第1章 違和感⑦

1.4 「新しい世界の扉」

1.4.1 手術台の上の快楽


意識が薄れ、瞼の裏が赤く染まる。

冷たいシーツの感触が背中に張りつき、全身に広がる鈍い痛みが俺を現実に引き戻した。


喉の奥が乾いている。

麻酔が抜けかけているのか、じわじわとした疼きが肋骨のあたりから湧き上がるのを感じる。


「……ん、ぅ……っ」


かすれた声が喉から漏れた。

目を開けると、白い天井がぼやけて見えた。霞がかった視界の端に、術後の経過を確認するための鏡が置かれている。


ゆっくりと息を吸う。肋骨の奥がひどく痛む。いや、もう肋骨はないんだった。


「……ふふっ」


乾いた笑いが漏れた。


肋骨の一部を切除し、さらにウエストを絞る。

それだけじゃない。

今回は、もっと大胆に変えた。


豊胸は、以前のヒアルロン酸注入とは比べ物にならないほどのサイズになっているはずだ。

Cカップ程度だった胸は、今やFカップを軽く超えている。

滑らかなシリコンが詰め込まれた乳房は、異様なほどの膨らみを帯び、仰向けになっているだけで重さを感じるほどだ。


ヒップアップも施し、全体のバランスを考えて調整した。

腰は細く、くびれがより際立つようになった。「女の体」ではない。


「人間離れした何か」に近づくための形。


耳、鼻、舌――

新たに開けたピアスの穴が疼く。

特に拡張した舌のピアスは、動かすたびに鈍痛を伴うが、それすらも心地よかった。


「……っ、は……」


身体を動かすたびに、疼くような痛みが走る。その痛みが心地いい。


これこそが、生の実感。


俺は、ここにいる。

確かに、存在している。


ゆっくりと身体を起こし、鏡の方へ手を伸ばした。


ふらつきながらも鏡の前に立つ。

そこに映るのは、かつての俺ではない何か。


異様に細くなったウエスト。

膨らんだ胸、曲線を描くヒップ。

肌に刻まれた新しいタトゥーのラインが、改造された身体の輪郭をより強調している。


「……綺麗」


そう呟く。


確かに美しい。

普通の人間ではありえない、人工的な造形美。

俺はまた、一歩理想へと近づいた。


だが――


「まだ足りない」


鏡の中の俺が、そう囁いた気がした。


この身体は、まだ未完成だ。

もっと変えなきゃ。


もっと、もっと……。


俺はもう、変化なしでは生きられない。


変わることだけが、生きている証明なのだから。









1.4.2 孤独な怪物


街のネオンが肌を鈍く照らす。

無機質な光の粒が、俺の輪郭をぼやけさせる。


ヒールのかかとがアスファルトを叩くたび、視線が集まるのがわかる。


ちらり、と横目で見やる。

すれ違いざまにこちらを見ていた女が、目が合った瞬間にさっと逸らす。

男も女も、年寄りも子供も、みんな俺を見て、それから急いで目をそらす。


嘲笑、驚愕、嫌悪、好奇、陶酔。

入り混じった感情が、無言のまま空気に滲む。


「ふふっ……」


わたしは軽く笑う。

もう、気にしない。


むしろ、心地いい。


見られることは、存在の証明。


俺はここにいる。

どこにでもいる凡庸な人間とは違う、特別な何かとして、この世界に刻み込まれている。


金色の髪が夜風に揺れる。

大きなピアスのついた舌で、唇をひと舐めする。

ピアスの金属が舌先に触れて、かすかに冷たい。


胸元が重い。

歩くたび、豊胸で不自然に膨らんだ胸が揺れる。

狭すぎるウエストが、コルセットに締め付けられて軋む。

肋骨のない身体は柔らかすぎて、何もない空洞みたいだ。


「普通の人間」として生きることは、もうできない。


だが、それがどうした?


社会の隙間に潜り込むように生きていた頃の俺は、いつも誰かの視線を恐れ、うまく溶け込めるようにと怯えていた。

何者でもなかった、何者にもなれなかった。


だが今は違う。


俺を見ろ。


この身体を。

この肌を。

この歪な造形を。


見たくなくても、目に入るだろう?

逃げたくても、脳裏に焼きつくだろう?


それが、わたしの生の証明。


それでも、ふと気づく。


誰ともつながっていないことに。


母親の連絡先は、もうとうに削除した。

家にはずっと帰っていない。


旧友とも連絡は取らない。

そもそも友人などいない。

誰も、わたしを求めないし、わたしも誰も求めない。


鏡の前で微笑むのは、わたしだけ。


その鏡の奥で、誰かがこちらを見ているような気がする。


おまえは誰だ?


