こんゃく破棄、或いは王太子と追放された令嬢のスローライフ
有沢楓花
第1話 こんゃく破棄(噛んだ)
「イライザ・アッシャー、あなたとの婚約を破棄する!」
灰に近い黒髪に美しい若葉色の瞳。黙っていれば秀麗と称される王太子ヘンリーの白い服が翻り、朗々としたテノールが王城の謁見室に響き渡る――ことを期待したのは、本人だけだった。
そして意図を正確に汲んだのも、彼の目の前にいる婚約者、名門伯爵家の令嬢・イライザだけだった。
何故なら、周囲にはこう聞こえたから。
「あなたとのこん……いてっ……ゃくを破棄する!」
――こんにゃく破棄。
ヘンリーに近しい人間なら皆知っていることだが、彼には大事なところで噛んでしまう癖があったのだ。
その結果、イライザの顔が引きつり、背後にいた王と王妃は能面のような顔になり、大臣以下は恐れおののいた。
流石に王は数拍おいて取り繕おうと口を開いたが、その前に、驚きのあまり大臣の一人が念を押してしまったので台無しだ。
「こんにゃくを……蒟蒻を破棄しよう、ですと!」
ざわざわ、ざわざわ。場のざわめきと動揺が広がっていく。
あまりのことに、噛んでしまったヘンリーの顔もまた真っ青に変わっていく。
比喩ではない。本当に青ざめている。これは失神10秒前だなと――距離と付き合いの長さで察したのも、イライザだけだった。
(放置すれば転倒からの大怪我、慌てて抱えれば不興を買うし疑いを招くし)
一瞬のうちに色々想像してしまい、他に頼れる人はいないかと、黒い垂れがちな目を素早く周囲に走らせる。
しかしここは謁見の間の中央で、国王とも他の貴族たちとも距離がある。
(残念だけど婚約破棄は不発に終わったから、不敬には問われないわね)
彼女は仕方なく、長い黒髪をなびかせすすっと近寄り、がしっと背中を支える。この国特有の、蒟蒻の花を伏せたような形のドレスの裾は動きやすい。
蒟蒻の花について補足すると、南方かジャングルにありそうな大きさの、カラーか朝顔を赤紫に染め、中央に唐辛子を逆さに立てたような花である。
「まあ、ひどい熱です殿下!」
「なっ、何をする! 俺は熱など……」
イライザはありもしない熱をでっち上げ、抵抗しようとするヘンリーの、消えていく語尾には答えず脳内でカウントした。
(はい、3、2、1――気絶した)
「ああっ、殿下が!」
大げさに声を上げつつ、のし掛かる体重――細身とはいえ、まあまあ重い――を両手で支えながら、これからどうしようかと頭を回転させる。
ざわめきは先ほどより広く大きくなり、厳しい視線はヘンリーばかりでなくイライザにも向いてしまっていた。
ヘンリーは「あなたとのこんにゃく」でなく「あなたとこんにゃく」と言った。そして「ヘンリーとイライザのこんにゃく」が本当に存在するから。
そう――こんにゃく破棄。
彼にとっても婚約破棄の方がずっとマシだったろうに。少なくともこの国では。
国王からの信頼篤い、黒髪黒目のたぬき顔のお髭のおじさん――自分によく似た父親からの問うような視線を感じたので、軽く首を振って共犯を否定しておくが、微妙に疑いの目で見られた。
更に高まる、王太子殿下がご乱心なさった、病気だ、いや呪いだ、などという声を聞いていれば頭痛がしてきそうだ。
「お部屋をご用意いたしました」
恭しく礼をする近侍にイライザは意図を察する。これから聞き取りなのだろう。
残念だが、午後のお茶にと家でコックが用意してくれているはずの、ご褒美のシュークリームは下げられてしまうだろう。
国王陛下が呼んだ医者が駆けつけてきたので、失神している麗しい顔を見下ろしながら、イライザは深いため息を吐いた。
婚約破棄、文書にしておけば良かったのに、と。
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