17 久しぶりに
自然に空を飛べるようになったとはいえ、落ちたら命はない高さだ。最低限の集中は切らさないようにする。どんな山よりも高く舞い上がると、僕たちの住む西方大陸の輪郭から、その向こうの海まで見えた。
こうして景色を見下ろせる人間など、他に誰がいるだろうか。空は黄金から藍へとなめらかにその色を変え、そこに張り付く青黒い雲は、まるでこちらに迫ってくるように錯覚させる。海を見たのは初めてで、話では真っ青と聞いていたのに、実際は空の色をすっぽり飲み込んで、オレンジや緑や紫の光を湛えていた。山々はその輪郭を炭色に染めて連なっている。足下のアイドレールは夜を迎えるために、ちらほらと明かりがつき始めている。
(あの門から入ったから、家の方角はあっちだよね)
地面に向かって腹ばいになり、マナの光を全身に纏いながら、魚のように宙を泳ぐ。途中、大きなマナの帯を見かけたのでその流れにうまく乗る。
――気持ちいい。
きっと、渡り猪の倍以上は早い。これなら1日もあれば家に帰れるだろう。
星がだんだんとその姿を現して、月と
時々人目につかないところで降りて、川で水を飲んだり、事前に店で買っておいたパンを齧ったりした。ついでに周りを見渡して、珍しそうな薬草や実を採り、鞄へしまう。夜になれば火を焚いて、木にもたれ掛かって仮眠をとった。野宿は初めてだったが、急行車のあの狭く人の多い客車で寝たときよりは、ずっとましな環境だった。
朝焼けが瞼の向こうで光れば、意識がゆっくりと覚醒する。軽く伸びをして、散歩でもするかのようにまた空を飛ぶ。朝の風は心地いい。このごろは晴れ続きのため、風が乾燥していて穏やかだ。
昼過ぎくらいに、自宅があるだろう山が見える。ゆっくりと滑空し、その麓の少し開けたところに着地しようと狙いを定める。木々の隙間を縫って降り立つには、流石にまだマナの制御に自信がない。
やがて木の一本一本の輪郭がはっきり見えるほどに地面が近づいてくれば、足を地面に向けて、歩くくらいにまでスピードを落とす。それでも大人3人分くらいの高さはあるので、最後までマナの制御を誤らないように一層集中した。
地面に丁寧に降り立てば、纏っていたマナをすべて解く。懐かしい匂いが鼻をくすぐった。
帰ってきたのだ。
やっとムウさんに会えると思うと、堪らず早足になる。空を飛ぶのは気疲れするが、肉体はまだ十分に元気なままだ。慣れた山道を何も考えることなく駆け上がっていく。息が切れていることすら心地いい。やがて開けた場所に出て、何度も見た玄関の前まで駆け寄る。
久しぶりに帰ったときってどうするんだっけ、と一瞬悩んで、ドアノブを一度掴んだ手を放し、ノックしようとして、やっぱりやめた。ムウさんが長く家を空けたときも普段どおり帰ってきていたじゃないか。僕はこの家を出て3週間ほど経つが。ちょっと緊張しているので、いちど大きく深呼吸をして、思い切ってドアノブをひねる。
「――ただいま戻りました」
奥の実験室まで届くように、大きな声で帰宅を知らせる。玄関の床に砂や植物の切れ端が点々と落ちている。掃除をさぼっているだろうとは思っていたが、予想通りだったので思わず笑ってしまう。
やがて奥の部屋からパタパタと小さな足音が聞こえ、その姿を見せる。
「遅かったじゃないか」
ムウさんは不機嫌そうな顔をして僕を出迎えたが、その声には安堵の色を滲ませていた。
やっと家に戻ったし少しゆっくりしたかったが、ムウさんに頼まれて、完成した薬の整理を手伝うこととなった。僕は荷物を玄関の隅に置いて、泥だらけの服を脱ぎ綺麗な服に着替え、口元を布で覆い、実験室へ足を運んだ。
「お前、そんな服持っていたか?」
「ゼファ様より譲っていただいたんです」
「ふうん、良い意匠じゃないか。それに首元の刺繍が
僕がこの服を見たときと全く同じ感想が出て、少し驚いた。ムウさんは普段ぶかぶかの服を着ているし、装いには無頓着だと思っていた。まさか服の意匠の良し悪しが判断できるとは。ムウさん曰く、自分の服は適当に選んでいるんだ、と主張していたが、本人なりのお洒落のために、わざわざ背伸びして成人用の服を着ているのかもしれない。
「何か失礼なことを考えているな」
「そちらの瓶を取っていただけますか。ラベルを貼るので」
「おい、図星か」
ムウさんがむっとむくれて、瓶を取ってくれない。仕方ないので、マナに意識を向ける。僕は作業の手を止めることなく、マナの帯を瓶に巻き付けて拾い上げる。ラベルを取るために逆方向へと視線を向けつつも、向かってくる瓶を片手でキャッチする。案の定、ムウさんが目を丸くするので、その透き通る菫色の瞳を見て思いっきり得意げな顔をして見せた。
「何日も家を空けていただけあるな。無事にゼファに会えたのか。でもまだお前は人間のようだが」
「風に適正があった……ようです。あとは神なんかになるな、って言われて帰されてしまいました」
「あのおっさんはいつまで現役でいるつもりなんだ。早く適当な人間を捕まえて継がせればいいのに」
その時、ふとゼファ様との会話を思い出す。
――マグノリアは息災か?
――ムウとは誰だ? 今の地の神はマグノリアだろう。
「……ひとつ訊いてもいいですか」
「何だ」
「ムウさんって、マグノリアという名前があるのですか」
互いに、作業の手を止める。
こちらを振り返ったムウさんの目は、恐ろしいほど普段通りだった。
首を少しかしげて、眉尻を下げて見せる。
「マグノリアとは、誰だ?」
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