義妹を夢に見るけど、俺はロリコンじゃない!

kou

少年は義妹を夢に見る

 あの夢を見たのは、これで9回目だった。

 朝目が覚めて、少年は、また夢を見ていたんだなと気づくのだ。

 少年の名前を石原悠人ゆうとという。

 高校生だ。

 目元が釣り上がっており、どこか近寄り難い雰囲気を感じさせる顔立ちをしている。野良猫の様なその表情は、彼の生来の性格から来るものなのだろう。

 実際、彼は他人に対する警戒心が強く、気を許していない相手にはとことん攻撃的になる傾向があった。

 カーテン越しに差し込む日の光に目をすがめつつ、ベッドの上で上半身を起こす。

 今日も学校がある日だ。

 ベッドから起き上がれずにいると、廊下の方からスリッパで階段を上がってくる音が聞こえてきた。

 それから程なくドアがノックされ、1人の少女が部屋に入ってきた。

「お兄ちゃん、起きてる? もう朝だよ」

 清らかな声とともに、ひょこっと顔を覗かせたのは、腰の下まである長い黒髪をポニーテールにした少女だった。

 柔らかくしなやかな黒髪は、朝の光を受けてほのかに艶めいている。髪を結ぶ淡い水色のリボンが、彼女のすっきりとした雰囲気を際立って見ていた。

 幼いながらも整った顔立ち。大きな瞳はきらきらと輝き、ほんのりとした桜色の頬は健康的な可愛らしさを放っていた。

 愛らしさの中に、どこか儚げな気配を宿しているのが印象的だ。

 このまま成長すれば、誰もが振り返るような美少女になるだろう。

 それでも、今の彼女は、そんなことを気にしている様子もなく、純粋無垢な笑顔を浮かべていた。

 彼女は、小学5年生の妹で、綾瀬未歩みほという。

 二人に血縁は無い。

 悠人は母親の再婚に伴い、血の繋がらない小学生の妹ができたのだ。本来なら悠人は綾瀬という姓に変わったのだが、姓を変えたくないという意向を示した為に石原としている。

 未歩の、まだ幼さの残る丸い瞳が、悠人の姿を捉えた。悠人を見つめる未歩の眼差しには、他人であるにも関わらず疑いも遠慮せず、ただまっすぐな親愛が滲んでいる。

「み、未歩」

 その瞬間、悠人は反射的に身体を強張らせた。

 それは、何もこの妹が苦手という訳ではない。むしろ懐いてくれているので嬉しくさえ思っている。

 だが、を9回目も見たという事に思い至った途端、どうにも気持ちが落ち着かなくなっただけだ。

 未歩が笑顔で近寄って来た。彼女の手がそっと伸ばされ、悠人の額に触れる。

 その小さな手は温かく、柔らかく、子猫の肉球のようにぷにぷにしていた。きっとまだ成長期だからだろうと悠人は思う。

「大丈夫、お兄ちゃん? カゼでもひいたの?」

 心配そうな声に、ハッと我に返った悠人が慌てて首を横に振った。

「い、いや別に……」

 悠人は視線を反らし、口ごもりつつも答えると、未歩の表情が明るくなった。

「本当? 学校休んで、お兄ちゃんのこと看病してあげても、いいのよ?」

 その言葉に思わずドキリとする。まるで恋人にでも言われてるみたいだと思ったからだ。

「大丈夫。今日も、元気に学校に行ってくるよ」

 悠人は、これはマズいと思い、すぐさま着替えを済ませると、朝食を軽く流し込んで家を飛び出したのだった。


 ◆


 悠人は教室に入るなり、隣の席の友人・新島にいじま翔悟しょうごと目が合った。

 身長170cm半ばの、大柄な体格をした男子生徒だ。

「どうした悠人。朝っぱらから疲れた様な顔をして?」

 訝しげに尋ねてくる友人に対し、悠人は席に座り苦笑いして見せた。

 早速話題を振ってきた翔悟に向かって悠人は、乾いた笑いをして片手で頭を支えて言葉を返す。

