抑え込んでいるんじゃないかと思って」

「ケレンがあの男を誑かしていると吹聴していたじゃないか。どういう風の吹き回しだ?」

「それはっ、まったく権力に興味がないケレンが重用されるのが気に食わなかったんだ。申し訳ないことをしたと思っている!だからそんなに睨まないでくれよ、ヨルド」

 情けない声を上げたブラッドリーはヨルドのことが相当怖いと見えた。普段馬鹿にされている手前、その様子が愉快に思えてしまうのはご愛敬だろう。おどおどするブラッドリーの様子に気をよくしたのか、ヨルドがおかしそうに表情を崩した。

「そんなに怖がるなよ。お前がケレンに不利益なことをしなければなにもしない」

 くつくつと笑うヨルドにブラッドリーが安堵の息を吐いた。つられるようにケレンも笑うと、そんなに笑うなと彼が眉を下げる。馬鹿にされることに慣れていないらしいブラッドリーはどう反応したらいいのかわからないようだった。てっきり笑われて腹を立てるかと思いきや、戸惑っているのが意外に思える。いつもは取り巻きの手前虚勢を張っているだけで、本来はそれほど嫌な奴ではないのかもしれない。

「ブラッドリー、その話は確かなのか?皇太子殿下が呪いに苛まれているって」

 笑ったことを詫びてから、ケレンはそう切り出した。もしブラッドリーの話が本当であれば、あの闇の正体がわかるかもしれない。ブラッドリー伯爵家はロックウッド侯爵家と並ぶ帝国有数の名家だし政治の中枢にも通じている。彼の父親が言うことならかなり信憑性が高いだろう。

「噂の域を出ないが、かなり深刻な状況だったと聞いた。まだ殿下がアカデミーにいらっしゃる前だ。なにか対策を打たないといけないという話だったと思う」

「その対策というのは?呪いを解く方法はないのか?」

「それはお前とリデル嬢の方が詳しいんじゃないか?その呪いとやらを抑え込むことに成功したんだろう?」

「俺はただ殿下の体力を回復していただけで、実際に呪いを抑え込んでいるのはアメリアだ。さっき殿下の様子がおかしかったのは、おそらくその呪いが表に出てきたせいだろう。俺たちはそれを〈闇〉と呼んでいる。どうやら俺の魔力の波長が気に入っているらしいんだ」

「それでお前のことを婚約者に据えようとしているのか?」

「最初は殿下の体調不良は内密のことだから、身内にしか詳しく教えられないと言われたんだ。婚約者になれば教えてやると言われたが、そのときはまだ冗談に近かったと思う。でもあの闇が俺の魔力に惹かれるせいか、しつこく言い寄られるようになった」

「俺は最初、殿下はリデル嬢がすきなのだと思っていた。それがいつの間にかお前のことばかり気にするようになったから、正直気がふれたのかと思ったくらいだ。ただすきだというのならわからなくもない。ただ殿下のあれは、ケレンに対する執着はすこし常軌を逸している気がする」

「どうしてそう思う?」

 ヨルドの問いにブラッドリーが神妙な面持ちで身を寄せるように合図をした。ケレンはヨルドと顔を見合わせてから彼の言う通りにする。内密の話をするようにブラッドリーが声を潜めた。彼はどうやらこのことを教えるために、ケレンとヨルドの元へ来てくれたらしい。

「この前、父の元へ殿下がひとりで訪ねていらっしゃったんだ。話の内容を詳しくは教えてもらえなかったが、どうやらロックウッド侯爵さまを陥れるつもりでいるらしい。そうしてくれとお願いしにいらしたのだと思う」

「それはケレンを我が物にするために、侯爵家を人質にするということか?」

「恐らくそうだろう。父がなにをしようとしているかまではわからないが、なにか大変なことをしようとしているような気がする」

「なぜそれを俺たちに教えてくれたんだ?そのまま陥れられるのを見ていればよかっただろう」

 普段のブラッドリーならそうするだろうと思った。けれど彼には思うところがあるのか、酷く憤慨したような表情を浮かべる。

「父は殿下に魅入られている。その通りに行動すれば殿下が皇帝になられた際、侯爵家を凌ぐ栄光を約束しようと唆されたんだ。たしかに家門の繁栄はいいことだ。でも悪いことに手を染めてまで成り上がろうとは思わない」

