第2話 3月19日 読み合い
休日のショッピングモールは一言で表すとカオスである。
私のアルバイト先はショッピングモール。全国的に店舗を構える某有名企業で、最近は店舗数も増やし、幅広い客層から指示を集めている。
私の働く店は全国の店舗の中でも5本の指に入るほど規模が大きく、売上も上位をキープしている。それすなわち、お客さんの数も目を見張るほど多い。私が担当する部署は主に文具や家電、ゲームなどを販売している。大型店特有の『絞れていない』部署である。
日曜日の今日は小さい子どもを連れた家族層がほとんどで、フロア内には泣き叫ぶ子供の声、怒り心頭で怒鳴り声をあげる親の声、走り回って奇声を上げる小学生などが溢れていた。パニック映画さながらの様子である。
唯一落ち着ける場所がレジ中だ。お客さんの侵入が許されていないこの場所だけは、辛うじて秩序を保っており、冷静に店舗内を観察できる。
新学期手前ということもあって、レジには常に人が並び、次から次へとお会計をさばいていく。
「お願いします」
「はいお預かりします」
若い女性がボールペンを数本持ってレジに入ってきた。ボールペンを差し出すその手は、私の手とお会計台のちょうど真ん中あたりに差し出され、僅かな時間、そこで停滞した。これは私に手渡しをしているんだ、と判断し、手を伸ばすと、その女性はボールペンを台に置いた。
「あ、すいません」
私は手をさっとひっこめる。
こういう『読み合い』はバイトをしているとしょっちゅう起きる。レシートは手渡しがいいのか、お釣りは手渡しか。無言で差し出されたカードは、クレジットなのかその他の電子マネーなのか。
客自身は自分の一挙手一投足に様々な意味が込められていることを自覚していない。ここは売り場スタッフの『読み合い』の力が必要とされるのだ。
「次でお待ちのお客様どうぞー」
会計待ちが長い列を作り始めたのを見て、社員の菊原さんが私よりも一つ奥のレジを開けた。この社員もまた不思議な人間なのだが、その話はまた今度。
二人でお会計をこなしていき、列はどんどんと短くなった。こういう時、私はこの仕事に達成感を感じる。
「いらっしゃいませ」
最後のお客様からボールペンを受け取る。冷たい感触が指先をなぞり、反射的に目を向けると、ペン先からインクが漏れ出し、私の左手を青く染め上げていた。
「あら、ごめんなさい」
「大丈夫です。今、代わりのものをお持ちしますね」
菊原さんにレジの対応をお願いし、ボールペンの売り場まで早足で向かう。
ここで嫌な予感が走った。売り場は碁盤の目状になっている。つまり、商品棚と商品棚の間には交差点が生じる。私は背が高くないから、交差する商品棚の先は死角となる。
反射的に立ち止まると、予感は的中。小さな丸坊主が私の目の前を脱兎のごとく駆け抜けた。この『読み合い』には勝利した。心の中でガッツポーズ。
意気揚々と一歩を踏み出すと、おばあちゃんが飛び出してきた。いや実際の速度はそこまで早くなかったのだが、意外性が状況を大げさに演出した。おばあちゃんが押すカートは見事に腰にヒット。高さは丁度腰骨のあたり。鈍い痛みが走る。
『読み合い』は一筋縄ではいかない。
手にべっとりついたインクを落とすため、私はトイレで手を洗いに行った。お客様も利用するトイレなので、なるべく邪魔にならないように、手洗いも端で行う。
なかなか取れないインクに苦戦していると、次々にお客さんが手を洗ってトイレから出ていく。
トイレにはいろんなタイプの人がいる。ぴゃっと水に指先だけ通して出ていく人、しっかり洗っているように見えるけど、実は手の甲しか洗ってない人、石鹸までつけるけど泡立たせないで流す人。最悪洗わないで出ていく人だっている。
しかし、私のように泡立たせて入念に手を洗う人がいると、手をしっかり洗う人の割合がぐっと上昇する。
心理的にはこういう感じ。
「うわー、手洗うの面倒だけど、隣でめっちゃちゃんと洗ってるじゃん。適当に洗って出たら不潔って思われるし、私もちゃんと洗お」
私の存在が公衆衛生に良い影響をもたらしているという実感。
一人、個室からお客さんが出てきた。鏡で前髪を直しながら、入念に手を洗う私を一瞥。あ、明らかに面倒だという顔をした。
女性はまず手を軽く濡らした。いつもなら、これでハンドドライヤーかハンカチへと進むだろう。あ、石鹸出した。さあ、泡立てるのか。
女性は丁寧に石鹸を泡立て、手の甲から指先まで手を洗い始めた。時折こちらをちらちらとみてくるのは、私がいつ洗い終わるかを見定めているからだろう。私よりも先に洗い終えてしまったら、洗い方が雑な人、と思われてしまうかもしれないという危惧が垣間見える。
いや、ハンドドライヤーがかぶってしまうという気まずい事態を案じているのかもしれない。もしも、今泡を洗い流すタイミングがかぶったら、ハンドドライヤーがかぶる。そうしたら、手がびちょびちょのまま、「あ、先どうぞ」みたいな、かなり居心地の悪い譲り合いの時間が生じる。
トイレの手洗いには巧みな『読み合い』が存在する。さあ、どうする。
女性は思い切って泡を流し始めた。早い決断。彼女はきっと指揮官に向いている。女性は私が読んだ通り、ハンドドライヤーで手を乾かし、最後にもう一度メイクの状態を確認して外へと出ていった。
この『読み合い』は面白い。夢中になって次々観察をした。もうとっくに手のインクは落ちているのだけれど、面白いから続けることにした。
今のところ、子供から大人までの全員が石鹸を付けて手を洗い続けている。密かに、すごいことを発見してしまったと思った。
気が付くと、トイレに列を作ってしまっていた。これはトイレをするための列ではなく、手洗い待ちの列。衝撃的な様子だった。みんな、律儀に列を作り、手を洗うために待っている。今まで見たことのない景色。世界を少し変えてしまった。そう思うと若干、恐ろしくなった。
そそくさと手を洗い流し、ハンドドライヤーで手を乾かそうと、振り向く。
「あ」
「あ」
被った。
「あ、先どうぞ」
ここは売り場スタッフが譲るべきだ。気まずい時間。
『読み合い』で遊ぶものは『読み合い』に遊ばれる。
今も、どこかで リコラ @Sachitaro
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