第4話

 四時間後、僕は今、伊達メガネを選んでいる。黒縁メガネにするか、縁無しにするか。


 結局、先輩に指定されたショッピングモールに来てしまった。

 僕は行かないという選択もできたけれど、行かなかったら学校で先輩に会った時に気まずいし、今度こそ強面の男を連れてくるかもしれないと思うと恐ろしくて。あと僕は、約束をやぶりたくない。先輩からの一方的なお願いだったけれど、先輩は今日僕が来ると信じているだろうから、僕はここに来た。


 約束の時間まであと三十分。

 黒縁メガネに決めた。あとは帽子だ。寒くなってきたから、ニット帽を探そう。


 約束の時間まであと五分。先輩に言われた通り、帽子、メガネ、マスクをつけて集合場所で待っている。自動ドアに映る自分の姿が不審者でしかない。


 今からいったい何をするんだろう。ここからまた別の場所に連れて行かれるのだろうか。心臓の鼓動が早くなっていく。歩いていないと、落ち着かない。早く先輩に来てほしいような、来てほしくないような複雑だ。

 あと一分だ。時間厳守と言っていた先輩が遅刻するんじゃないか。


「真絃だよね? おまたせ」

 一瞬誰か分からなかった。上下黒い服を着て、帽子を深くかぶり、長い髪の毛を全部しまって、マスクをしてほとんど顔が見えない。それにメガネをかけていて誰だか見分けがつかない。

「あ、はい……」

 今から何をするのか分からないので、先輩の表情を見て、先輩が今どんな気持ちなのかを少しでも知りたいのに全く見えない。先輩、今きっと楽しそうな表情をしていますよね。きっと今から楽しいことが待っているんですよね。

「じゃあ、私についてきて」

 自動ドアが開いた先には、薄暗い空間が広がっている。コンクリートの匂いなのか、ほこり臭いのか、カビ臭いのか、地下駐車場の独特の匂いがする。僕はこの匂い嫌いじゃない。

 先輩についていくと、地下駐車場のたぶん一番奥のほうに向かっている。奥のほうに来ると、車はほとんど駐車されていない。

 先輩が急に立ち止まり、僕は先輩にぶつかりそうになった。先輩はそんなことには気づいていないようで、「ここの壁と車の間に隠れるよ。しゃがんで待ってて」と言った。


 壁と車の狭い隙間に隠れて、僕と先輩は肩と肩が触れ合うほど近い。先輩はそんなことも全く気にせずに、周りを警戒しているようで、しきりに見渡している。

 いったいこれは何をしているんだ。誰か来るのだろうか。何か密売人でも待っているんじゃないだろうな。

 今すぐ逃げ出したい。心臓の音が先輩に聞こえていないだろうか、と思うくらい脈を打っている。

「凛華先輩。そろそろ何をするのか教えてくれても……」

「しっ! 黙って。来たよ」

 先輩の手が僕の口を塞いだ。僕は息を止めた。黙ってと言われて、息さえもしてはいけないと思ってしまった。苦しい。

「ほら、今あそこに車とまったでしょ?」

 黒い車が端のほうに車をとめた。先輩が僕の口から手を離した。思いっきり息を吐き、吸った。

「はぁ。そ、その車がなんなんですか?」

 先輩の目つきが変わった。憎しみがこもったような鋭い目つきで車のほうを見ている。その車の運転席には、男の人が乗っている。

「あれ、私の……父親」

「凛華先輩のお父さん……。お父さんなら隠れる必要ないじゃないですか……」

「もうすぐ分かるから黙って見てて」

 その言い方に僕は少しだけ苛立ちを覚える。僕は協力してやっているんだから、もっと優しい言い方をしてほしいもんだ。

 

 コツコツと地下駐車場に響く足音。女の人が踵の高い靴で歩いているんだろう。

 視線を感じて先輩に目を向けると、憂いの帯びたような目で僕を見てくる。そして、先輩はまた車のほうを目をやった。僕も車のほうに目をやると、コツコツと足音を響かせながら、女の人が先輩のお父さんの車に近づいている。


 似ている。いや、似ているんじゃない。本人だ。毎日会っているんだから間違いない。


 僕のお母さんだ。


 お母さんが先輩のお父さんの車に乗り込んだ。

 何をやっているんだ? 

 お母さんは楽しそうに話している。あんな笑顔、家ではしない。

 先輩のお父さんが周りを見渡したあと、お母さんに顔を近づける。

 僕はお母さん達から目を逸らした。顔を近づけたあとの行為を見たくなかった。誰が親のそんな姿を見たいんだ。ましてや、自分の父親ではない人との行為を。

「僕、帰ります」

 僕は先輩の顔を見ずに、その場を立ち去った。


 よくテレビやネットニュースで、芸能人の不倫報道を目にする。なぜかテレビの中のことだと思い込んでいた。こんな身近で不倫の現場を見ることになるなんて思いもしなかった。親の不倫を。


 お母さんは夕方まで仕事だと嘘をついて家族を裏切っていた。家族を裏切って、あんなに楽しそうに笑っているお母さんを思い出すと吐き気がする。

 

 先輩も先輩だ。どうして僕にあんなの見せたんだ。手伝ってほしいって何を手伝うんだよ。

 先輩はあれを見て平気なのかよ。


 行くんじゃなかった。


 僕、今日誕生日だったのに。誕生日とかどうでも良かった。でも、誕生日にこれはないだろ。せめて別の日が良かったよ。

 家に帰りたくない。お母さんと顔を合わせたくない。お父さんとおばあちゃんにもどんな顔をすれば良いか分からない。

 適当に夜まで暇つぶしをして家に帰った。

 家に帰りたくなかったけれど、僕の家はここしかない。


「真絃、おかえり。遅かったね。ケーキあるよ。食べるでしょ? その前にご飯できてるよ」

「……」

 お母さんと目を合わせられない。

 お父さんとおばあちゃんは、ソファーに座ってテレビを見ながらくつろいでいる。この二人は何も知らないんだ。

「もしかして晩ご飯食べてきちゃった?」

 もう同じ空間にいたくない。同じ空気を吸いたくない。

「いらない」とだけ言って、僕は自分の部屋にこもった。

 

 これ以上同じ空間にいると、お母さんに何か言ってしまいそうだ。お父さんとおばあちゃんもいるのに今日のことを言ってしまったら、家族が終わる。


 お母さんの秘密を知ってしまった僕は、どうすればいいのだろう。

 このままお母さんを軽蔑し続けるんだろうか。

 

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