【KAC20255】湿度。
豆ははこ
百均の妖精
いきなりの雨。
お天気アプリの線状降水帯警報とやらに気づいたときには、もう得意先から出て、会社に報告も入れてしまっていた。
「直帰でもいいですか」
そう言ったのはこっちだから、そこには文句は言えない。
とりあえず、適当な軒下に入る。
背中のリュックは防水だから、大丈夫だ。
雨宿り……。できそうな店がない。
ネカフェなら見つかったが、それなら家に帰りたい。
シメシメの靴下は脱ぎたいけど、通行人がいないわけじゃないから、やめたほうがいいよな。
『無愛想なところが逆に、今どきの若者なのに好感が持てる』とかで何故か取引先に気に入られている俺は、大口の顧客を持つ「若手のホープ」とやららしい。
上司は「直帰でいいよ。明日も午後からでもいいから」などと言っていた。ほかの連中相手なら、戻ってこい、だ。
あからさまな
あれは、俺への励ましか、それとも慰めなのか。
やっぱり、靴下が湿っている。
むにゅりとした感触。
水虫になる菌ってなんだっけ。
はくしょん菌……じゃないな。
会社になら、靴も靴下の換えもあるけど、戻りたくはない。
クーラーのきいた建物の中に、このじめっとした水分……なんだろう。水もの? 違うな。を入れたくない気がする。
いっそのこと、電車はやめてやろうか。
タクシー拾って、まっすぐ帰るか。
帰ったら、やっぱり明日は午後からで、と連絡してやろう。
「どうぞ」
すると、目の前に、タオルと靴下。
幻は、雨の中でもみるものだったか。
「ありがとうございます」
怪しみながらも、身に付いた営業挨拶が稼働する。
受け取ってしまうと、百均のタグが付いていた。
ご丁寧に、小さな鋏まで添えられて。
「肩をお貸しいたしましょうか」
細い、そして、声はハスキー。
背は男なら普通、女なら高い。
男か女か、分からない。
それ以前に。
このご時世に、この対応。
これでいいのか。
そもそも、いくらと請求されるんだろうか。
タオルに縫い込まれた刺繍の文字、天下無双。これもまた、怪しい。
「すみません、わたし、不審者に見えますよね」
はい、と答えていいものだろうか。
実は、俺は百均の薄いタオルは、かなり好きだ。
がしがし拭いて洗濯機にぶち込んで洗濯乾燥モード。
ガコンガコンの時間帯にさえ気をつければ、すぐに馴染む、頼れる相棒。
「実はわたし、その会社のライバル会社の社員でして」
「はあ。もしかして……」
タオルのタグの会社じゃないなら、あそこかと思い、呟いてしまった。
「そうですそうです。ご利用頂いてますか」
ものすごい笑顔だった。
「ええ、まあ。御社のオリジナルじゃなくて、駄菓子目当てですけど」
「それはまた、ありがとうございます。きっと、駄菓子だけではなく、なにがしかを購入して下さっていることでしょう。誠にありがたいお客さまです」
「はあ、まあ」
確かに。
付箋紙とか、何か。
何かを購入しているよな。
このあいだ買った付箋紙、布団の形だったな。
間違って貼り付けたまま得意先に書類渡して、青くなってお詫びしたら「面白いね、これ」って。
怪我の功名。かなり助けられたな。
ついで買い、か。
そういう層も狙ってるのか。
「あ、靴下はこちらに。それからこれを靴に敷いて下さい。少しはましになるでしょう」
鋏を返したら、代わりに、ジッパー付の袋に、中敷きまで。
すげえな百均。
「お客さま、新聞は購読してらっしゃいますか」
「いえ、朝電車に乗る前に買うくらいです」
「どうぞ。ご自宅で靴を脱がれたら、そのあとに詰めてください。こわれ物用のものです。弊社でご用意しておりますものはぷちっとしたものなのですが、新聞紙もいいですよね。油断できません……」
そんなところまで見ているのか。
この人、ほんとうにライバル会社が好きなんだな。いや、百均がか。
ダンスでもしそうな勢いで、軽快に説明してくれている。
濡れた靴下が入ったジッパー袋や新聞紙を入れて渡してくれたエコバッグ。
これもきっと、そうなんだろうな。
「これも、ですか」
「そうですよ。使用感はすべて良好ということでよろしいでしょうか」
「はい、ありがとうございます。ところで、おいくらですか」
「おいくら。百円と消費税です。新聞紙は該当商品を購入しましたら無料で、ジッパー袋は五枚入りですね」
「いいえ、貴方にお支払いする金額です」
「必要ございません。貴重なご意見、誠にありがとうございます」
そう言うと、折り畳み傘を出して「こちらは三百円プラス消費税です」と言われたので、少し多めに出そうと財布を探す。
そうしたら。
「すみません、すぐに消しますので」
なにかの、メロディー音。
なんだっけ、これ。
……昔のアニメのオープニングだ、確か。
はくしょんなんとか。
……そうだ。
すっきりした。
俺は、少し多めになるように札を出す。
「ありがとう。お釣りはなんだ……研究費に充ててください」
こう伝えながら。
「ありがとうございます!」
百均の妖精は、笑顔だった。
百均の妖精。
なんだそれ。
この人は、人だぞ、たぶん。
頭を下げている百均の妖精に手を振りながら、傘を開く。
やっぱり、あの人、人だよな。
傘も、こうしてきちんとさせているし。
我ながら、笑えた。
けれど。
俺も、明日からの仕事は、もう少し、楽しめるかも知れない。
まずは、明日。
朝から出社してやる。
待ってろよ、仕事。
百均の、傘の下。
俺は、そう思った。
【KAC20255】湿度。 豆ははこ @mahako
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