腹立たしい音
海青猫
第1話
俺は急いでいた。
今日は給料日だ。しかし支払いも多くある。
明日には引き落としがあり、今日中に入金が必要な口座がいくつもあるのだ。
仕事が忙しく残業も多いため。銀行には昼休みにしか行けない。
職場から徒歩五分のU銀行に足早に向かった。
冷たく無機質な銀行の自動ドアを抜け、銀行のATMコーナーに向かう。
自動ドアをくぐると、そこは、何十台もひしめき合うATMが鎮座するコーナーだ。
コーナーは人間が何十人も列ができるため広い。
だが、今日はあいにくゴトウ日のためか人がすし詰めの満員電車のようにひしめいていた。
簡単なチェーンで仕切られた列に人はうねうねと蛇のように行列を作っている。
列の後ろは、出入り口近くまで達していた。
俺はその蛇のような列の尻尾に、張り付いた。
目の前を見ると、五十位のヨレヨレのスーツを着たおっさんが、薄い笑みを浮かべて突っ立っていた。
列の遥かに先にあるATMを見わたすと、何台か故障の札がはってある。これのせいで列が進まないに違いない。
ふと、隣をみると簡素な立て看板がたっていて、「所要時間二十分」と書いてある
俺は貴重な昼休みが二十分も無駄になるのかとうんざりした。
ぐ~。
腹の虫も、うんざり具合を主張している。昼飯もとらずに銀行に駆け込んだせいだろう。腹も減ってきた。俺は思わず腹を押さえた。
ふと前を見ると、故障していないATMの前で機械の操作でモタモタしているおばさんが目につく。
おばさんは、「あらぁ、これどうなってるのぉ」とのんきに独り言をほざいている。
足早に銀行員が駆けつけて説明しても、ひたすらマイペースにモタモタするおばさんに俺は殺意を覚えた。
くちゅ。
突然、目の前のおっさんから、下品な音がする。まるで食事のときに子供が立てる音のようだ。
つばでも仕切りに飲み込んでいるのだろうか?
それとも、舌舐めずりでもしているか?
神経を逆なでするような、おっさんの音に俺は不快感を覚える。
やっと一人進んだが、列はいまだに長蛇のままだ。
一歩足をすすめる。
結果、おっさんとの距離が縮まり、そのすえた体臭が鼻につく。腋臭特有の悪臭だ。
俺は一瞬、吐き気を覚えた。
タンタン。
思わず、床を足で叩いてしまう。
ふと後ろを見ると、あたかもキャリアウーマンですと言った感じの女が、いつしか俺の後ろにいた。
黒いショルダーバックを肩から下げて、高いハイヒールを履いている。少し目つきのきつい女だった。香水の匂いが鼻についた。胸が悪くなる。
列はさらに一人進む。
歩きつつも時計を見た。
時間は列にならんでから、十五分を経過していた。
というのに、後二十分とか書いている立て看板は、依然俺の二人後ろにある。
なんだ、あの看板は……。
明らかに過大広告じゃないか。
これでは、二十分どころか、昼休みの一時間を全て、費やしてしまう。
後ろにはすでに十人以上並んでいた。
列の末尾は銀行の出入り口のあたりまで達している。
イライラはさらに高まった。
くちゅ。
そこに、前のおっさんが、異音を放つ。
不快感がイライラと混じり、怒りに昇華されつつある。
タンタン。
腹正しく足が床を叩くが、列はやっと一人進んだだけだ。
しばらくして、前を見ると、さらにATMが一台故障していた。
どうやら、さっきの操作にもたついていたおばさんが、変な操作をして壊したらしい。
ATMに『故障中』とデカデカと張り紙がしてあった。
そのおばさんは毒づきながら、足早に銀行の出口に向かっていた。
見渡すと半数近くのATMが故障しているようだ。
例の後二十分の立て看板はまだ四人後ろだった。俺の前にはうんざりする位、何十 人も人間が蛇のようにくねくねと並んでいる。
焦りを感じつつ、時計を見る。すでに三十分を経過していた。
昼休みの終わりまでに職場に帰れないかもしれない。
俺は怒りと焦燥感でやきもきする。
くちゅ。
また前のおっさんが、異音を放つ。
なんだ? このおっさんは?
