エピソードゼロ:はじまりのグラス

夜の冷たい風が、ビルの隙間をすり抜けていく。街の中心部から少し外れたその通りには、足早に通り過ぎるサラリーマンと、今にも泣き出しそうな雲の下で立ちすくむ若者の姿があった。


黒いジャケットの襟を立てて、眉間にしわを寄せたまま歩くその男は、まだ顔に幼さが残っていた。だが、その目つきには年齢以上の疲れが滲んでいた。まるで、自分の居場所を探すのをとうに諦めた者のような、鋭さと虚無が混ざった瞳。


彼の名は、たちばな怜司さとし

まだ酒の味も知らない。だがこの夜、彼はなぜか、その灯りに引き寄せられた。


通りの片隅、ぽつんと浮かぶ控えめなネオン。「Nostalgia」と書かれたプレートが、まるでそこだけ別世界のように温かな光を放っている。


怜司はふと足を止めた。理由はわからない。ただ、もうどこへも歩きたくなかった。

気づけば、手がドアを押していた。


カラン、と鈴の音が鳴った。


その瞬間、店内の空気が一変する。

カウンターにいた数人の常連客が、ちらりと一斉に振り返る。誰も言葉を発さないが、その視線には確かに緊張が走っていた。


店は薄暗く、間接照明がやわらかく木目のカウンターを照らしていた。静かにジャズが流れ、グラスの中で氷がカランと音を立てる。どこか、時間の流れが止まっているような、そんな空間だった。


怜司はゆっくりと歩き、カウンターの一番端の席に腰を下ろした。背筋を伸ばし、両肘をつき、目だけを鋭く動かして周囲を見回す。その様子に、隣の客が微かに身じろぎした。


その空気を破ったのは、カウンターの奥に立つバーテンダーだった。


「いらっしゃい」


低く、落ち着いた声。年齢は五十を少し超えたくらいか。シャツの袖を肘までまくったがっしりとした腕に、無駄のない動き。

藤崎ふじさきまこと――この店のマスターだ。


彼は怜司の顔を一瞥すると、ふっと口元だけで笑った。


「未成年じゃないだろうな」


冗談めいた口調だったが、怜司は眉をひそめたまま、一言も返さなかった。無言の圧。それに呼応するように、空気が再び張り詰める。


だが、誠は何も言わず、静かにうなずくと、背後の棚へと手を伸ばした。


カラン、という小さな音がまた響く。氷をグラスに落とす音。リキュールの栓を抜く音。トニックの泡が、静かに立ちのぼる。


誠は怜司に何も尋ねなかった。何が飲みたいかも、何があったかも。


ただ、一杯のカクテルを、黙って差し出した。


怜司はそのグラスをしばらく見つめていた。淡い琥珀色。華やかな装飾も、凝ったガーニッシュもない。ただ、そこにあるだけの一杯。


恐る恐る口をつけた一口目。喉に落ちた瞬間、わずかにむせそうになる。だが、二口目にはそれがすっと馴染んでいた。甘すぎず、苦すぎず、妙に落ち着く味。


――なんだ、これ。


戸惑いが、口には出さずとも表情に滲んでいた。肩に乗っていた重石のようなものが、知らず少しだけほどけていく。


誰かがこっそり息を吐く。店内の空気が、わずかに柔らかくなったのがわかった。


怜司はグラスを見つめたまま、ぽつりと口を開いた。


「……これ、なんだよ」


誠は、洗っていたグラスを拭きながら、少しだけ目を細めて言った。


「今のお前に、一番効くやつだ」


怜司は鼻で笑いかけたが、それも途中でやめた。言い返す気力は、なぜか湧かなかった。代わりに、ゆっくりとグラスを空ける。


常連たちは、もう何も言わない。今はもう、そこにいるべき空気がちゃんと戻っていた。


カウンターの中の誠が、再び静かにグラスを拭き続ける。


怜司は立ち上がり、店を出ようとした。その足は、どこか軽くなっていた。


「……あんた、何者なんだよ」


ドアの前で、振り返りもせずに怜司が言う。


その背中に向かって、誠は一言だけ返した。


「バーテンダーだよ」


それだけだった。だが、怜司の足はほんの一瞬だけ、止まった。


カラン、と扉が鳴って閉まる。外の冷たい空気が、ほんのわずかだけ、優しくなっていた。


この夜の一杯が、怜司の人生を変える始まりだった――。

それがどんなレシピだったのかを、彼は今も知らない。ただ、それが“初めて心をほどかれた味”だったことだけは、ずっと忘れなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

氷が溶けるまで ウニぼうず @bafun-uni

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