第38話 「それが恋なら」
窓の外をぼんやり眺めながら、私はまた、同じ名前をノートに書いていた。
風間悠斗。
授業は、半分も頭に入っていなかった。先生の声が遠く聞こえて、ノートの端に、無意識にその名前をなぞっていた。人差し指の先で、ゆっくりと、丁寧に。
(……またやってる)
自分で気づいて、少しだけ顔が熱くなる。誰にも見られていないと分かっていても、なぜか恥ずかしかった。
――風間悠斗。
最近、毎日みたいに顔を合わせている。駅前で落ち合って、カフェで話したり、公園のベンチで他愛ないことを話したり。
あの人と一緒にいると、時間があっという間に過ぎる。ほんの少し前まで、誰かといることが億劫だったのに——今は、違う。
でも、それだけじゃない。
(このところ……胸が、少し、苦しい)
その理由がわからなかった。いや、本当は——なんとなく、気づき始めているのかもしれない。
******
昼休み、廊下を歩いていると、前から光華さんが歩いてきた。
私に気づくと、彼女は足を止める。相変わらず、どこか読めない笑みを浮かべて。
「最近、楽しそうね」
声は柔らかかった。皮肉ではなく、本当にそう思っているような口ぶりだった。
「……うん」
私は正直に答えた。
「でも、ちょっとだけ……胸が、苦しいの」
光華さんは、そんな私にふふっと微笑んだ。
「それ、恋じゃない?」
その一言に、私は言葉を失った。
恋。——それは、私にとって縁のないものだった。
御影学園に入ってから、何度か“告白”というものを受けたことがある。でも、いつも同じだった。
外見だけで、名前だけで、“氷室透華”という存在に惹かれただけの人たち。私自身を見ようとする人なんていなかった。
でも、風間悠斗は違う。
最初から私を“茨姫”なんて呼ばなかった。ただの一人の人間として、真っ直ぐに向き合ってくれた。
(……だから?)
それだけの理由で、こんなにも心が揺れるの?
私が何かを答える前に、光華は「またね」とだけ言って、歩き去った。
私はその場に立ち尽くしたまま、胸に手を当てる。
(……この気持ちが、恋?)
怖かった。自分の得体の知れない感情が。
違うと思いたい。でも、否定できない。
******
放課後。今日は駅前のカフェではなく、公園のベンチだった。風が少し強くて、木々の葉が揺れていた。
いつものように悠斗と並んで座っている。でも、言葉が出てこなかった。
何を話せばいいのか分からなかった。いつもなら、くだらない話でも笑えたのに。今日は——何かが、違った。
「……なあ」
隣に座る悠斗が、首を傾げる。
「お前さ、今日ちょっと変じゃね?」
ドキッとした。やっぱり、気づかれてる。
でも、どう答えればいいのか分からなかった。
私は少しだけ顔をそらして、小さく答える。
「……変なのは、私のほうじゃなくて」
「……?」
「気持ちのほうよ」
そう口にした瞬間、胸の奥がざわついた。
(ああ、やっぱり——)
言ってしまった。
気持ちのせい。私が変になってるのは、自分の感情のせい。
それはつまり——風間悠斗のことを、意識しているということ。
でも、今はそれ以上言えなかった。
彼がどう思っているのか分からないまま、この気持ちを言葉にする勇気は、まだなかった。
「……悪い。なんでもないわ」
私がそう言うと、悠斗は少し困ったように笑った。
「なんでもないにしちゃ、意味深すぎんだろ」
「放っておいてよ」
「無理だな。気になるし」
そう言って、彼は少しだけ肩をすくめる。
そのやりとりが、なぜか少しだけ心を軽くした。
ああ、こうやって——また、私は“友達”を言い訳にしながら、この人のそばにいるんだ。
でも、いつまでこのままでいられるんだろう。
風が強くなってきた。木の葉が、さらさらと舞い落ちる。
私はその音を聞きながら、心の中で静かに呟いた。
(……これがもし恋なのであれば、私はどうしたらいいの?)
それが、今の私には、まだ答えられない問いだった。
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