神
「おはよう、薫。
――いい夢見れた?」
びくりと肩が震え、泣き声が止まる。
窓際の影は身を縮めた。
「ご存じだったんですね?」
しばらくして諦めたように起き上がった薫が問うた。
その顔は影になっていたが、強張っている気配は伝わってきた。
そう、と少女もまた起き上がり、頷く。
「知っていたわ、貴女の力。
望むと望まざるとに拘らず、隣に眠るものの記憶を引き出し、夢に見てしまう、その力を。
内緒だけどね。
うちには、どの系列にどういう能力者が生まれるか記したものがあるの」
「それをご存じで、私と寝てくださったんですか」
「だって、知りたかったんでしょう?」
いいえ! と薫は叫ぶ。
「いいえいいえ、知りたくなかった。
知りたくなんかなかったんです!」
薫の手はタオルケットを握り締めていた。
「八年前、私は貴方と眠り、貴方の夢を盗み見た。
あの頃の私は、自分が相手の記憶を夢に見れるのだとは知らなかったけれど。
ただの夢だとしても、あれだけは無性に恐ろしくて。
それ以来、いつも、母の背に縋りついて眠るようになった――」
「綾子さんは貴女の力をわかっていたろうから、意識的に自分の夢を遮断することも出来たでしょうからね」
でもそれは、薫の力が綾子を上回るまでの話だろうが。
「私は、子どもの頃読んだどんな話よりも、貴方の夢が怖かった。
たぶん、心の何処かで、あれが現実に起きたことだと感じていたから」
怖い、か。
「そうでしょうね。
すべての生きとし生けるものが本能的に恐怖するもの。
それは、世界の終わり。
無から始まった世界は、必ず無に還る。
その法則を本当は誰もが知っているから」
この世に居るものならば、決して見たくないもののはずだ。
何モナイ 世界
何モナイコトサエ 何モナイ世界――。
今まで自分が生きてきたことも。
その『自分』という存在を産み出した長い歴史さえも。
「何もなくなる。
いいえ、初めから、何もなかったのと同じことになる」
『そのとき』を予感するより、何も知らずに消えていく方が、遥かに幸せなことだろう。
「もしも、気づく人間が居るとしたら、それは恐ろしいことでしょうね」
感情も交えず言った少女を、薫は僅かに敵意を覗かせた瞳で見て言った。
「……他人事ですね」
「ごめんなさい。
私、人間じゃないから」
シーツの上に視線を落とし、膝を抱える。
まだ外は暗く、虫が鳴いていた。
「人間だと思ってたんだけど。
人の身体に入って長く転生しているうちに、人になったと思っていたんだけど」
違ったみたい。
ぽそり、と少女は小さく呟いた。
「『私たち』はおとなしく人類と一緒に消えるつもりだった。
でも、身体を捨てなくても、私たちだけは消えないみたいだった。
私はこうして生を受けた『世界』というものを覚えていようと思った。
もうそれしかないのだと。
私が覚えているだけで、本当の意味で、この世界も人類も『無』には還らない。
そう思った」
だけど、ふと気づいたの、と少女は、薄く月の残る空をカーテン越しに見上げる。
「『世界』が消えていく瞬間に。
今あるこの世界が消えるとしても、私が新たに世界を造り出すことは出来ないだろうかと」
そうじゃなきゃ、なんで『神』なんてものがこの世に居るの――?
