Asystole【エイシストリー】
穂高凜
日常の崩壊及び発端
春先の嵐を引きずるようなしつこい長雨で、せっかく咲き誇った桜の花も枝葉だけを残したまま、寂しげに川の護岸上を通る道路を並んでいる。
一級河川と銘打ったこの鳴多良川(なだらがわ)は、その実すり鉢状の高いコンクリートに囲まれたドブ川なのだが、自然の少ないこの住宅地一帯の住民たちにとっては、街の喧騒を一瞬忘れられる憩いの場となっていた。
そんな川と道路の間、遊歩道兼サイクリング用になっている道を、トロトロと自転車を漕いでいる女が一人いる。
「ああ……ねむい」
背負った水色のリュックにはネームプレートがぶらさがっており、瓜生芽実(うりゅうめぐみ)と記載されている。
ニ十代とはいえ、夜勤の終わった明けの日は酷く身体に堪えるものだ。
芽実もまた他に漏れず、容赦なく襲い来る睡魔と数日ぶりの晴れ間のまどろみタッグに、意識が飛びそうになるのを必死に耐えながら重いペダルを踏み続ける。
端から見れば、きっと危ない運転をしているだろう。
先輩職員らにも帰る前に少し仮眠していけと言われたが、今日は一刻もはやく帰宅する必要があった。
職場から三十分程走ったところに、芽実の住むアパートが建っている。
まるで団地のようにいくつか同じ色形の住居が連立していて、慣れない内は危うく自分の棟を通り過ぎてしまいそうになる。
芽実が借りているのはB棟なので、左端から数えて二番目であるのだが、B棟から一、二、三と更に数棟分かれていて、道路より奥まった位置にひっそりと建つ三番棟が住処であった。
迷いに迷って管理棟に出向き、恥を忍んで自分の部屋を教えてもらったという出来事があったのは、引っ越してきた当初である去年のちょうど今頃の話であっただろうか。
慣れた身のこなしで、敷地内の狭路をスルスルと車輪を回していく。
やがて見えてきたのは、壁一面が薄褐色に染められた二階建ての建物。
ここの角部屋である一◯五号室こそ、芽実の部屋である。
キーィという音を響かせて自転車を止めると、芽実は一度大きな溜息をついた。
アパートの裏手は屏風のように竹林が広がっており、よその目を遮りつつ住民達の心の安らぎとなっている。
過度な疲労でピクピクと痙攣するふくら脛をなだめるように擦りながら、駐輪場を後にした。
細身に見せようと履いたジーンズが出勤前は何ともなかったのに、今は脚を過度に締め付けて痛みさえ感じる。
重い身体を引き摺りながら、ドアの前まで来たその瞬間
「う、瓜生さん!」
背後から轟く吃った野太い声ー。
B棟管理担当の志島(しじま)だった。
感情の読み取れない濁った瞳に加え、熊のように大きな体格が、相手に不必要な威圧感を与える。
おまけに散髪に失敗したのかというばかりに、不揃いで乱れた髪型が、この男の異質さをさらに引き立てていた。
「い、今お帰りですか。大変ですねぇ。お、お疲れ様です。へへ……」
迷子になった際、部屋まで案内してくれた人物がこの志島であるのだが、以来事あるごとに芽実に声をかけてきていた。
そして、勘違いであればいいのだが、今日もこのようなタイミングで現れるのもわざわざ待ち伏せをしていた気がしてならない。
脂ぎった丸い顔を赤らめながら、妙にたどたどしい足どりで一歩二歩と近づいてくる。
「あ、あの、も、もしよろしければこ、これから食……」
「疲れてるのでごめんなさい!」
食事に行こう。
つい数日前に聞いた台詞と同じであった。
答えははじめから決まっているのだから、最後まで話を聞くまでもない。
野武士のような志島の声は、芽実の明朗快活な声にかき消された。
バッグの中を漁って掴んだ鍵の束を取り出すと、特徴的な形状が目立つ鍵を一つ選んで差し込み回す。
ガチャッと開く音が鳴ったと同時に、芽実は室内へと飛び込んだ。
一秒もかからぬ内に閉めたドアの向こう側から、鼻息荒い獣の気配が貫いて来る。
バクンッ、バクンッ……バクン。
芽実は目を閉じながら胸に手を当てた。
激しかった鼓動が徐々に治まり始めると、代わりにふとある疑問が頭に浮かび始めた。
「なんで鍵がここにあるんだろ」
公私共に几帳面な性格だった芽実は、普段から鍵束もキャラ物のポーチにしまっているのである。
