悪魔が来たりて

改案堂

ヴェネチア共和国にて

あの夢を見たのは、これで9回目だった。

もう後は無い。

これで完成させねば、存在を盗られたうえ二度とパドヴァの地を踏むことが出来なくなってしまう。




初めてその夢を見たのは18歳、父の訃報を聞き失意に打ちひしがれていた頃。

大学で法学を学んでいた彼は、先行きの不安を振り払うように酒を呷り、娼婦と枕を共にした。

その夜の衝撃、彼は生涯をかけてそれを追うことになる。

酩酊し朧げな意識にも関わらず、激しく心を揺さぶる美しい旋律が魂へ突き刺さったのだから。


請われるがまま婚姻したものの、その一族の財産を高貴な血へ差し出される直前に目が覚めた。

這う這うの体でアッシジへ逃れ、修道院に匿われた晩に二度目の同じ夢を見た。

その悪魔は扇情的に踊るような仕草を取る。

だが彼の目を捕らえたのは、その手にした器物。

細い首にくびれた胴をもつ楽器は、しかして修道院で使われるヴァイオリンだった。


彼は夢中になりヴァイオリン手に取り、寝食も忘れ奏でた。

首や指先の皮も捲れなくなり楽長からも腕を認められた日、ベッドの足元で開催される演奏会で見たのは三度目の同じ夢。

そこでようやく、同じ演奏を繰り返し見た事に気が付く。


あとは流されれるがまま、礼拝堂の主席楽師や、上級貴族付の宮廷音楽家、専門学校長への就任など、人生の節目で都度あの夢を見た。


見る度に鮮明さを増し、悪魔の姿は次第に彼と似通って行く。

遂に8回目の夢でその悪魔は演奏後、彼に話しかけた。



あと2回だ、あと2回でこの曲を完全に弾けなければ、お前は我がもの。

最後まで知らぬのも賭けとして面白くない。

人間には理解できぬ呻り、最後の機会を与えよう。

せいぜい神にでも祈るんだな。




これまで何度も耳にし、目が覚める度に楽譜と格闘して来た彼だ。

悪魔の言う呻りが曲の完成と繋がることを嫌というほど理解していた。

睡眠をとる間も惜しんで悩んでもまた手がかりは掴めない。

最後にせめて神の慈悲に縋るように、大聖堂の演奏会へ潜む。


荘厳なパイプオルガンの重い低音。

出す音は単音にもかかわらず重複する音に聞こえる。


ハッと気が付く。

人の呻りではない。

これは、神の声なのだと。


発生させる音は一つではないのだ。

複数の弦を同時に押さえたり弓の長さを変えるなど、工夫を重ねればヴァイオリンでも出るのではないか。

彼は夢中になり重音の奏法を試行錯誤する。

だが、何かが足りない。

完全に至ることが出来ない。


そんなさなか、ついに9度目の姿を表した悪魔。

その姿はもはや古傷の痕ですら彼と同一になりつつある。



どうした、最後の機会だ。

じっくりと堪能するがいい。



彼の注目は、もはや悪魔の指先にのみ集中する。

……ついに見えた、手の添え方だ。

弦を押さえるだけでなく、動きにも音程を取る鍵がある。




悪魔の賭けが誰と、どのような形で始まり、なぜ彼が苦悩し、最後に勝利したのがどちらか、そのことを記す書物は残っていない。

しかし、彼の楽曲と名声は後の世にも強く残ることになる。



彼の名はジュゼッペ・タルティーニ。

ヴァイオリンソナタ ト短調『悪魔のトリル』を描いた作曲家だ。

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悪魔が来たりて 改案堂 @kai20220512

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