「私は私で知りたかったのかも。
私たちの存在する意味を。
……別にカミサマって、物語に出てくるみたいに、なんでも出来るわけじゃないのよ」
自分たちは、この世に唯一の絶対的な神ではない。
日本で語られる自然崇拝から産まれた神に近い。
それぞれが、僅かずつの何かを守っている八百万の神々。
「八百万も居るかどうかは知らないけど、言い得て妙だわ。
その力はほんの少しで、一人では何も出来ない……
はずだった」
本当にこの世界を造り変えるなんてことは――。
「無茶はするもんじゃないわね。
案の定、私によって産まれたこの世界は、不完全なものだった。
此処には、たったひとつだけ、『欠落しているもの』がある。
最初は何故なのかわからなかった。でも」
でも、やがて気づいた。
「私の不完全な力によって『新たな世界』を生じさせるには、強力な『場』が必要だったの。
私よりももっと、大きなチカラを持つもの。
その魂の上に、この世界は成り立っている」
「それが……この世界の――
扉の向こうの『神』なんですね」
薫はまるで己れこそが人類の代表であるかのように、少女を凝視する。
その視線で負けまいとするように。
「世界が無に還ろうとしたことは、既に過去にあったことです。
怯える必要はない。
でも、やがて気づいた。
貴方が……
もう一度、この世界を消したがっていること」
少女は僅かに微笑んでみせた。
扉を――
すべての扉を開け
そのとき、『俺』は解放される。
この世界は、彼を弾き出し、その上に世界を造った。
「失敗したのよ、私。
だから消してしまいたかった。消しゴムみたいに」
でも、そうして産まれた世界は、もう命を持ってしまっていた。
「私は確かに人類を助けたかったけれど、それはそこまでして叶えたい願いじゃなかったわ」
「……貴方は勝手な人です」
人じゃないもの。
そう繰り返し、少女は嗤う。
人ではないから勝手なのか。
勝手だから人ではないものになれたのか。
深い考えもなく世界を産み出してしまえたのか。
「貴方は勝手な人です!」
同じように繰り返される薫の言葉を、そうね、と少女は正面から受け止める。
「貴方のせいです! 私が悪夢に苦しむのも。
立花さんに縋ったのも。それでも尚も救われないのもっ!」
叫びながらも、薫は少女に抱きついてきた。
震える唇を噛み締め、掠れたような声を出す。
「それでも。
すべてを知っても。あの人の夢から何を察しても。
私は貴方を憎めない。
貴方は―― 私の神だから」
薫は少女を抱き締めた。強く強く。
もう二度と、立花がそうしなくても済むように。
やわらかな薫の体に薫に抱きしめられ、少女は涙を落としていた。
薫。貴女は覚えているだろうか?
初めて逢った御堂の庭。
当主と諍いがあって、庭の隅で泣いていた少女の前に薫は現れた。
『わあ。なんて奇麗なオーラ』
そう微笑む、自分こそが美しいオーラを纏った薫の言葉に、少女は息を呑んだ。
誰も少女の力のことには触れようとしなかった。
だから怖かった。
自分の持つ記憶が確かな力に裏打ちされたものなのか。
ただの子どもの妄想なのか。
だけど、子どもの薫は無邪気に言った。
なんて奇麗なオーラ――。
ねえ、薫。
あのときの貴女の一言が、どれほど私の支えになっていたか。
貴女は知らないんでしょうね……?
蒼い月明かりの中、立花は、ぼんやりと薫の部屋の壁に寄りかかり、二人の話を聞いていた。
その手にある吸いかけの煙草は、落とさないまま、長く灰を残している。
少女の部屋は愛らしいその服装からは信じられないほどに、何もなかった。
まるでそこを仮の宿りと定めているかのように。
無機質なその部屋の様子が、彼女の本当の心の内を表わしているようで痛ましかった。
そして、あの日。
少女は部屋に戻るや、明かりもつけずにパソコンを起動させていた。
雨の中帰った彼女の髪は、濡れそぼっていた。
『着替えた方がいいですよ』
『最後までやらせて』
『後の処理は、他のものに任せればいいじゃないですか』
『私がやりたいの!
あの男が生きている証拠を全部消しておかないと。
高林の力なんか借りるんじゃなかった!
こうなることが、予想できなかったわけじゃないのに。
私、功を焦っていたのね』
『どうして、貴方が功を焦る必要があるんです?
貴方は当主になりたいわけじゃないでしょう?』
初めてのミッションで、少女が無茶をした理由。
それは当主になりたかったからなのか?
だが、立花は、彼女が権力などに一切興味のない人間なのを知っていた。
『なりたいわ……』
『え?』
『当主になりたい。
早く、出来るだけ、早く』
また、あの顔だ、と思った。
十二の子どもとは思えない。
幼さの残る美貌をかき消すほどの色香。
いつの頃からか、少女は自分だけに気を許し、こんな顔を見せるようになっていた。
そして、その原因に自分は気づいていた。
立花は少し腰を屈めると、勇気を持って、少女の頬に手を触れた。
冷えた滑らかな頬が、ぴくりと震える。
パソコンからの蒼白い光が彼女の顔を照らしていた。
『貴方は一体、何を求めているんです?』
立花から目を逸らした少女は、呟くように言った。
『私を求めてくれるもの。
私を必要とし、私が必要とされるもの』
立花は覚悟を決めて、その言葉を口にする。
『扉の中の、神ですか』
少女は目を閉じた。
気づかれていることは薄々感じていたようだった。
『何故、貴方は彼を愛するようになったんです?』
『夢を――
夢を見るの。
声が聞こえる。
あの人が呼んでるの。
扉を開けろと』
すべての扉を開けろ
そのとき、俺は解放される――。
『それを信じるんですか? その声が現実のものだと?
