喧騒の一欠片
一日の仕事を終え、ユーリはディルクに連れられて下層の酒場に来ていた。
店内は見渡すほど広く、橙の照明がぼんやりと酒飲み共の赤ら顔を照らしている。畳のように大きな長テーブルが断続的に果てまで並ぶ様は圧巻で、それが埋まる様もまた圧巻だ。
「相変わらず凄い人ですね……」
「いっつも下層の労働者全員詰まってんじゃないかってくらいいるよな」
ユーリの呆れと感心が滲んだ言葉に、ディルクが笑って答える。
第一成人を迎えたとはいえ、飲酒可能年齢はまだだいぶ先である。だというのに、むせ返る酒気に晒されるのはいいのだろうかと此処へ来る度にユーリは思うのだが、周りは誰一人気にしていない。
ユーリが今日の仕事を共にしたディルク班の面々と肩を並べてテーブルに着くと、ウェイターが班員にはジョッキに入った発泡酒を、ユーリには合成麦茶を、それぞれ置いた。
下層区で手に入る安価な酒は、中層以上で製造したものの絞り滓を使ったものや、賞味期限間近となって下層へと送られてきたものが殆どである。地球歴の中世に並ぶ格差社会だが、中層の人間はともかく下層で暮らす技術者たちは、上層の貴族生活が性に合わない生粋の職人ばかりであるため、この暮らしに少なくとも不満はない。
稀に上等な酒が流れてくることもあるが、独特の雑味と苦味に慣れた舌にはどうも合わないようで、だいたいがアーヴィンや第一、第二部隊隊長の下へ送られる。
胸の内はどうであれ、ソムニアの上層や中層に下層の職人階級を差別している人はいない。稀に、我が子への躾として「勉強をしないと下層で働く羽目になる」と脅す親もいるが、寧ろそういった発言のほうが勉強を怠っている者の証左であると殆どの人が理解している。
なにせソムニアを建造したのが、下層で働いているような技術者と、上層の研究者なのだから。上層を創造者、下層を維持者、そして中層を消費者と呼ぶこともあり、実際にそれぞれの有り様を端的に表している言葉である。
インフラも生活の安全も安心も利便性もなにもかも、全てが下層の手の内にある。即ち下層の技術者が船の命を握っているに等しいのだ。
この船にあるのはあくまで生活様式の差違であって人種や職種差別でないことも、職人たちが余計な気を揉まず仕事に集中出来ている要因だった。
そんな性質だからというのもあって、ユーリのように中層で生活して下層で仕事をする者は滅多にいない。というより、片手で足る程度しかいない。
「ユーリは今日も食ったらすぐ帰るのか」
「はい。妹を一人にはしておけないですし」
ユーリ同様、中層に家庭を持つディルクの問いに、ユーリはサンドウィッチに齧り付こうとしてあけた口を応答に回して頷いた。
間が悪かったなと笑って謝るディルクに首を振りつつ、今度こそサンドウィッチを囓る。
遺伝子組み換えどころではない、一週間ほどで育ちきるバイオウィートとライ麦を使用した安価な全粒粉ブロートは、下層区での主食の一つだ。黒麦パンとも呼ばれるそれは、ハムやサラミと合わせて粒マスタードで味付けされることが多く、ユーリが下層に来たばかりの頃はパンチの効いた味付けと独特の酸味に慣れず、苦労したものだった。
それがいまでは、仕事終わりにはこの独特の濃い味付けがされたサンドウィッチを食べないと一日を終えた気になれないのだから、わからないものだ。
固く噛み応えがあり、栄養価が高く、日保ちがする上に腹持ちも良い。肉体労働をしない人にとっては塩分過多だが、下層労働者にとっては理想的な栄養食である。
「お前も良くやるよなぁ。中層の第一成人じゃ、まだ学習院行ってる奴が殆どだろ」
すっかり下層の空気にも味覚にも馴染んだユーリの頭を雑に撫で回し、ディルクが言う。
彼は第二成人間際に突然成長期が訪れ、一晩で十五センチほど身長が伸びたことがあり、暫くあちこちに頭をぶつける様子が見られた。ということを、未だに酒の席で言われる、少々不憫な青年である。
整備士長のアーヴィンと違い普段から愛想が良く、とっつきやすい性格のためか、班員に慕われつつ遊ばれつつな、絶妙な距離感を保っている。しかし、馬鹿にされているわけではなく、寧ろ外部から彼を嘲笑う声がすれば班員が全力で応戦するほど、真っ直ぐに慕われている良き班長だ。
「中層以上の就職向けの座学は性に合わなかったんで、いいです。早く整備士として役に立ちたいですし」
「ははっ。まあ、俺もそれでこっちを職場に選んだクチだからな。馬鹿にしてるわけじゃないさ」
そう言うと、ディルクはユーリに飲みかけのジョッキを差し出した。まさか飲めというわけではないだろうと不思議そうにしているユーリを見下ろし、にんまり笑う。
「ともあれ第一成人と見習い卒業、おめでとう」
「え、あ……ありがとうございます」
驚いて目を丸くしつつも、ユーリも自分のグラスを差し出して軽く突き合せる。
カコン。という、何とも言えない硬質な音が二人のあいだで響き、照れくさそうに笑い合いながらグラスを傾けた。
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