第11話「境界を問う者たち」

黒いカードキーは、玲司のポケットの中で重たく沈んでいた。


紗世の部屋に戻ると、彼女は目を覚ましていた。

ただ、瞳の奥にあったはずの“自分”の輪郭が、どこか薄れているように感じられた。


「大丈夫か、紗世?」


声をかけると、彼女は首をかしげて答えた。


「うん……ただ、夢を見た気がするの。すごく静かな場所で、赤い空が広がってて……」


玲司は何も言わず、傍に座った。

夢の内容は何であれ、彼女の脳の“何か”が変化しているのは確かだった。


その日、玲司は初めて他の患者たちと少しだけ会話を交わす機会を得た。


点滴を受けていた初老の男性が、静かに口を開いた。


「君、あの子と一緒にいる青年だろ。……気をつけなよ。あの女、夜中に何か“唸って”たよ」


別の女性は言った。


「最近、ここに来る若い子たち、目が光ってるのよ。獣みたいな目をしてる。……誰も口にしないけど、皆、気づいてる」


彼らの声は、恐怖というより“予感”だった。

そして、それがこの施設全体に浸透している雰囲気なのだと玲司は知った。


……自分たちの中に、もう“人ではない存在”が混じっているという実感。


紗世は、何度も自分の体に手を当てていた。


「ねえ……私って、本当に“私”なのかな?」


玲司は、答えに詰まった。

そして、昨日の志摩の言葉が頭に蘇る。


「進化」

「選択」

「日常には戻れない」


その夜、玲司は再び研究者の視点で記録を見返す。

資料の中に一つ、目を引くレポートがあった。


【被接種者No.2218:感情抑制の低下と共感過剰反応】 視覚・聴覚刺激に対し、異常な感応性を示す。 睡眠時における“幻聴・幻視”の報告多数。 感情の昂ぶりと共に、身体能力の短期上昇が確認される。


コードネームの下には、見覚えのある名前――藤咲紗世。


「……もう、始まってるんだな」


覚醒はすでに“過程”ではなく“進行中の現実”だった。


その夜、玲司はカードキーを手に取りながら、自問した。


「……もし彼女が、人じゃなくなるとしても、俺は彼女を“守る”のか、“観察する”のか」


人類が踏み入れてはいけない一線を、すでに越え始めていた。

そして……それでも、彼はまだ「答え」を持っていなかった。

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