しかし今はメモ帳が庇うように立ち塞がり、そのさらに下、バッグの底に紛れていた。
普通の人間ならここで特に気にもせず、無意識にバッグの中へ放り込んでしまったということで完結することと思う。
だが芽実は、違った。
先ほども彼女は几帳面であると説明したが、それは一種病的とも思える程で、物が自分の想像する形に存在しないとどうにも気が落ち着かないのだ
芽実自身も、そんな自分に嫌気を感じて病院へと受診したのだが、あらかじめ予想していた強迫性障害の五文字は医師の口からいよいよ飛び出さなかった。
つまりは、芽実の生きた二十五年間という時間の中で培った性格ということになる。
ともあれ、ポーチ外に鍵束をそのまま放り込む等、芽実には到底考えられないことだった。
さて、話を元に戻すと、芽実は部屋の中に飛び込むと、すぐさま覗き穴から外の様子を確認した。
魚眼を通して見たような視界の中心には、魂が抜けたように茫然と立ちつくす志島の姿が捉えられるのだが、まもなく立ち去り往く彼の背中には陽炎のように揺らめき、魔物のごと纏わりつく何やら形容し難いモノが憑いているように見えた。
志島が小さな点となって消えゆくのを見送ると、芽実は穴から目を離して、力無く上がり框へと座り込んだ。
芽実の住む部屋は、居間に簡素なキッチンの付いた一人暮らし用の間取りになっていて、風呂とトイレが別であることに加え、収納スペースが広く取られていることがここの売りであった。
他の部屋は見たことがないのでわからないが、おそらくは同じような造りになっていると思われる。
一人暮らし用とは云えど、人一人が住むには、ましてや物持ち良い女性にとっては少々手狭であった。
幾つもの同じような靴が乱雑に方々を向いている玄関を飛び越えて、居間へと進む。
間取りに対して不釣り合いな長めな廊下を進むと、一人が暮らすのに必要な最低限の家具だけで整えられた八畳の洋間が広がっている。
一般的な若い女性の部屋にしては、些か簡素なインテリア具合かもしれないが、あらゆる物を白黒系で揃えているのが唯一芽実のこだわりであった。
そんなモノトーン調の世界に、空からインクをぶちまけたような真紅が部屋の中心に横たわっていた。
……思考が……追いつかない。
ソレは、真ん中に置いてあるちゃぶ台式のテーブルを押しのけるような形で横たえていて、ピクリとも動かない。
眠気でうっかり閉じかけていた目を何度も擦る。
否定をしたい気持ちとそれを許さない眼前の現実が激しくせめぎ合い始めたが、いとも簡単に後者が勝利した。
ソレは、たしかに人間であった。
見たところ女性のようで、鮮やかな赤のスプリングコートに身を包んでうつ伏せに倒れている。
「あ、あの、大丈夫……ですか?」
この状況、どう考えても大丈夫なわけがないのだが、パッと浮かんだこの言葉を振り絞る以外、今この瞬間の芽実にできることはなかった。
呼びかけてから数秒経ったが、ピクリとも反応がない。
もう一度声をかけてみるものの、結果は同じ。
このままでは埒があかないので、おそるおそる近付いてみた。
築四十年という年月の重みが、木製の床をギィギィと軋ませる。
その後に続くように、無意識に止めていた呼吸から少しずつ漏れ出す音だけが部屋の中を響きわたる。
芽実は女の横へと立つと、意を決して女の首元へと手を伸ばした。
蜘蛛の巣のように広がる栗色の髪の毛が、不気味さと生々しさをより一層際立たせる。
必要以上に乱さないよう静かにかき分けて、その先にある仄かに温もる肌へと指の先が触れた。
きめ細やかで滑らかな触り心地、顔こそまだ見えないがかなり若い女と思われる。
美しいが生気の感じない密度の濃い真珠を思わせる皮膚は、まるで蝋人形のようである。
首筋に指を二本あてがい、目を閉じて神経を集中させるが、波打つはずの脈は一切感じとれなかった。
「ひぃぃ……!」
既に女が死んでいる確証を得た芽実は、ここで初めて悲鳴にもならない声をあげた。
ー続く
Asystole【エイシストリー】 穂高凜 @V-Star
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