「……ちょっと、夢見が悪くてな」

 それを聞いた翔悟は首を傾げた。

「夢? そんなことで悩むような奴だったか、お前って?」

 翔悟の言葉を聞いた悠人は、内心でため息をついた。

「俺だってそうだ。だけどよ、これで連続9日目なんだぜ。同じ夢が9回も続けば、さすがに嫌にもなるだろ」

 軽く思っていた翔悟だが、その異様さに表情を曇らせる。

 当初は、たかだか夢と高を括っていたが、同じ夢を9回も見るのは異常過ぎる気がする。

「それって、どんな夢なんだ?」

 そう問われ、悠人は視線を反らし、僅かに言い淀んだ後に口を開いた。

「妹の未歩が出てくるんだ……」

 その名前を聞いて翔悟は、悠人にできた義妹の件を思い出した。

「ああ。あの小学生の女の子か。え!? それってまさか……!」

 何を勘違いしたのか、顔を真っ赤にさせる翔悟。悠人は、そんな友人へ激しい憤りの視線を向けながら詰め寄った。

「お前は何を考えてやがる。言っておくが、俺は未歩ができて自分が重度のシスコンなのを自覚しているが、性的欲求は一切ない。決してロリコンではないからな!」

 それを聞いて安心したのか、翔悟はゆっくりと息を吐いた。

「ああ。分かっているよ。お前がスマホの待ち受けを妹にしていて、自慢してくる姿を知っているから、良いお兄ちゃんしてるってことはさぁ……」

 向けられた悠人の殺気に耐えかねたのか、翔悟は慌てて弁解する。

 実際、悠人の未歩に対する溺愛ぶりは、変態かと思うものであった。

 それはともかく、とにかく今は、話を戻す方が先決だと思い直して、再度質問を投げかけることにした。

「それで、どんな夢なんだ?」

 翔悟が真面目に聞いてきたので、悠人も素直に話すべきだと思った。

 だが、悠人の心にも迷いが生まれた。

 果たして本当に話してしまっても良いのだろうか……?

 いや、逆にここまで話したのだから隠す必要もないのかもしれない。それに自分の悩みを理解してくれる人間というのは貴重な存在だとも思う。

 そうして考えをまとめ終わると同時に決心した悠人は、ゆっくりと語り始めた。

「実はな……」

 と。


 ◆


 悠人は暗い空間に居た。

 暗過ぎて、そこが小さな部屋なのか、広大な宇宙空間の中なのかすら分からない状態だった。

 音もなく、静寂で耳が痛いと感じる程だ。

 不気味な静けさが漂う中、どこからかかな小さな声が聞こえてくる。


 ――好き……


 悠人は、ゾクリとして振り向くが、誰もいない。

 

 ――お兄…………好き


 今度は別の方向から声が聞こえてきた。

 振り向くとそこには、やはり誰も居なかった。

(誰だ!)

 叫んだつもりだったが声は出ない。それどころか口が動かないことに気がつく。ただ音にならない呼気が吐き出されただけだった。

 そのままじっとしていると、再び声がした。

 悠人は恐々と後ずさるが、突然背後からひんやりとした手が首元に触れる。

 驚いて振り返ろうとするが、首を動かすことができないまま硬直してしまった。

 その間、指らしき物が首から鎖骨へと伝う感触だけが伝わってくる。背筋がゾクゾクとし、鳥肌が立ちそうになった時、耳元で何かが囁いた気がした。


 ――お兄ちゃんは、未歩のことが好き


 悠人が視線を向けると、自分の顔の横には妖艶な笑みを浮かべた少女が居た。顔や容姿は確かに未歩に似ているものの、まとっている雰囲気が全く違うことは分かった。

 少女は言う。


 ――本当は好きなんでしょ? 未歩のこと。

 ほら、こうして触れてみたかったんだよね?


