第十一話:二月の窓辺――春を待つ心
二月のプロヴァンスは、冬の厳しさの中にも、春の訪れを感じ始める季節だ。時折、温かい南風が吹き、雪は少しずつ溶け始める。マヌーの庭園でも、雪の下から少しずつ緑が顔を出し始めていた。
この日、マヌーは久しぶりに晴れた日の朝日を浴びていた。ベッドから起き上がることはできず、リュシーが運んでくれた肘掛け椅子に座り、窓辺で日向ぼっこをしていた。彼女の体は一段と弱り、骨と皮だけのように痩せていたが、目には生命の輝きが残っていた。
「おはよう、アンリ。今日は良い天気ね」
彼女の声は殆ど囁くようだったが、その言葉には生きる喜びが込められていた。窓から見える庭では、雪解けの水が光って煌めき、アンリの墓石の周りからは、わずかに緑の芽が覗いていた。
「見えるかしら? クロッカスが芽を出し始めたわ」
クロッカスは早春に咲く花で、雪の中からでも力強く芽を出す生命力を持っている。マヌーとアンリは長年、墓石の周りにクロッカスの球根を植え続けてきた。その小さな命の営みが、彼女の心を温かくした。
午前中、リュシーが訪れ、マヌーの身の回りの世話をした。彼女は枕元を整え、温かいハーブティーを淹れ、マヌーの白い髪を優しく梳かした。
「マヌーおばあさん、庭のクロッカスが芽を出し始めましたよ。もうすぐ紫や白、黄色の花が咲くでしょうね」
「ええ、毎年この時期が来ると、私の心も弾むの」
マヌーはリュシーに、クロッカスについての思い出を語った。アンリと初めてこの地に来た春、荒れ地の一角に野生のクロッカスを見つけたこと。それが二人にとって、この土地を選んだ吉兆のように思えたこと。以来、彼らはクロッカスを特別な花として大切にしてきたのだ。
「リュシー、お願いがあるの」
マヌーは震える手で、枕元に置いてあった小さなノートを指さした。
「このノートには、私の庭に植えた全ての植物の名前と、その世話の仕方が書いてあるわ。あなたに託したいの」
リュシーは感動のあまり言葉を失い、ただ頷いて受け取った。そのノートには、マヌーの生涯をかけた知恵が詰まっていた。
午後、村の子どもたちが学校帰りに訪れた。彼らはマヌーのために歌を歌い、庭で見つけた小さな花や変わった形の小枝をプレゼントした。マヌーは窓際に座り、子どもたちの無邪気な笑顔に心を和ませた。
「マヌーおばあさん、庭でこんなのを見つけたよ!」と少年が見せたのは、雪解けの下から顔を出したばかりのスノードロップだった。
「それはスノードロップというのよ。『希望』の花言葉を持っているの」
子どもたちが帰った後、マヌーは窓から庭を眺め続けた。西に傾き始めた太陽が、雪解けの水たまりを黄金色に染めていた。
「アンリ、春がもうすぐそこまで来ているのが感じられるわ」
彼女の心は穏やかだった。長い人生を振り返り、特にアンリと共に育てた庭園での日々を思い出す。喜びも悲しみも、全てが彼女の心を豊かにしてきた。
夕方、医者のロベールが診察に訪れた。彼はマヌーの脈を取り、聴診器で心臓の音を聞き、黙って首を振った。
「もう長くはないね、マヌー」
「わかっているわ、ロベール。でも私は幸せよ。この窓から庭が見えて、春の訪れを感じることができるもの」
ロベールは友人として彼女の手を握り、長い間そうしていた。言葉は必要なかった。二人は共に年を重ね、多くの仲間を見送ってきた。今、マヌーの番が近づいていることを、彼らは静かに受け入れていた。
夜、マヌーは一人で窓辺に座り続けた。月明かりに照らされた庭園は、白い幻想的な世界のようだった。アンリの墓石も、月の光を反射して静かに輝いている。
「アンリ、もう少しの辛抱ね。春が来たら、私たちまた一緒に庭を歩けるわ」
彼女の言葉は、肉体の別れを超えた再会の約束だった。庭園の植物たちも、その約束を聞いているかのように、月明かりの中で微かに揺れていた。
「マヌーおばあちゃん、私たちも待っているよ」とクロッカスの芽が。
「春になったら、あなたのために精一杯咲くからね」とスノードロップが。
「私たちは、あなたとアンリさんの愛を永遠に伝えていくよ」と古いオリーブの木が。
二月の冷たい夜風が、それらの言葉を天へと運んでいった。マヌーの心は静かな期待で満たされていた。彼女は穏やかに目を閉じ、春の訪れを夢見ながら眠りについた。
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