「お前もまともなことを言うんだな」

「いいか、ヨルド。お前はケレンを護っていればいい立場だが、俺やケレンは跡取りとして家門の将来を考えねばならない。殿下のお傍にいれば安泰だろうと踏んでいたが、あの様子ではそれも怪しいだろうな。それにロックウッド侯爵さまは清廉潔白で立派なお方だ。そんな方を陥れたと知れたらブラッドリー家はおしまいだろう」

 ブラッドリーはけして口にはしなかったが、助けてくれと頼みに来たのではないかと悟った。ライオネルとブラッドリー伯がなにを企んでいるのかはわからないし、そんな重要な計画を易々と息子に話したりはしないだろう。それでもブラッドリーが話してくれた情報はとても重要なものだった。本の中でもそのふたりによって陥れられたからだ。

「ありがとう、ブラッドリー。その忠告を無駄にはしない」

「気をつけろ、ケレン。殿下はお前を手に入れるためならなんでもする気でいると思う。邪魔をする者は排除される。ヨルド、お前も充分に気をつけろよ。この前殿下に負かされただろう」

 話したいことを話し終えてすっきりしたのか、ヨルドを揶揄する余裕が戻ってきたらしい。ブラッドリーがそうにやりと笑うと、ヨルドがあれは魔法を使われたせいだと苦々し気な顔をした。

 その様子を眺めながら、ケレンは原作で自らが陥れられた場面を思い返していた。悪役令息だとはいえ、やってもいない罪を擦りつけられる場面は読んでいて胸糞が悪かったことを覚えている。

 ライオネルはアメリアをケレンから救うという大義名分のもと、ブラッドリー伯にケレンの不祥事を探すように厳命した。ケレンとロックウッド侯爵は冷酷無慈悲な暴君として領地に君臨していたが、領地経営自体は非常にクリーンで怪しいところはなにもなかった。それでも皇室の財産を密かに横領しているという噂を立てられ、気づいたときにはその首謀者がケレンだということになっていた。帳簿などの証拠資料もしっかりと揃っていた上にアメリアへの仕打ちが追い打ちになって、皇太子の断罪から逃れる術は残されていなかった。ケレンの弁明は誰にも聞き入れられず、辺境の地へ幽閉されてしまうのである。

 まさに今、ライオネルがやろうとしていることはきっとそれだ。ブラッドリー伯はあることないことでっち上げて邪魔者の侯爵を追放するつもりだろう。ただ、残念なことにケレンにはどうやってその証拠が用意されたのかわからない。原作にもそのあたりのことは詳しく書かれてはいなかったはずだ。

「ブラッドリー、伯爵さまがなにか妙な動きをしていたら教えてくれないか。たぶん、父の不正の証拠をでっち上げようとしていると思う」

「わかった。なにかあったら報告する。それから、怪しまれないように殿下の傍にいるつもりだが、俺をお前たちの味方にしてくれないか」

「そう言っておいて、あの男のスパイをするつもりなんじゃないのか?」

「安全な方につくだけだ。俺は伯爵家を潰すわけにはいかないからな」

 怪訝そうなヨルドにブラッドリーがそう笑った。ヨルドは疑っているようだが、その言葉に嘘はないように思う。第一スパイなら自らの手の内を明かしたりはしないはずだ。散々ケレンを馬鹿にしてきた男だが、ブラッドリーはそこまで愚かではない。

 一緒に戻ったら怪しまれるからと、ブラッドリーが先に室内へと戻った。怪訝そうな顔をしたままのヨルドに、信じられると思うかと問われる。ヨルドがブラッドリーを信じられない気持ちはよくわかる。ケレンがくだらないと思って受け流してきたブラッドリーの数々の所業をヨルドは許すことができないのだ。

「信じていいんじゃないか。俺たちを陥れるつもりなら、わざわざ手の内を明かしたりはしないだろう」

「だがお前を目の敵にしていた男だぞ」

「そんな男が俺たちに忠告してくれたんだ。信じてやる価値は充分あると思う。それに一応謝ってもらったし」

「ケレンがいいならいい」

 そう言ったヨルドがあまりに不満げだったので、思わず笑ってしまった。戻ろうと立ち上がると彼が室内へと続くドアを開けてくれる。

 舞踏会は和やかな雰囲気に戻っていた。壁際の椅子で休んでいたアメリアを誘って馬車へと戻ると、帰る道中、ブラッドリーから聞いた話を彼女に伝えた。アメリアはヨルドがブラッドリーを信じきれないと不満顔をしていることを笑った。彼女もケレンと同じように、ブラッドリーは信じるに値すると思ったようだ。