 少女の冷たい指先が、シャツの裾から侵入してきて肌を撫でた。まるで蛇の様に這い回る指先の動きを感じる度に身体がビクビクと震える。

 それでもなぜか抵抗できない。

 まるで金縛りにあったかの様に動けなかった。

 その時には少女はさらに距離を詰めており、悠人の背中に身体を押し付けていた。肌と肌が触れ合う程にまでなった。お互いの体温を感じ取るほど密着している状態だ。

 しかし不思議な事に、触れている感覚はあるというのに温度は全く感じない。熱湯の中に入れられた氷に触れている気分だ。

 ぞわっとした嫌悪感が全身を包む。

 それでも声が出ない為、抵抗ができない。その間にも少女の手は、上の方にまで這い上がり指は悠人の胸を掴んでいた。

 これ以上はいけないと思った瞬間、ようやく声を発することができた。

 しかし、その声は言葉ではなく叫び声だった。


 ◆


「……という夢だ」

 悠人の疲れ切った目の下には、薄っすらとクマができているのが見れた。

 その様子を見て翔悟は、危険なものを感じた。

「それが9回もか。そりゃ重症だな……」

 話を聞いただけでも相当な精神ダメージを負っていることが分かる。それも連日見るということは相当酷い状態に違いない。それだけ精神的に追い詰められているのだろう。

「性的な夢は、性的欲求が高まっている心理の表れと言われと聞いたことがあるけど……」

 その言葉に悠人は、何とも言えない表情で固まっていた。

「おいおい、マジかよ……。未歩は、まだ小学生だぞ……? 俺が今まで未歩を愛してきたのは、純粋な兄としての愛情だと思ってた……が、違った……! 無意識に俺は道を踏み外し……ついに超えてはならない一線を越えようとしていたというのか!? 翔悟、俺を殺してくれ。このままだと取り返しのつかないことになる前に、どうか俺を始末してくれぇ!!」

 そんな悲痛な叫び声を上げる悠人を、クラスメイト達は遠巻きに眺めながらヒソヒソと話をしていた。

 頭を抱えだす悠人を翔悟はなだめる。

「落ち着け! ただの夢だろう!? それとも何か心当たりでもあるのか?」

 悠人は大きく深呼吸すると、冷静さを取り戻した様子で顔を上げた。

(夢。そうだ夢なんだよな……)

 思い込む。すると、どうやら気持ちを切り替えることができたようだ。

 ホッと胸を撫で下ろす一方で、なぜこんなことを悩むのかと疑問を抱く。

 そもそも自分は未歩のことを家族愛のハズだと思ってはいるが、もしかすると無意識下で異性愛の様な願望もあるのではないかと考えてしまう。一度や二度ならともかく、9回ともなると不安が増してきてしまうのだ。

 悠人は深いため息をついた。

「……もうダメかもしれん」

「何がだよ」

「俺の理性が……。未歩に抱きしめられる夢を見てというもの、未歩の視線に耐えられなくなっているんだ!」

 悠人は頭を悩ませ、机に突っ伏す。

「おい、しっかりしろよ……」

 翔悟は心配すると、悠人はさらに悶える様に叫んだ。

「俺はシスコンであることに誇りを持っていた! だが、このままでは……。変態になってしまう……!」

「……いや、待ち受け画面が家族写真ならともかく、妹だけにして愛でてるってのは、もう変態の領域に片足突っ込んでるだろ」

 翔悟の意見を悠人は否定する。

「違う!!  俺はただ、未歩を愛する兄でありたかっただけなんだ!! くそっ……どうすればこの悪夢の呪縛から解放されるんだ……!」

 悠人は髪をかきむしる。

 翔悟は腕を組み、しばし考えた後、ポンと手を打った。

「そうだ。夢占いを見てみようぜ」

「夢占い?」

 悠人は聞き返す。


【夢占い】

 夢に出てきたものや状況を元に、現在の心理状態や近い未来に起こる出来事などを判断する作業のこと。夢の内容には、見えない世界や無意識領域からの意味のあるメッセージが隠されているということを前提にしている。


