第九話:十二月の霜――記憶の中の花

 十二月のプロヴァンスは、冬の静けさが全てを包み込む季節だ。マヌーの庭園では、多くの植物が休眠状態に入り、雪や霜に覆われて静かな眠りについていた。


 この朝、マヌーはベッドから起き上がることができなかった。数日前から体調が急激に悪化し、村の医者ロベールは彼女に絶対安静を命じていた。


「マヌー、心臓に負担をかけてはいけない。当分の間、ベッドで休んでいなさい」


 窓から見える庭は、一面の霜に覆われていた。アンリの墓石も白く輝いているのが見える。マヌーは窓際に置かれた椅子に腰掛け、遠くから庭を眺めた。


「おはよう、アンリ。今日は外に出られないの。ごめんなさい」


 彼女の声は弱々しかったが、目には強い光があった。窓ガラス越しに見える庭園の様子を、彼女は一つ一つ心に刻んでいた。墓石の周りのキクの花はほとんど枯れていたが、いくつかはまだ花を咲かせていた。東側のカレンデュラも、霜の中で黄色い花を健気に咲かせ続けていた。


 マヌーは目を閉じ、記憶の中の庭園を思い浮かべた。春のラベンダーの新芽、夏のバラとラベンダーの香り、秋のリンゴの実りと紅葉……一年を通じて移り変わる庭の姿が、彼女の心の中で鮮やかに蘇った。


「アンリ、覚えてる? 私たちが初めてこの土地に来た日のこと」


 五十年以上前、彼らはパリでの生活を捨て、このプロヴァンスの小さな村に移り住んだ。荒れ果てた土地を、二人の手で少しずつ開墾し、植物を植え、家を建て、庭園を作り上げていった日々。若かった二人の夢と希望が、この庭園に宿っていた。


 昼頃、村の少女アリスが訪ねてきた。彼女はマヌーのために、カレンデュラの花束を持ってきてくれたのだ。


「マヌーおばあちゃん、元気になりますように」とアリスは言った。


「ありがとう、アリス。あなたの優しさが、私の薬になるわ」


 マヌーは花束を胸に抱き、その香りを深く吸い込んだ。庭から取ってきたばかりの花の香りは、彼女に力を与えてくれるようだった。


 午後、リュシーも訪ねてきた。彼女はマヌーの庭の世話を申し出てくれた。


「マヌーおばあさん、ご心配なく。私があなたの庭を守ります」


「ありがとう、リュシー。特に、アンリのお墓の周りのキクの花を大切にしてほしいの」


 リュシーは、マヌーから託されたノートを開き、子どもたちに見せた。


「マヌーおばあさんは、この庭の全ての植物について、こんなにたくさんのことを書き残してくれたの。これからは、私たちみんなで彼女の知恵を受け継いでいきましょう」


 南側の菜園では、トマトやナスの苗が植えられていた。東側の花壇では、チューリップが鮮やかな花を咲かせ、その隣には、もうすぐ咲く予定のアネモネの芽が力強く伸びていた。西側のリンゴの木には、小さな白い花が咲き始めていた。北側のハーブ畑では、タイムやローズマリー、セージが新しい若葉を広げていた。


 しかし、庭園の中心、アンリとマヌーの墓石の周りが最も美しかった。そこには、彼らが生前最も愛したラベンダーの若い苗が植えられ、その周りにはクロッカスの花、そしてすぐ隣にはスノードロップとアネモネが調和よく配置されていた。


「この花の配置は、マヌーおばあさんが最後に指示したものなんですよ」とリュシーは説明した。「彼女はベッドの中から、庭のことを考え続けていたんです」


 午後、村の人々は庭園で簡素な式を行った。それは葬式というよりも、マヌーの人生と彼女が残した庭園を祝う集まりだった。村長は短いスピーチの中で、この庭園が村の宝として永遠に保存されることを宣言した。


「マヌーとアンリが残してくれたこの庭園は、私たちの村の心臓部となるでしょう。ここで子どもたちは自然を学び、大人たちは平和を見つけ、老人たちは思い出を振り返るでしょう」


 その言葉に、集まった人々は静かに頷いた。彼らの心の中で、マヌーは単なる「老婆」ではなく、この土地と共に生き、自然の知恵を次世代に伝えた大切な存在だったのだ。


 夕方、人々が去った後、庭園には静けさが戻ってきた。西に沈みゆく太陽の光が、二つの墓石を黄金色に染め上げていた。そして不思議なことに、その光は特にラベンダーの若い苗の上で強く輝いているように見えた。


 その時、リュシーとアリスだけが残っていた。二人は静かに墓石の前に立ち、マヌーへの最後の言葉を捧げていた。


「マヌーおばあさん、あなたの庭を守ります。約束します」とリュシーは言った。


「マヌーおばあちゃん、お花をたくさん咲かせるからね」とアリスは小さな声で付け加えた。


 二人が帰った後も、庭園は命の息吹で満ちていた。小鳥がさえずり、蝶が舞い、風が葉を揺らす。そして、植物たちは互いに囁き合っていた。


「マヌーおばあちゃんとアンリさんは、今どこにいるんだろう?」とクロッカスが尋ねた。


「空の上の、もっと大きな庭にいるんだよ」と古いオリーブの木が答えた。


「でも、彼らの心はいつも私たちと共にあるんだ」とラベンダーの苗が言った。「私たちが生き続ける限り、彼らの愛も生き続けるんだよ」


 そして夜になり、星々が輝き始めた時、墓石の間から小さな光が立ち上るのが見えた。それは誰の目にも映らなかったが、確かにそこにあった。アンリとマヌーの魂が再会し、彼らが愛した庭園の上を舞っているかのようだった。


 四月の風が庭を渡り、全ての植物がその光に向かって身を寄せるように揺れた。それは永遠の愛の証、そして生と死を超えた命の循環の象徴だった。


 マヌーとアンリの庭園は、これからも四季折々の美しさを村の人々に見せ続けるだろう。そして彼らの愛の物語は、植物たちによって静かに、しかし確実に語り継がれていくのだ。


 春の花々が満開の庭園に、新しい命の物語が始まろうとしていた。

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