記録されざるもの

蝉川夏哉

記録されざるもの

 堰州に行幸なされていた今上の帝が馬首を返して司畿の冬都へ還御するのは異例のことであった。常ならば瑣事に構わず巡幸を全うしたはずである。

 にも拘らず至尊の座におわす、いと貴き御方をして蹄草鞋の擦り切れる程に帰途を急がせたのは、一人の踊り手が今まさに息を引き取ろうとしている、という急報が奏上されたからである。


 大洋を隔てた列強に暮らす我が同胞には理解し難いことであるが、この神秘の大帝国に於いては舞踏は極めて大きな意味を持つ。舞踏と言っても、我々の識るところのダンスとは厳密な意味において大きく異なる点に注意が必要だ。


 我々にとってダンスとは身体を使った表現の技法であり、接触を通じた友愛や性愛のコミュニケーションであり、緊張と緩和であり、自然や動物、人物の模倣であり、芸術に属するものである。


 しかしこの大国において舞踏とは、神々や祖先との対話であり、記録であり、統治技法であり、その他様々な形状学的意味を有するアクション、レリジャス・サービスなのだ。



 踊り手には誰もが成れるわけではない。

 戸籍上で二億を優に超えるこの国の民の中で踊り手として朝廷と社稷に奉仕する踊り手の数が一〇〇を超えることは滅多になかった。幾つか前の王朝に於いて時の帝が神々により多くを伝えようと適切な資質を有さぬ者をも踊り手に加えてその数を一千にまで増やした結果、僅かに数年でその王朝は天災によって滅びたという[訳者註:これは燬王朝の霊帝のこと。筆者のマロリー卿は数年、と記しているが、霊帝が踊り手を増やした七日後に帝国内で最大の火山が大噴火を起こし、火山灰は気流によって盤球全体を蔽い尽くすほどになった]。


 厳しい詮衡せんこうによって全土より選り抜かれた童子たちは文明人であれば直視に堪えないほどの苛烈極まりない訓練を経て通神の秘儀に達し、踊り手として大成する。


 今まさに死なんとしているのは、その中でも当代最高の、天下無双の踊り手であった。帝がその死に目に会わんと急いだのは、踊り手と口吸いキスをするためであろうと人々は噂し合った。不敬な噂には、根拠がある。優れた踊り手の末期の吐息は塵に塗れた人界のものではなく、永世を生きる神々の住まう天界の空気が呼気として漏れ出でるとされているからだ。

 この呼気を口吸えば、寿命は十年二十年と伸び、病禍を免れるという迷妄が未だにこの帝国には満ちていた[訳者註:この一文は恩賜帝国書院から発売された旧版では表現が柔らかなものに改竄されていたが、今回の版においては敢えてマロリー卿の当時の筆致に込めた意に近いと思われる訳を採用した]。


 果たして、帝は間に合った。

 弱々しく布団へ横たわる踊り手は齢八十九を数える老翁であり、既に舞えなくなって久しい。帝の祖父と同年の生まれである。


「息災であるか」


 帝は畏れ多くも慣例に反して、踊り手に直接お声をお掛けあそばした。

 死に瀕した踊り手は既に半ば神界の住人であるから、これはある意味において礼儀に適ったことである。


 帝に侍り一挙手一投足も見逃さずに記録すべき史官たちは、この時、大いに油断していた。帝国において史官とは歴史を記す二次的手段の担い手に過ぎない。本来的な意味では、踊り手のみが歴史の記録者であり、その舞踊によって森羅万象の全てを記録するのである。史官とはその踊りを翻訳し、人語に訳する職責からはじまった役職に過ぎない。


 けれどもここに横たわるのは骨と皮のみの老爺一人。

 舞うはずが、なかった。

 否、舞えるはずがなかった。


 この帝国でも随一の医官たちは、この踊り手がまだ息をしていることをして”奇跡”と評するほどであったのだから、史官の油断も無理からぬことである。


 帝の玉声が発された瞬間、俄かには信じ難いことが起こった。

 老爺が、いや天下無双の踊り手が布団を自力で剥いで、立ち上がる。

 史官も護衛も、いや帝さえも、驚きに声を失った。


 踊り手は、踊る。

 しなやかに力強く、流麗にたおやかに、烈しく柔弱に、そして、意味深く。

 その舞いは間違いなく、神界からの神託そのものであったはずで、帝も史官もそれを翻訳して記録すべきであった。

 だが、誰一人として、できなかった。

 あまりにもその舞いが、美しかったからである。



 踊り手は、舞いながら息を引き取った。

 この大国に、盤球の反対側から列強の修好通商を求める使節、つまり私が辿り着いたのは、その翌日のことである。

 

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記録されざるもの 蝉川夏哉 @osaka_seventeen

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