 翔悟はスマホで検索を行い、調べて口にする。

「お。家族とのエロい夢というものがあるぞ」 

 それに対して悠人は呆れた顔を見せた。

 何言ってるんだコイツは、と言わんばかりにジト目を向ける。愛しい妹にエロいことをしているのではなく、あくまでも妹から迫られる夢というのが、正しい事実なのだ。

 翔悟は、記事をスクロールして読み上げる。

「家族とエロいことをする夢には、ふたつのパターンの意味が込められている。

 一つは、心も体も幸福で満たされているという暗示。

 家族とコミニュケーションがとれていたり、趣味などで適度にストレスを発散できているので、性的な欲求が高まっている状態でも、心穏やかに過ごすことができている。

 しかし、家族に良い印象を持っていない場合は要注意。

 二つめは、家族のコミュニケーション不足による、トラブルの予兆の暗示かも。

 とある」

 その言葉を聞いて、悠人は安心する。

「そ、そうなのか。俺は未歩に悪い印象なんて持っていない。むしろコミニュケーションはしっかり取れているし、仲だって悪くない。つまり心も体も幸福で満たされているという暗示だったのか!」

 自信たっぷりに言ったところで、悠人は椅子にもたれ掛かる。その様子は、まるで温泉にでも浸かった後の様である。

「はぁ……。俺は未歩のことを愛する健全な兄だったんだな……」

 悠人は穏やかな表情でいた。

「いや。シスコンの時点で健全と言えるのか」

 翔悟が真顔でツッコむが、悠人には聞こえておらず、懐かしそうに遠く見てしまった。

「まあ、そうだよな。俺と未歩は特別な関係だもんな……」

「……?」

 翔悟が嫌な予感を感じていると、悠人はうっとりとした表情で語り始める。

「だってさ、未歩が妹になった日のこと、今でも覚えてるんだよ。あの日、未歩は俺のことを、悠人さんじゃなく、お兄ちゃんって呼んだんだよ……」

「……まあ。義兄妹になるんだったら、そういうものだろ」

 翔悟の言葉に悠人は反論する。

「違う! 大事なのは、その時の未歩の表情だ!!」

 悠人は友人の鼻先に指を向ける。

「……表情?」

 翔悟は訊く。

 すると悠人は、その時のことを懐かしむ様に腕組みつつ、右手は自分の顎を下から支える。

「ほんのり頬を朱に染めててよ。目は潤んでるし、口は少し開いていて艶っぽく見えるんだよなぁ~。しかも上目遣いだしよぉー」

 完全に惚気のろけである。

 翔悟は思わずドン引きしていた。

(こいつマジでキモイんですけどぉ~!)

 そう思うのだが口にはできない。何故なら相手が相手だからだ。

 相手は超がつくほどのシスコンであった。それだけならともかく、悠人の母は女子プロボクサーの元チャンピオンに加え、義父は現役プロレスラーということも相まって鍛えられており、ケンカになると勝ち目はない。

