第十章 大きな輪の中で

 三十八歳の冬。蓉子は「命の手紙」という新しい著書を出版した。妊娠、出産、育児の経験を通して見えてきた、生命の連鎖についてのエッセイ集。彼女自身の体験に加え、創作教室の参加者や、全国から募った女性たちの声も織り込まれていた。


 多くの女性から共感のメッセージが寄せられた。


「有村さんの言葉で、私は一人じゃないと感じました」

「母親としての自分と、一人の人間としての自分の葛藤を、初めて言葉にしてもらえた気がします」

「今まで誰にも言えなかった気持ちが、この本の中にありました」


 そんなメッセージに触れるたび、蓉子は自分の言葉が誰かの心に届いたことの喜びを噛みしめた。


 二歳になった葉月は、言葉を覚え、世界を探求し始めていた。「これなあに?」「どうして?」と絶え間なく質問を投げかける彼女。その好奇心あふれる瞳を見るたび、蓉子は自分自身の幼い頃を思い出した。


 創作教室も続けながら、蓉子は新たな企画を思いついた。子育て中の女性たちが集まり、自分の経験を書く場を作る「母の文学」プロジェクト。それは単なる育児日記ではなく,母親としての経験を通して見えてくる世界の再発見を目指すものだった。


「日常の中に埋もれる声を集めたい」蓉子は企画書に記した。


 啓介もまた、家族の変化を自分の研究に取り入れていた。「現代の家族形態と絆の再構築」というテーマで、彼は従来の家族像を超えた多様な繋がりの形を探求していた。


「僕たちの家族も、従来の枠組みを少し超えているよね」啓介はある夜、葉月が寝た後のリビングで言った。


「どういう意味?」蓉子は尋ねた。


「君はプロの作家で、僕は研究者。お互いのキャリアを尊重しながら、家族を育てている。それに、創作教室の参加者たちも、私たちのもうひとつの家族のような存在だ」


 蓉子は頷いた。確かに彼らの家族は、社会的な「標準」からは少し外れているかもしれない。しかし、それがより豊かな繋がりを生んでいると彼女は感じていた。


 ある夕方、公園で遊ぶ葉月を見守りながら、蓉子は啓介に言った。


「不思議ね。昔は結婚や出産が怖かった。自分を失うような気がして」


 啓介は頷いた。


「でも実際は違った」と蓉子は続けた。「私は前より、もっと自分になれた気がする」


 それは単なる母親や妻になることではなく、自分の内側にあった可能性が開花したということだった。彼女は創作を通じて世界とつながり、母親として命のつながりを体験し、啓介との関係で深い理解を得ていた。


 葉月が二人に向かって走ってきた。蓉子は娘を抱き上げ、空に浮かぶ夕焼け雲を指さした。


「見て、葉月。きれいでしょう」


 葉月は小さな手で雲を指さし、何か言葉にならない言葉を発した。その純粋な驚きの表情に、蓉子は愛おしさでいっぱいになった。


 蓉子は愛おしさでいっぱいになりながら思った。


「これが私の物語。まだ途中だけど、それでいい」


 三人は夕暮れの中、ゆっくりと帰路についた。蓉子の心の中には、かつてない平和があった。彼女の旅は、新たな景色の中で続いていく。


 家に戻ると、蓉子の携帯電話が鳴った。ドイツの出版社からだった。『内なる旅路』のドイツ語版が好評で、「命の手紙」も翻訳したいとの申し出だった。


「世界中の女性たちと繋がれる」と思うと、蓉子の胸は熱くなった。彼女の言葉が、言語や文化を超えて届くということ。それは彼女が作家として望んでいたことだった。


 電話を切った後、蓉子は啓介に報告した。彼は心から喜んでくれた。


「蓉子さんの言葉には、普遍性があるんだ」啓介は妻を誇らしげに見つめた。「文化を超えて人々の心に届く何かがある」


 その夜、葉月が寝た後、蓉子は新しい物語の構想を練り始めた。それは「国境を越える物語」というタイトルで、異なる国や文化の女性たちが、それぞれの人生の岐路で下した選択と、その先に見出した真実についての連作短編だった。


 蓉子は新しい物語を書き始めながら、自分自身の旅もまだ途上にあることを感じていた。四十歳、五十歳…とこれからも彼女は成長し、変化し続けるだろう。その過程で見つける真実や美しさを、彼女は言葉にし続けるだろう。


「私の旅は続く」彼女は微笑みながら思った。「そして、それこそが私の物語」

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