第1章 違和感④

1.2.3 境界を超える衝動


痛みは、確かに”そこにある”という証だった。


カッターの刃を押し当てると、皮膚が裂ける感触があった。

にじみ出る血、鈍い痛み。

その瞬間だけ、俺の身体は”俺のもの”になった気がした。

でも、それは一時的なものだった。

傷が癒えれば、また”俺じゃない”身体に戻る。


もっと根本的に、“俺”を作り変えなければならない。



深夜、部屋の隅でスマホの画面をスクロールする。

青白い光が暗闇に滲んでいる。


普通のネットでは見つからない情報を求めて、俺は”向こう側”に足を踏み入れた。



文字通り「人間ではない何か」になろうとしている連中がいた。

彼らは”進化”と称して、己の体を極端な形に作り変えていた。


「自分の体をデザインする自由」


それは、俺がずっと求めていたものだった。


フォーラムのスレッドには、無数の改造手術の画像が並んでいる。

裂かれた舌、削られた耳、皮膚に埋め込まれたシリコン。

異形の体を晒す彼らの姿は、どこか神聖にも見えた。


——俺も、こうなりたい。


けれど、俺にはまだその手段がなかった。

手術を受ける金もコネもない。


なら、できることから始めるしかない。




フォーラムで読んだ方法を試してみた。


用意したのは、安全ピンと氷。

氷で耳たぶを冷やし、感覚を鈍らせてから、一気に針を通す。


ズブッ


押し込む瞬間、頭の芯が痺れるような感覚が走った。

鈍い痛みの奥に、奇妙な高揚があった。


“普通”の身体に小さな穴が開く。

それは俺が”普通”から抜け出す最初の一歩だった。


その日から、俺は毎晩のように新しい穴を開けた。

耳、鼻、眉、舌。


痛みはすぐに快楽に変わった。


安全ピンで開けた舌のピアスは、しばらく血が止まらなかった。

けれど、その血を舌先で転がしていると、なぜか落ち着いた。


もっと変わりたい。


この”男”の身体が嫌だ。

“普通”であることが耐えられない。


——この体を作り変えれば、俺は”俺”になれるのか?


そう考えることが、俺のすべてになりつつあった。




1.2.4 破壊と覚醒


鏡の向こうに映るのは、“俺”じゃなかった。


細くて、白くて、どこか曖昧な顔。

性別の境界に引っかかったまま、どこにも属せない存在。

何度見ても馴染まない。

何度見ても違和感が拭えない。


どうして、俺は”俺”じゃないんだ?


どうして、“俺”の身体は間違っているんだ?


——もう、こんなの見たくない。


そう思った瞬間、手が勝手に動いていた。



拳を握りしめ、全力で鏡を殴った。


ガシャアアアアン!


鈍い衝撃とともに、鏡が砕け散る。

割れた破片が四方に飛び散り、俺の顔にかすかな痛みが走った。


バラバラになった俺の顔が、無数の欠片の中に散らばっている。


歪んで、割れて、無機質な破片の中で”俺”は無数に増殖していた。

どれが本物なのか分からない。

いや、そもそも”本物の俺”なんて、最初から存在しなかったのかもしれない。



破片を拾い上げると、指先に血が滲んだ。


鋭いガラスの切っ先が、わずかに光を反射している。


“俺”はここにいない。


なら、この顔は必要ない。


——壊せば、新しく生まれ変われるんじゃないか?


その考えが頭をよぎると、あとは早かった。


ガラスの破片を頬に押し当て、ゆっくりと引く。


ズッ……


鋭い痛みとともに、皮膚が裂ける感覚があった。血が流れ、熱が込み上げる。


俺は息を荒くしながら、じっと血が伝う様を眺めた。



血の匂い。

鉄の味。


温かく、確かなもの。


——そうだ、これだ。


“俺”じゃない身体を、このまま放っておく必要はない。


壊せばいい。

造り変えればいい。


“間違った身体”を捨て去り、“本当の俺”を手に入れる。


鏡を割った瞬間、俺の中で何かが変わった。


これは”破壊”じゃない。


これは”再生”だ。


そして俺は知った。


この体を壊すことが、“俺”への第一歩になると。

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