第23話

 カフェラテ、微糖、ブラック。眠気覚ましなら、やっぱりブラックか。でも甘いのも飲みたい気分なんだよな、と僕は自販機の前で何を買うか悩んでいる。

 授業が早く終わって、飲み物を買いに来る人はたぶん他にはいないだろうから、もう少し迷ってもいいかな。

 そういえば、先輩と話してから三日経ったけれど、まだ先輩から連絡がない。このまま連絡がなくても、もう僕から話しかけることはないだろうな。

 自販機の硬貨投入口にお金を入れる。

 カフェラテのボタンに指を置く。やっぱりブラックにしようかな。

 トントン、と誰かから肩を叩かれ、カフェラテのボタンを押してしまった。ガコン、と取り出し口に落ちる音がした。

 ブラックにしようと思ったのに、カフェラテを押してしまった。

 足音も何も聞こえなかった。どうせ湊だろうな。この前も僕の肩を叩いて、奢って、とか言ってねだってきた。


「おい、今日は奢らないからな。次はお前の番」

 取り出し口からカフェラテを取って、僕は後ろを向いた。

 そこには湊ではなく、ぽかんとしている表情の凛華先輩がいた。

「びっくりした! 先輩だったんですね。友達と間違えました。すみません」

「いや。大丈夫。こっちこそごめん。いきなり肩叩いて」

「いえ……先輩も授業早く終わったんですね」

「授業というか……今はレポートを書く時間で、自由に動いて大丈夫なの。レポートがなかなか書けないから飲み物買いに来たら、真絃がいたから……」

「そうなんですね……。ちなみに何買いに来たんですか?」

「カフェラテ」

「あ、じゃあこれあげます」

 持っていたカフェラテを先輩に渡した。

「ダメだよ」と言って返された。

「いや、飲んでください」

 僕は先輩にまたカフェラテを渡す。

「いや、でも、あ……そっか。分かった。ありがとう。もらうね」

 たしかこんなやり取りを高校生の時にした気がする。先輩は思い出してくれたのだろうか。僕に格好つけさせてくれたのだろうか。

 

 僕はブラックコーヒーを買って、「先輩じゃあ」と言った。

「待って!」と先輩が言う。

「どうしました?」

「今日、全部の授業が終わったら、話せるかな?」

 今日は学校が終わって、湊と一緒に湊のバイト先の居酒屋に行く予定だ。きっと湊に言ったら、話してこい、と言ってくれるはず。

「はい。大丈夫です」

「じゃあ、正面玄関集合で」

「分かりました。じゃあ」

「うん。じゃあ」

 僕は教室に向かって歩き出す。少し歩いて、ふと先輩が気になり後ろを向くと、先輩が僕のほうを見ていた。僕が軽く頭を下げると、先輩はカフェラテを持った手を振った。僕はすぐ前を向いた。

 大丈夫だ。何度、後ろを振り返ったとしても、前に進める。



***



「じゃあ適当に時間潰して待ってるわ」と湊が言う。

「ごめん。話し終わったらすぐ行く」

「おう! じゃあまたあとで」

 湊には、居酒屋の近くで時間を潰してもらって、話が終わり次第、急いで湊の所に行くようにした。


 帰る準備もできたし、先輩の所に行こう。


 正面玄関に着き、周りを見渡すと、前にあるベンチに先輩が座っていた。


「すみません。お待たせしました」

「ううん。私も今来たところ。座って」

 僕はベンチに腰掛ける。

「今日彼氏さん大丈夫なんですか? 一緒に帰らないんですか?」

 先輩の彼氏のことを普通に訊くことができている。ほら、僕は前に進めている。

「大丈夫。別に毎日一緒に帰らなくてもいいし」

 先輩が地面を見下すように見ている。この目、高校の時と同じだ。何でそんな目をしているんですか。

「そうなんですか……」

「それより、あの……真絃に気づいてたのに、気づいてないフリをしたり、この前教室に来てくれた時も最悪な態度を取ってごめんなさい」

 先輩が僕のほうを向いて頭を下げた。

「いや、別に大丈夫です。頭を上げてください」

 先輩がゆっくりと頭を上げ、前に向き直る。僕も前を向き、正面玄関から出てくる生徒達を見る。

「私、真絃に合わせる顔がないと思ってた……もう私には関わらないほうが良いよって思ってたの。実は……真絃の家族が壊れたのは私のせいなの。あの不倫してる写真がママに見つかって、それで……」

「先輩! 先輩のせいじゃないですよ」

 僕は先輩の話を遮った。

「えっ……」

「先輩のせいじゃないので今後は絶対に謝らないでください。だいたい、悪いのは不倫した親じゃないですか。不倫をしなければ写真を撮ることもなかった。写真が見つかることもなかった。全ては不倫が悪いんです。それと……僕の家族はとっくに壊れていたんです。僕とお母さんの関係は最悪でした。だからいいんです。今はお父さんと二人暮らしで快適に過ごしているんで大丈夫です」