 そんな相手にケンカを売るなど、愚行以外の何物でもないのである。

 噂によれば、悠人は妹を付け狙った変質者にドロップキックをかまし、30mも吹っ飛ばしたと言われている。

 もし悠人に、そんなことを言おうものならどうなるか想像するだけで恐ろしい。最悪、棺桶に送られかねない。

 ここは黙って同意するしかないのだ。

 悠人は魅惑的な表情で拳を握る。

「可愛すぎてよ。その瞬間、俺は怖かったんだ。こんな可愛い妹のお兄ちゃんになれるなんて、俺は世界一を通り越して、人類史一の幸せ者になっちまったじゃねえてなぁ~」

 恍惚と語る姿に狂気を感じた翔悟は身震いするが、何とか平静を装って答えた。

「そ、それは良かったな……」

 翔悟は、まだ理解できる範囲だと納得しようと思う。

「それからというもの、未歩の成長を見守るために、俺は未歩の行動をすべて記録するようになったんだ」

 それすらも理解出来ると頷く。

「は?」

「未歩が好きな食べ物、好きなアニメ、好きな服のブランド……。全部リストにして、未歩の成長データとしてファイリングしてる」

 それを聞いた途端、さすがに引いた。思わず口元を引くつかせてしまうほどだ。

「極めつけは、やっぱり写真だよ~。翔悟には特別に見せてやるからよ」

 悠人は誇らしげにスマホを取り出し、画面をタップした。

 その瞬間、彼の顔がふわりとほころんだ。

「ほら、見てくれよ」

 そう言いながら、悠人の目はまるで宝石のようにキラキラと輝きを放つ。

「これが未歩の小学校に行く時のランドセル姿、最高だろ? ほら、この笑顔! 天使と言っても差し支えないだろ??」

 スマホを見つめる悠人の瞳には、遠くの美しい景色を眺めるような慈愛の色が宿る。

「で、これが家族になった時にみんなで、お宮参りした時の晴れ着姿、マジでヤバいだろ? 俺、このとき感動しすぎて泣いてるんだなぁ……」

 悠人は目を細め、懐かしさに浸る様に深く語る。その頬はふんわりと緩み、口角はこれ以上ないほど上がっている。

「それから、これが夏祭り! 浴衣姿の未歩、最高過ぎるだろ!? 帯を結ぶのに頑張っていたんだけどさ、もう可愛くて……。俺、鼻血出そうになったよなぁ……」

 スマホの画面を翔悟にグイグイと押しつけながら、悠人はもう完全に「未歩愛」に酔いしれていた。

「で、これが寝起き後のやつ。パジャマ姿の未歩なんだけどさ、髪にちょっと寝癖ついてて、それがまた可愛いんだよな~……」

 その瞬間、翔悟の顔がピクッと引きつる。呆れを通り越して恐怖を覚えた程だ。

「お前……」

 だが、悠人の様子は翔悟だけでなく、周囲に広がっており女子はコソコソ話もする異変に気づくことなく、目をキラキラと輝かせながらスマホをスクロールし続けている。

「未歩の写真フォルダ、もう1000枚超えてるんだよな~。可愛いんだからしょうがない。毎日がシャッターチャンスだぞ! あ。今度、未歩とシネコンに行くんなだけど、また新しい写真フォルダー作らなきゃ!」

 その瞬間、教室全体が凍りついた。

 悠人の頬は上気し、目は愛しさで蕩ける様に細まり、まるで初恋相手の話をしている様な甘い表情を浮かべていた。

 しかし、そんな彼を見つめているクラスメイト達の顔には、恐怖とドン引きの色で染め上げられていた――。


 ◆


 夢占いの結果に納得し、少し気が楽になった悠人は、自宅の玄関前をくぐった。

「ただいまー」

 いつも通り帰宅を知らせる挨拶をしたつもりだったが、今日は返事がなかった。いつもはすぐに駆け寄ってくるハズの妹が来ないことに違和感を覚えていると、パタパタと音を立ててスリッパの音が近づいてきた。

 そして、廊下の奥からヒョコッと顔を現したのは未歩の姿だった。

「おかえり、お兄ちゃん」

  悠人は笑顔で出迎えてくれたことが嬉しくなり、つい頬が緩んでしまったが、連日の夢のせいで妙に意識してしまう。

「お、おう」

 悠人は上がりかまちに腰掛けてスニーカーを脱いでいると、すぐ背後に未歩がやってきた。

 背中に視線を感じつつも、靴を脱いでいると自分の肩に未歩の手が置かれる。

 悠人は夢の件もあって一瞬ドキッとしてしまう。

 悠人の脳裏に、つい今朝まで見続けていた夢の光景がフラッシュバックする。夢の中とは違って、未歩の柔らかい髪、温かい体温を感じることが出来た。

 そして、耳元で囁くように聞こえる吐息はまるで誘惑するように甘く感じられた。

 夢の中で何度も聞いた言葉が思い出される。


 ――お兄ちゃんは、未歩のことが好き


 その言葉を振り払うかのように、心の中で頭を振りかぶる。

 これは気のせいだ。

 そう自分に言い聞かせるようにしていると、

「……動かないで」

 と未歩は言う。

 突然のことで悠人は驚きつつ動けないでいると、未歩は少しの間を置いて、あっさりと離れた。

 肩越しに振り返ると、未歩は笑顔で何かを摘んでいた。

「糸くず。肩についてたよ」

 そう言って、糸くずをヒラヒラさせていた。

 悠人はドクン、と心臓が跳ねた。

 先ほどの甘美な雰囲気とは一変して、いたずらっ子っぽい笑みを見せていたからだ。

(ああ、そうか。そうだよな……)