魔に引かれた力によるまやかしだとは思われませんか!?』
つい口調がきつくなる。
実際、扉の力を我が物にしようと暗躍するものは幾らでもいる。
『わからない。
わからないから確かめたい。
だけど、お祖父様は、私を扉に近づけさせない』
当り前だ。
扉の中の神を解放するわけにはいかない。
『貴方を……貴方を必要としている人間なら、他にもいるじゃありませんか』
当主や少女を崇拝して、次期当主にと願うもの。
そして、この自分が。
だが、瞳を上げた少女は言う。
『私を必要としている者なら他にもいるかもしれない。
だけど、あの人には私しかいない』
『どうして?
神はすべてのものに傅かれ、敬われているじゃありませんか』
『それは、彼をじゃなくて、彼の力をよ。
あの人自身を癒してくれるものなど居ないわ』
何かを思い出すように、少女の口許が歪んだ。
『長い……長い間、あの人は一人だったの。
ずっと私を待っていた。だから』
宮様! と非難の声を上げる。
『そんなこと認められません』
裏切られたように少女は叫ぶ。
『お前まで、一族の力の方が大事だというの!?』
『そうじゃありません。そうじゃなくて……っ』
この時点まで、自分は神を解放して起こることは、一族が力を失うことだと思っていた。
当たり前だ。
この世界をたった一人の神が支えているなんて、当主と彼女以外、誰も知らない――
はずだった。
少女は失望したように自分を見ている。
そうじゃなくて、と立花は繰り返した。
そうじゃなくて、なんなんだ。
何が自分は厭なんだ。
扉――。
いつから存在するのかわからないそれを。
未だかつて、誰も開くことは叶わなかったそれを。
この人なら開けてしまうかもしれない。
そんな予感があった。
何の力も無いはずの少女。
だが、彼女はいつかあの扉を開け、そして――。
自らの奥に潜む恐怖に思いを巡らせている間、少女は最早、自分には興味を失ったようにキーを叩いていた。
やがて、フロッピーを引き抜いて、それを終了させる。
『じゃあ、私、行くから』
まだ雨の降り続く窓を背に、いつもの顔に戻って少女は言った。
いつもの顔、いや違う。
それは他の一族の者に見せる顔だった。
気づいていた。
いつの間にか、他の誰よりも自分が少女の側に居たこと。
だが、それが今、消えようとしていた。
己れの不注意な一言で――。
自分に背を向けていこうとした少女に向かって一歩、踏み出す。
何度も願ったことそのままに、その手で少女の腕を掴んだ。
なに? と振り返ろうとした身体を引き寄せ、抱きしめる。
後ろからそうしたのは、彼女に自分の顔を見せないためだった。
知っていたから。
何故、彼女が自分だけに心を許したのかを。
やわらかな髪の流れるその耳許に唇を寄せ、微かな声で囁いた。
『貴女を……必要としているものは此処にもいます』
立花、と身をよじろうとした彼女をきつく抱きとめ、息を吸うと、不敬を覚悟でこう言った。
『お前を……必要としているのは俺だ』
明らかに少女の動きが止まった。
もう一度、繰り返す。
『お前を必要としているのは、俺だ』
その後に、決して、呼んではならない彼女の真名を付け加えた。
彼女がいつだったか、自分だけに教えてくれた。
当主と彼女しか知らないはずのその名を。
その瞳から零れ落ちたものが立花の手を濡らす。
もう一度、その名を呼び、その小さな頭に額を押しつけた。
わかっていた。
この人が自分に心を許すのは――
自分の声が、神のものと似ているから。
声変わりを終えたあの頃から、少女が自分を見る目が変わったのに気づいていた。
雨の音がしていたはずなのに、いつの間にか聞こえなくなっていた。
ただ、少女の手から滑り落ちたフロッピーが床の上に落ちた音だけが強く響いた。
自分を拒絶するのをやめた印として。
扉を――
すべての扉を開け
そのとき、俺は解放される――。
夜のしじまに、虫の音だけが響く。
まだ夜明けは遠そうだった。
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