「……じゃあ、これだけは謝りたい」

「何ですか?」

「あの日、図書館に行かなくてごめんなさい。メッセージの返事をしなくてごめんなさい。あの時本当は会いたかった。会って話したかった。でも、真絃に会う資格がないと思って行かなかった。ごめんなさい」

「大丈夫ですよ。分かってますから。あの時はそうするしかなかったんですよね。だから大丈夫。僕は今、先輩が元気で幸せなら大丈夫です。もう、僕のことなんて気にしなくていいんです」

 僕は、自分で最高の笑顔だと思う笑顔を先輩に向けた。

 先輩が安心したように笑った。

「ありがとう。私も真絃が元気そうだから安心した」

「それは良かったです……。あの……僕、このあと予定があって……」

 本当はもっと話したいことがあるけれど、今の僕にはこれ以上先輩と話さないほうがいい。前に進むために必要最低限の関わりでいいんだ。

「そっか、ごめんね。今日急に声かけて」

「いえ……じゃあ僕はこれで」

 僕は立ち上がって軽く頭を下げた。歩き出そうとすると、急に手首を掴まれた。

「ちょっと待って。駅に行くんだよね? 一緒に行こう」

「……すみません。走って行くのでごめんなさい」

「そっか……分かった。じゃあね」

 僕は、じゃあ、と言ってすぐに走り出した。

 本当は走る必要はない。思ったよりも話がすぐ終わったから歩いて駅へ向かってもいい。でも、これ以上先輩といると、また心が先輩で埋め尽くされてしまう。


 走れ。走れ。

 

 走りながら、一人で帰る先輩を想像した。一人で寂しそうに帰る先輩を想像した。走る足が徐々に止まった。もうこれを逃したら先輩と一緒に帰ることなんて一生できないかもしれない。これを最後にしよう。最後にして、もう僕からは関わらないようにする。


 僕は踵を返して走った。


 一人で歩いている先輩が見えた。先輩も僕に気づいたのか、僕を見ている。

 先輩の所に着くと、「どうしたの?」と先輩が言う。

「やっぱり一緒に駅まで行きましょう」

「時間大丈夫なの?」

「はい。時間勘違いしてました。まだゆっくりで大丈夫です」

 

 歩き出すと、「久しぶりに一緒に帰るね」と先輩が嬉しそうに笑った。

 僕は、「高校生の時を思い出しますね」と言って少しだけ笑った。


 歩きながら先輩が沢山の話をしてくれた。あの先生の時は居眠りをしたらめちゃくちゃ怒られるよとか、あの先生のテストは毎年同じ問題だから今度教えてあげるとか、一人暮らしで自炊を頑張っているとか、過去の話には触れずに、今の話を沢山してくれた。でも、なぜか彼氏の話は一切しなかった。僕としては彼氏の話を聞きたくなかったからちょうど良かったのだけれど。


 僕達は高校生の時より、ゆっくりゆっくり歩いて駅へ向かった。

 駅について、それぞれ乗る電車が違うので、改札口を通ってから別れた。

 ホームについて電車を待つ。線路を挟んだ反対側のホームに先輩が見えた。先輩はたぶんスマホを触っている。

 僕もズボンのポケットに入れていたスマホを取り出すと、スマホの通知音が鳴った。画面を見ると先輩からのメッセージだった。


『今更だけど、高校の時に真絃が送ってくれたメッセージに返事してもいいかな?』


 先輩を見るとスマホを見ている。


『はい。いいですよ』

 

『こちらこそありがとう。真絃が友達になってくれて、今も友達でいてくれて私は幸せです』

 

 電車が来た。電車のドアが開き、乗り込んで先輩のほうを見るけれど、先輩のほうも電車が来たみたいで姿が見えなかった。

 電車が発車した。僕は空いている席に座って、メッセージを打つ。

 

『僕もそう言ってもらえて幸せです。先輩は彼氏さんとか、学校の友達とか、先輩のことを幸せにしてくれる人は沢山います。だからもっともっと幸せになってください』

 

 先輩からの返信はなかった。


 目的の駅に着いた。電車を降り、改札口を抜けて湊に電話をかける。


「もしもーし」

「湊ごめん。今駅に着いた。今どこ?」

「早かったな。今、古着屋にいるんだけど、場所分かる? 前一緒に来たじゃん」

「あー、分かる分かる。じゃあ今から向かいます」

「はいはーい」


 電話を切って、古着屋へ向かう。

 たしかここを真っ直ぐ進んで、二つ先の信号を右だったよな。

 

 駅から少し歩いた所に一つ目の歩行者信号がある。横断歩道を渡る前に、信号が青点滅しだしたので足を止めた。信号待ちをしている人が周りに四、五人。横断歩道を挟んで向こう側にも四、五人いた。ふと、歩行者信号機の下あたりに立っている人を見た。見覚えのある人が一人。いや、二人いる。

 

 凛華先輩の彼氏と、たしか交流会の時に凛華先輩と話していた女の先輩だ。


 二人で仲良さそうに話している。


 そして、二人で腕を組んで密着している。


 これは友達の距離じゃない。まるで恋人みたいに見える。

 

 僕は、「は?」と思わず声が出た。

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