「あのプライドの高いブラッドリーがわざわざケレンに忠告をしてくれたんでしょう?きっと事情があるのよ。伯爵家は帝国の魔術師たちを管轄している家門だもの、殿下の呪いについて気づくのは当然だと言えるし。あとはどうやって侯爵家を陥れようとするか、ね」

「おそらくなにか、父さまの不正の証拠を捏造してくると思う」

「なにが起こったとしても、あの男の元へ行こうなどと考えては駄目よ、ケレン。あの闇はあなたの魔力を欲している。わたしが抑え込んでいたときよりも随分と強くなっているようだった。殿下の心を食べているからかもしれない」

「そういえば、皇太子殿下はどうしたのです?」

「あなたたちを逃がしたあと、もう一曲ダンスをするふりをして無理矢理闇を奥へと押しやったの。そうしたら意識が朦朧としてしまって、エスクアさまが連れて帰られたわ。殿下は随分とあの闇に魅入られているようだった」

「どうにかすることはできないのですか?あの闇がある限り、ケレンはあの男の執着から逃れられないのでしょう?」

 ヨルドの問いにアメリアが厳しい顔で頷いた。

「皇太子殿下はケレンの魔力に惹かれているわ。けれどケレンはあの闇を抑え込むことはできない。わたしとは魔法の使い方が違うんだと思う」

 流石、教授たちを説き伏せて女子として唯一魔法学部に入学しただけのことはある。常日頃から学術書を読み漁っているアメリアの知識は、ケレンの曖昧な前世の記憶よりも遥かに有益に思えた。しかしそのアメリアの知識を総動員したところで、ライオネルの闇がどういった類の呪いなのかを解き明かすことは難しいようだ。

「エスクアさまを問い詰めるしかないんじゃないかしら。あの闇を抑え込んでやっているんだもの、なにも知らないのはフェアじゃないわよね」

 アメリアが閃いたように顔を明るくした。たしかにフェアではないけれど、ライオネルが身内にしか明かせないと言っていた秘密をそう易々と教えてくれるとも思えない。それを言えば、アメリアが聞き出すのよと断言した。

「聞き出すって、殿下が登校されなければエスクアさまもいらっしゃらないだろう。体調が優れないようならしばらくは来ないんじゃないか?」

「だったらこっちから行けばいいのよ」

「皇宮にか?どうやって?」

「あら、あなたは仮にも侯爵家の嫡男でしょう。それに皇太子殿下のお気に入りだわ。ケレンがお見舞いに来たら、あの人は喜んで招き入れるでしょう?」

 背に腹は代えられないとはいえ、ヨルドが承服しがたいと言いたげな表情を浮かべた。その苦々し気な顔を見てアメリアが呆れたように嘆息する。一度こうと決めたアメリアは頑として譲らないところがある。結局は言いくるめられて、彼女の思う通りに動く羽目になるのだ。

「あなたのケレンを助けるために必要なことなのよ、ヨルド。不愉快かもしれないけれど我慢なさい」

「大切な恋人をわざわざ恋敵の元へ送り込む馬鹿がどこにいるのです」

 拗ねたような物言いをつい、かわいいなと思ってしまった。微かな笑みを浮かべたところをアメリアに睨めつけられて、ケレンは表情を引き締める。

「そんな顔をするな、ヨルド。もしかしたら明日、アカデミーにいらっしゃるかもしれないだろ?」

 そうだなと、ヨルドが渋々と同意した。アメリアに詰められるとわかっているから顔には出さなかったけれど、ケレンだって皇宮には行きたくない。わざわざ敵のアジトに乗り込んでいく馬鹿にはなりたくないし、ヨルドをそこに同伴させたくない。

 だから明日、ライオネルがいつも通りアカデミーへ登校していることを願った。もし来ていなくとも、それからのことはまた明日考えればいい。そう思って、アメリアからの厳しい視線を受け流した。

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