19 劇薬
空腹感で目が覚める。
それもそのはず、昨夜は水以外口にしていない。さらに言えば、アイドレールからの帰り道もちゃんとしたものを食べていない。身体をすすいですらいなかったので、体を起こせば、汗で身体がべたつく感覚に思わず顔をしかめた。
まだ高くない日差しの中、外の風呂場で軽く水だけ浴びて、その辺にあった果物と穀物で適当に腹を満たす。今日は、不在の間にできなかった掃除をしようと決める。髪を乾かすのが面倒なので、適当に水気だけざっと拭き取り、
物置に掃除用具を取りに行き、順番に部屋を回る。物を片付け、ホコリやチリを取り、床を固く絞った布で拭けば、一旦終わり。部屋によっては消臭用の置き炭を取り換える。玄関から始め、廊下、物置やキッチン、食卓とを回れば、残すは実験室と書庫だけだった。
実験室にはムウさんがいた。採りたての薬草を束にして縛る作業をしている。あの束は後で窓際に吊るし乾燥させるのだ。薬草の茎の切り落としや小さい葉が床に落ちているのを見て、邪魔にならないよう、実験室は後回しにすることに決めた。僕は静かに大机の横を抜け、部屋奥の書庫への扉を開ける。
「げ……」
書庫の中を覗けば、床が見えないくらいに本が散らばっていた。
たった3週間ほど家を空けていただけで、ここまで部屋が荒れるなど異常だ。まず目を閉じ、次に扉をそっと閉め、仕事中のムウさんに声をかける。
「ムウさん、何ですかこれ。本棚をひっくり返しでもしたんですか?」
「ああ、すまない。探し物をしていてな」
悪びれる様子は一切なく、作業の手を止めないムウさんの姿を横目に、僕は大きくため息をついて、わざとらしく肩を竦める。困ってるんですよ、と態度で示す。
扉を再び開け、本をひとつずつ拾い上げ、元の位置だろう場所に仕舞っていく。ふと思いついて、マナへ意識を向ける。床の一冊を視線で捉え、紙の隙間にマナを差し込み、本を宙へと浮かせ、本棚の隙間に差し込む。勝手に開いたり回転したりするので制御が難しいが、慣れれば感覚で操作できるようになった。二つ、三つと同時に持ち上げる数を増やし、本棚へ収めていく。半刻もすれば全て片付いてしまった。
その過程で埃が舞ってしまったので、再びマナを操作して埃を一箇所にまとめ、床を拭く。これからは掃除が楽になるぞ、と思うと笑みがこぼれた。
「本、片付け終わりましたよ。よければ、ついでに何か探しましょうか」
「まだ有ればいいがな。東方大陸、ドリネ地方の植生についての本なんだが、最近手に入れてそのままどこかやってしまった」
「うーん、僕も知らないですね。写本前に売ったんじゃないですか、また」
ムウさんにはちょっと変わった習慣がある。新たに買った本を一通り読み終えれば、必要な部分を自身のノートに整理し直し、その後読んだ本はすぐに古本屋に売る、というものだ。入れ替わる本の数は月に5冊、多いときで20冊にものぼる。そのため、僕は書庫に今どんな本があるか把握しきれていない。勉強するときは、事典や自室の本以外は専らムウさんのノートを読むことが多い。これが案外、原典を読むよりずっと分かりやすいのだ。ムウさんにとって自明な内容が省かれていることだけが不便だが、それも古いノートを漁れば良い資料にありつける。
なおムウさん手製のノートは体系的で明瞭な反面、自分の部屋の整理整頓はてんでできないので、読み終えていない本までうっかり売っていることが年に一、二度あるのだ。紛失した本は僕がメモ書きし、後日本屋で同じものを探している。
「他になくした本ってありますか? 今度、アイドレールに行くときにでも探します」
「そうだな……」
ムウさんは深く考え込むようにして、そしてちらり、と窓の外を見た。
「翡翠色の表紙に橙の石が埋まっている、のも、ない」
「何という題ですか? 内容は?」
「現代世語で書かれてないから題は読めない。内容、は――」
躊躇い、俯く。言葉を選んでいるようだった。やがて、何か気づいたかのように、適切な言葉が見当たったかのように、顔を上げて僕を見る。
「劇薬だ」
人の手に余る劇薬の製法とその効果検証。中は見ないほうがいい。実験内容はどこを取っても倫理に著しく反しており、普通に生きていれば到底思いつかないような手法が取られている、という。だから決して内容を理解しようなどと思うな。翻訳を試みるなど言語道断。そう釘を刺された。
売って誰かの手に渡るべきではないと思って手元に置いていたが、この本も少し前から見当たらなくなり、僕に黙って自分で買い戻そうとしたらしい。そのような本を簡単に売るのはどうかと思うが。だけど、そのような本があった、ということを信頼して僕に打ち明けてくれたのは、素直に嬉しいと思った。
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