令嬢、道を阻まれる

セレナ・ノワールの滑らかな声が、思考の渦に無理やり割り込んでくる。

現実の舞台は待ってはくれない。

白布に包まれた平たい木箱──《沈黙の書架》が紹介され、会場がわずかに沸いた。


「《沈黙の書架》……内部に空間魔法と隠蔽機能、ですか」


「前の持ち主は行方不明……曰く付き、というわけね」


「だが、それだけの価値はあるかもしれんぞ……」


闇市場で取引されるような品々を持つ者にとって、これほど魅力的な機能はないだろう。

盗品、禁制品、あるいは……誰にも知られたくない秘密。

それを安全に保管できる可能性。


けれど、周囲から聞こえる囁き声も、今の私の耳には半分も入ってこなかった。


まだ紫紺の瞳の残像が頭から離れない。


ヴァイオレット・ラブデイ――彼女が確かにいた。


私は努めて無表情を装い、グラスを口元へ運ぶ。

指先が微かに震えているのを悟られてはならない。動揺は最大の隙だ。


考えてみれば、全くありえない事態とは言えない。

彼女はラップルズ家の没落について調べていると言った。

なら、この「裏の世界」に足を踏み入れるのは自然な流れ。


大丈夫。正体だけバレないならいい。


「お嬢様、顔色が…」


隣から、クラリスの囁き声が聞こえた。


彼女も気づいていたのかもしれない。

私の動揺、あるいはあの視線の主に。


「……大丈夫よ。少し、考え事をしていただけ」


「左様でございますか。ですが、お気を確かに。そろそろ……のはずです」


クラリスの言葉に、私はわずかに頷く。


そうだ。感傷や不安に浸っている場合ではない。

本命の品、私が本当に手に入れるべきものが、間もなく現れる。


《沈黙の書架》の競りは、予想以上の高値で決着がついたようだ。

落札者は最後まで姿を見せず、代理人らしき者が静かに手続きを進めている。

そんな光景も、ここでは日常なのだろう。


セレナ・ノワールが、満足げに頷きながら再び中央に進み出る。

彼女の動き、その間の取り方一つで、会場の期待感が操作されていく。

実に巧みな演出家だ。


「さて、皆さま。今宵も佳境に差し掛かってまいりました」


来た……!


黒いベルベットのクッションに乗せられ、それが運ばれてきた。

一見、変哲のない黒曜石のブローチ。

だが、その中心で揺らめく僅かな光の歪みは、紛れもなく《虚ろなる鏡ミラージュ・ミラー》の特徴だった。


心臓が一度、強く跳ねる。

これこそが、今回の真の目的。私の変装術を完成させるための鍵。


セレナが、その由来と効果(とされるもの)を語り始める。


「持ち主の姿を、見る者の記憶に応じて曖昧にする……あるいは、最も『見慣れた』誰かに誤認させる、とも。幻術の一種でしょうか。古代の隠密が用いたという説もございますが……真偽は定かではありません」


その効果は、ミスディレクション・ブローチとほぼ同じ。

もともと、あれこそが『オリジナル』なのだから。

ミスディレクション・ブローチは何代前のご先祖様が作ったレプリカに過ぎない。


今のブローチでは、しょせん『誰でもない誰か』にしかなれない。

それだけならいつか必ずボロが出る。

勘のいい相手には通用しない。


けれど、あれなら、『その場にいるべき誰か』に、完璧に成り代われるはず。

より深く、より安全に潜る事ができるんだ。


「出ましたんですね」


それに、名分もしっかりしている。


クラリスも恐らくに使い道ついてはお察しでしょうが, 何の異議も申し立てない。


「そう、もう見守るだけよ」


会場の反応は、熱狂的ではない。


予想通りだ。貴族たちにはあんまり魅力的ものではない。

彼らにとって、顔は隠すべきのではない。

むしろいつでも有効に使える武器だ。


問題は、誰が手を挙げるか。


私の計画では、特定の流通経路を持つ中堅の商人。

あるいは収集癖のある没落貴族あたりが落札してくれるのが理想だった。

彼らの手からなら、後で回収する算段が立てやすい。


「さあ、それでは入札を開始いたします。開始価格は……50フローリンより」


セレーナの宣言と共に、魔導札(スレート)の光が静かに点滅を始めた。

数字はゆっくりと、しかし着実に上がっていく。


「……52フローリン、12番スレート」


「……55フローリン、23番スレート」


低い価格帯で、探るような入札が続く。


「効果が不確かすぎるな」


「まあ、あの程度なら……」


このまま落ち着いてくれれば、と思っていた矢先だった。


会場の一角、やや影になった席から、すっと手が挙がった。


魔導札を使わない、古風な意思表示。

その仕草に、いくつかの視線が集まる。


セレーナの眉が興味深げに僅かに上がる。


「あら……直接の挙手ですわね。47番マスクの方。60フローリンとお受けいたします」


そして、その手が示す先に座る人物の横顔が、一瞬だけ照明に照らされた。

仮面はつけている。だが、その顎のライン、首筋のしなやかさ。

あの佇まいは――


「……ヴァイオレット!?」


思わず、声が漏れた。

幸い、周囲のざわめきに紛れたようだが、隣のクラリスが驚いて私を見た。


あれは表に出ていた品ではない。

いくらヴァイオレットでも、私と関係ある物だと知ってるはずはない。


どうにかして知ったとしても、入札という方法を選んだのも疑問である。


もしくは、彼女自身がこの力を必要としている?


「だとしたら、何で…?」


ヴァイオレットは冷静に、しかし着実に値を吊り上げていく。

他の入札者たちが次々と降りていく。


まずい。このままでは彼女のものになる。

そうなれば、私の「回収計画」は根から破綻する。


「……85フローリン、12番スレート!」


まだ食い下がる者がいた。


だが、ヴァイオレットは僅かな躊躇も見せず、再び静かに手で合図を送る。


「95フローリン! 47番マスク!」


セレーナの声にはどこか愉悦の色さえ滲んでいるようだった。

彼女はこの競り合いを楽しんでいる。


12番スレートの光が逡巡するように明滅し、やがて力なく消えた。

他の入札者ももう動かない。


「95フローリン! 47番マスク! 他にいらっしゃいませんか?」


セレーナの声が会場に響く。


「よろしいですか?」


どうにかして阻止しなければ。


だが、私が前に出るわけにはいかない。

そもそもお金もないし。


「何か……手は……」


無意識に漏れた呟きに、クラリスが緊張した面持ちで私を見た。


「47番マスクの方、95フローリンで……」


セレーナが最終宣告をしようとした、その刹那。


私は決断した。


ごく僅かな、しかし明確な意志を込めて、隣に立つクラリスの手を握る。


そして囁いた。会場の誰にも、ただ彼女にだけ届くように。


「……クラリス。《プランB》よ」

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