 夢の意味を再び思い出す。

(そうだ。あれは《心も体も幸福で満たされているという暗示》なんだもんな……。俺は、妹ができて、人類史一の幸せ者になっちまったんだもんな)

 そう思い至ったとき、悠人は自らを冷静にさせて未歩の頭を撫でた。

「あ、ありがとうな未歩」

 そう言うと、未歩は嬉しそうに目を細め微笑んだ。

 その表情を見た時、心が締め付けられるような気持ちになった。

(あんな夢をみたせいで、意味を勘違いしそうになってるだけだ。俺は、未歩を家族として愛しているだけなんだ)

 悠人は自分に言い聞かせ、夢のことで自己嫌悪に陥るのだった。

「……さ、さて。宿題でも片付けるかな」

 気持ちを切り替えようと、悠人は棒読みのセリフを口にしながら二階の自室へと向かっていた。

 悠人の背中が、階段を上るたびに遠ざかっていく。

 未歩は、その後ろ姿を見つめながら、ゆっくりと口元に指を添えた。


 ――くすっ


 抑えていた、笑いみが零れる。

 彼女の瞳は、まるで何かの実験が成功したかの様に細められ、唇は三日月形に吊り上がっていた。

「……効いてる」

 未歩は廊下の片隅にそっともたれかかり、小さく肩を揺らす。

「ちゃんと気にしてるんだ……。ふふっ」

 その小さな声は、自分自身へ説いたものだった。ゆっくりと足元に目を落とし、悠人がそこで脱ぎ捨てたスニーカーを丁寧に揃える。

 その姿勢のまま、

「お兄ちゃんは、未歩のことが好き……」

 と、まるで魔法の呪文のように、ぽつりとつぶやく。

 そして、ふわりと優しい微笑みをする。

「……うん。もう少しだね」

 未歩の目には、まるで獲物を逃がさない捕食者の様な光が宿っていた。


 ◆


 夜の静寂が、部屋を包み込んでいた。

 カーテンの隙間から漏れる淡い月光が、静かに寝息を立てる悠人の横顔を照らしている。ベッドの上では、彼が仰向けになり、穏やかな表情で眠っていた。

 無防備なその姿は、とても微笑ましいものだ。

 悠人は深く眠っている。穏やかな寝息を立てながら、現実の悩みや苦悩から解放され、安らかな表情を浮かべていた。

 午前2時。

 草木も眠る丑三つ時と呼ばれる時間であり、すでに街は完全に眠りにつき、外では虫の声だけが響いていた。

 そんな中、悠人の部屋のドアが音もなく開かれた。音を立てない様に慎重に開くため、蝶番が小さく軋む音すらしないほど静かであった。

 部屋に入ってきたは静かにドアを閉めてから、悠人のベッドに忍び足で近づく。今ここに第三者が居たとしても、が、この部屋に侵入することに気づかないと言っても過言ではない。それほどまでにひそやかな侵入ぶりだった。