俺に嫌がらせをするのが、存在理由なのか?
おっさんへの怒りの色は、少しずつ殺意に塗り替えられつつある。
思わず睨むと、おっさんはにたり、にたりと無意味な笑みを浮かべて、白髪交じりの頭を海の底の海藻のようにふらふらとゆらしていた。
思わず、爪を噛んだ。
無意識にポケットに手を入れると、そこには鍵の束があった。
これでおっさんをぶん殴ったらさぞかし爽快だろう。
そう思った。
鍵はギザギザしているために、指の間に挟んで人を殴るとその傷は歪になる。歪にできた傷は治りにくくなるのだ。それでさらに殴ればさぞ爽快だろう。
ジャラ、ジャラ。
鍵が金属音をポケットの中で放った。
くちゅ、くちゅ。
おっさんがそのうっとうしい舌を鳴らして、しつこく異音を放つ。
瞬間、俺の頭は真っ白に怒りで塗りつぶされる。
この、便所の底にへばりつく蛆虫野郎が! ぶっ殺してやる!!
ジャラ、ジャラ。
鍵が暴力的な音をたてた。
その拳を振り上げようとした刹那。
頭に金鎚でぶん殴られたかのような鈍痛が走った。
後ろの女のショルダーバックが、空中で孤を描く。
さらに、女はバックの紐の半ばを握り、上からたたきつけるように俺の頭を強打した。
軽そうなショルダーバックには何が入っているのだろうか?
まるで鉛でも詰まっているかのような重量感だ。
チカチカと俺の目の前に星が舞った。
いきなりのことで頭が回らない。
「さっきから、うるさいのよ。タンタン、タンタン、ジャラジャラと。あんた、私に嫌がらせをするために存在しているんでしょう! 死ね。死んでしまえぇ」
激痛にうずくまる俺に女は鬼女のような形相で、何度もバックを叩きつけて来る。
女は口元から泡のような唾液を迸られ、金属を擦り合わせるような声色で、意味不明な声を上げ続ける。
殴られた頭から血があふれて、目に熱いものが流れ込む。
赤くなった視界で、前を見ると、列の全員が前の奴を襲っていた。
ATMの前で機械を操作していたはずの三十歳位の男は、列の後ろにいた初老の男から蹴りあげられ、さらに果物ナイフで何度も、何度も刺されて、血みどろになっている。
列の先頭にいた爺さんは、後ろから二十代くらいの若者から、馬乗りにされて、顔面を殴られている。
罵詈雑言がATMコーナーに飛び交った。
まるで、阿鼻叫喚の地獄絵図だ。
なんとか、うずくまりながらも俺は逃げようとしてふらつくまま前に出た。
ほんの一人分だったおっさんとの距離が半分にちぢまり、とたんに甘酸っぱい体臭が鼻を襲った。異臭に思わず俺は一瞬たじろいだ。
女はその機を逃さず、脱いだハイヒールの踵で俺の頭を強烈に殴りつける。
思わず防ごうとした手をすり抜けて踵が、屈みこんでいる俺の頭部に命中した。
鉄のにおいがして、熱い何かが喉からこみあげ、俺は真っ赤な血を床に吐き出した。
遠くで銀行員と警備員らしき男が何かを喚いているが、頭がぼんやりしてよく聞き取れない。
突然、女は自分の後ろの男から殴られて真横にたおれこんだ。列を仕切る鎖に女は倒れ込み、乾いた金属音をたてる。
立ち上がろうとしたが、足に力が入らず、そのまま冷たい床に滑るようにへたりこんだ。墓石のように冷たい感触が俺の全身を包む。
さらに俺の背中を何人も、何人も列の後ろにいた奴らが踏みつけた。
くちゅ。
うすれていく意識の中で、俺の耳の中には、おっさんの異音が響いていた。
腹立たしい音 海青猫 @MarineBlueCat
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