俺か? 俺ではない、俺か?


……違う。


わたしはまだ変わりきれていない。

まだ「人間」だ。


「……っ」


それが、耐えられない。


人間のままではいられない。


変化し続けなければ、生きていけない。


わたしは、もっと先へ行かなければならない。


夜の風が、金色の髪をさらっていく。

どこからか微かに聞こえる、低い笑い声。


それが俺のものか、誰かのものかは、もうわからなかった。









1.4.3 異形たちの集会


部屋の明かりを落とし、スマートフォンの画面だけが薄闇の中で青白く輝いている。

指先でスクロールするたびに、匿名の投稿が次々と流れ込んでくる。


——「進化を望む者よ、我らの元へ」

——「新たな肉体を求めるなら、恐れずに扉を叩け」

——「真実の形は、常識の枠には収まらない」


何度も見た言葉だった。

オカルト好きが面白半分に書いたような文章。


だが、その中に明らかに異質な気配を持つ者たちがいた。

そして、わたしはその異質さにこそ惹かれていた。


いつものように、慎重に言葉を選びながら書き込む。

「生まれた形に縛られたくない。ただの男にも、女にもなりたくない。人間の姿に限界を感じている」


数分の沈黙の後、返信があった。


「君が求める答えはここにある」


その言葉を見た瞬間、俺の心臓は異様な高鳴りを見せた。



ネットの闇フォーラムを彷徨い続け、幾度もそれらしい噂を聞いてきた。

「新生(ネオジェネシス)」という名は知っていたし、どこかで接触したいと願っていたのも確かだ。

けれど、実際に”向こう”から手を伸ばしてくるとは思わなかった。


送り主のアカウントは無機質な英数字の羅列で、過去の投稿履歴もほとんどない。

だが、添えられた写真――

無機質なコンクリートの壁に描かれた奇妙な紋様は、俺がこれまで見聞きした「新生」のシンボルと一致していた。


「君は呼ばれている」


次のメッセージには、ある廃墟の座標が示されていた。


指定された場所へ向かう途中、ショーウィンドウに映る俺の姿を横目で確認する。


腰まで届くスーパーロングの金髪は、徹底的にブリーチを重ねたことで異様なまでに白みがかっていた。

ピアスの重みで耳は微かに引き伸ばされ、鎖骨下には埋め込んだインプラントが鈍い輝きを放っている。

豊胸手術を重ねた胸は、黒のレーストップに包まれながら、あからさまに非現実的な膨らみを作り出していた。


普通の人間の身体とは違う。

鏡に映るのは、俺が自ら望み、作り上げた”異形”。


だが、まだ足りない。


わたしの美は、まだ未完成のままだ。


指定された場所は、郊外の工場跡だった。


建物の入口は完全に封鎖されているように見えたが、示されたとおりに壁の一部を叩くと、内側から重い金属音が響き、わずかな隙間が生まれた。

暗闇の向こうに、何かの気配がある。


「……来たんだね」


中から現れたのは、異様に細身の男だった。

顔の皮膚は不自然なまでに滑らかで、目は爬虫類のような光を放っている。


「ユリカ、だったね」


わたしが名乗った覚えはないのに、彼は当然のようにそう呼んだ。


「わたしを知っているの?」


「君のことは”見ていた”。ネットの片隅で、君はずっと叫んでいた。“もっと変わりたい”と」


喉がひりつく。見透かされている。


「……ここに、“答え”があるの?」


「ついておいで」


男は背を向け、地下へと続く階段を降りていく。


階段を降りきると、そこには異形の者たちが集っていた。


皮膚を不自然なまでに白く漂白した者、腕を異常な長さまで延長した者、顔の造形を変えられた者……。

彼らは人間の形をしているが、そのどれもが”人間”ではなかった。


そして、わたしは悟る。


これが”理想”だ。


ここにいるのは、生まれ持った肉体を捨て、新たな自分を作り上げた者たち。

俺が求めていたのは、まさにこの光景だった。


「君もこの道を進みたいのなら、さらに一歩を踏み出せ」


男が言う。


俺は、躊躇なく頷いた。

——このまま進めば、もう戻れない。

——でも、戻る理由もない。


俺は、もっと変わりたい。


「……わたしを、導いて」


そう口にした瞬間、異形たちは静かに微笑んだ。


わたしは、ここで生まれ変わる。


「俺は人間ではない何かになりたい」——その決意が、揺るぎなく刻まれる。

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