 は、寝ている悠人を見下ろす位置に立ち、じっと見下ろす。

 月明かりが、人物のベール剥がす。


 未歩、だった。


 彼女はパジャマ姿で、悠人の枕元に立ったまま、そこから動く気配はない。

 そんな中、悠人の寝息だけは規則正しく聞こえてくる。その音を聞くたび、安堵感が芽生えてくるのだ。

 未歩は悠人が完全に眠っていることを確認すると、安心した様に大きく息を吐いた。

 そのままベッドの前で膝を折って座り込むと、ゆっくりと悠人に向かって身を乗り出した。

 普通なら誰も起きていないだろう時間帯にもかかわらず、彼女の表情は真剣そのもので一切の眠気を感じさせない鋭い眼光を放っていた。

 しばらく沈黙が続いた後、ようやく未歩が口を開く。

 未歩は自分の口に手を添え、悠人の耳元で囁く。


「お兄ちゃんは、未歩のことが好き」


 吐息と共に零れた甘い囁き。

 それは愛を伝える言葉であるにも関わらず、まるで怨みの言葉のようだった。

 もう一度、同じ言葉を囁いた。先程よりもさらに小さな声で、甘さを込めて、切なげに呟いた。

 悠人は気づく様子もない。

 未歩は、それに味をしめる。

 今度は一度ではなく、何度も何度も繰り返す。

 言い間違えることを恐れているのか、同じ言葉を繰り返し唱え続ける。

 低く、囁く。

 まるで悠人の耳の奥にある脳髄に、直接染み込ませる様に。

 それには、願い通り越して、念すら宿っていた。

 いや、正にそれは呪いであり、呪詛であった。

 悠人の目元に変化が起きた。

 苦悶にも似た表情を浮かべたかと思うと、眉間に深いシワが入り込み、眉根が大きく寄せられていく。

 それと同時に歯ぎしりが始まる。呼吸が荒くなり、口から声にならない音が漏れ出す。顔からは大粒の汗が浮き出し始めた。


【夢と音楽の関係性】

 夢とは、睡眠中にあたかも現実に体験したかのように知覚する、ある種の幻覚である。

 1953年。シカゴ大学の生理学教室教授・ナサニエル・クレイトマン教授と大学院生ユージン・アゼリンスキーは、睡眠にはレム睡眠(急速眼球運動睡眠)とノンレム睡眠(徐波睡眠)があり、レム睡眠中、被験者を目覚めさせると約80%の確率で夢を見ていることを見出した。

 国立精神・神経センター精神保健研究所・鈴木博之(2007)は、睡眠中にも覚醒時と同様に情報処理が行われており、睡眠中は外部からの刺激への反応は減少するが心理的機能は維持されていると示した。

 以上のことから、睡眠中に周囲から知覚の一種である聴覚へ刺激することで他の感覚も同時に刺激し、夢を操ることが出来ると言われる。


 悠人の、まつ毛が震える。瞼の裏で急速眼球運動が起こっているのは、確かに何かを見ている証だ。未歩の囁きは、悠人の無意識に確実に染み込んでいるのだ。

(まだよ。まだ足りない)

 それでも未歩は続ける。彼女が止めない限り、ずっと続くと思われた。


 悠人の瞼が、唐突に開く。


 未歩の背筋に冷たいものが走った。

 悠人は、暗い天井を見上げ首を傾けて部屋を見る。瞳が、暗い部屋をさまよう。

 だが、そこには誰もおらず、ただの暗闇があるだけだ。

 悠人の瞼は、ゆっくりと閉じる。

 少しして、悠人は静かな寝息をたて始める。呼吸に合わせて胸が上下しているところを見ると、きちんと眠れているようだ。

 未歩は床に身を伏せていた。

 鼓動が、うるさいほど高く鳴るのを感じた。

 悠人の様子を確認したところで、未歩は長く止めていた息をそっと吐き出した。額に浮かんだ汗を袖口で拭い取る。その顔は無表情のままだったが、頬に伝っている冷や汗だけを見れば焦りを感じていたことが分かる。

「……危なかった。今日は、こんなところね」

 未歩は、ほっと胸をなで下ろした。

 今夜もまた、何とか誤魔化せたようだ。

 まだ大丈夫。

 いや、絶対に気づかれてはならない。

 そうすればきっと……。

 未歩の拳に力が入る。爪がくい込んで痛いくらいではあったが、そんなことは気にならないほどに頭が沸騰していた。

 闇に溶け込むように、未歩は静かに立ち上がった。

 そっと廊下に続くドアに移動する。

 部屋に侵入した時の様に、音もなくドアを開けると廊下に出るのだった。

 ドアを静かに閉じる寸前、未歩は悠人の穏やかな寝顔を見つめながら、目を細める。

 未歩の唇が、ゆっくりと妖艶に歪む。

「おやすみ、お兄ちゃん。今夜もを見てね」

 囁く声は、変わらず呪詛のよう。

 月明かりが、未歩の顔を仄かに照らす。

 その微笑みは可憐でありながらも、異様なまでに艶やかで、背筋が粟立つほどの禍々しさを抱えていた。

 そんな悪魔の様な美しい笑みを作りあげたまま、未歩の姿は闇の中へと溶けていった。

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