「甘いですねえ、立花さんも」

 虫の音が響く渡り廊下を歩きながら、少女たちは荷物を薫の離れに運んでいた。


「そりゃあ、あれだって、恋人の願いくらい聞くでしょ。可愛いもんだし。


 あーあ、でも明日にはもう綾子さんの手料理が食べられなくなっちゃうのか。淋しいねー」


「いっつも、豪勢なの食べてるじゃないですか」


「家庭の味ってのがいいのよ」

と少女は人指し指を振って見せる。


「自分で作ってみたらどうですか」

「……誰に向かって言ってんのよ、チャレンジャーね」


「すみません。貴方の不器用は私が一番よく知っていました」

 素直に謝られて、少女は男の膝の後ろを蹴り上げた。




 クーラーのある薫の部屋も、窓はすべて開け放たれていた。


 夜の山風は冷たく痛いくらいだ。


 後ろから、薫の声がした。


「すみません、ちょっとお待ちください。

 今、お布団お運びしますから」


「私が運びますよ」

 すぐさま言った男に、少女がからかいの目を向ける。


「あらあら、美人の前だといい格好しちゃって」


「じゃあ、貴方も早く自主的に手伝いたくなるようないい女になってください」


 即行言い返す男に、少女は情けなげな顔をし、薫は噴き出した。



 

「すみません、お手間取らせて」

 狭い廊下を歩きながら、いえいえ、と男は笑う。


 普段使われていないはずの布団は温かだった。

 昼間、綾子が干しておいたのだろう。


 ふいに薫が俯きがちに言った。


「私、本当は貴方がお嬢さんのお側に付かれるの、反対だったんです」


 すみません、と小さく謝る。


「貴方がお嬢さんに恨みを抱いているの、知っていたから」


 虫の音がいっそう強くなった気がした。


「だけど、今回、見ていてわかりました。

 どうして貴方なのか。


 貴方は私や立花さんや、他の信者の人みたいに、お嬢さんを崇拝も尊敬もしていない。


 だから、お嬢さんは貴方の前では、構えないでいられるんですね」


 そんなこと、と男は言おうとした。

 だが、それより先に足を止めた薫が男を見上げる。


 長い睫の下の茶がかった瞳は強い決意を孕んでいた。


「これからも、どうか裏切らずに、お嬢さんの傍にいてあげてください。

 お願いします」


 まるで先手を打つようにそう言い、深々と頭を下げた。


 


 薫の離れは、そこだけ洋室なせいか、明かりも強く、部屋全体が白く眩しいような気がした。


 ベッドに横になった二人は、顔を見合わせて笑う。


「さすがにこの年になると、セミダブルじゃ狭いですね。


 やっぱり私、下に寝ましょうか。

 せっかく布団も運んでいただいたんですし」


「いいじゃん、この方が。

 それに私、寝相は悪くないわよ」


 知っています、と薫は笑う。


 少女は天井を見ながら言った。

「懐かしいねー」


 白い天井に浮かぶ紋様さえも見覚えがあるような気がしていた。ふいに自分が十足らずの子どもに還った気になる。


「じゃあ、電気消しますね」

 ぱちりという音ともに、部屋の中が暗くなる。


 目が慣れてきた少女は、蒼白い月の光が部屋中に充満しているのに気づく。


「お嬢さん」

 なあに、と天井を見たまま、少女は訊いた。


「お母さんのこと、本当に許してくださったんですか」

「知ってたんだ、薫」


 ええ、と少女に目を向けないまま薫は頷く。


「お母さんは隠してたけど。なんとなく、伝わるじゃないですか。本家での会のときとか」


「そんなこという奴いるの?」


 薫はおもむろに起き上がり、両手をついて頭を下げた。

 戸惑いながら少女もまた起き上がる。


「申し訳ありませんでした。

 私、どうしても一度、ちゃんと謝っておきたくて。


 昼間は、まどかたちが居るから」


「それで私を引きとめたの?」

 少女は苦笑する。


「いいのよ、もう。綾子さんとは話がついてることだし。薫には何の関係もないことだもの」


「でも……」


「私は、こうして無事に生きてるんだし。もういいから寝よ?」


 薫はまだ物言いたげだったが、少女が布団に潜り込むと、仕方なく、体を横たえたようだった。



 

 そこは暗がりだった。足許に一本のくねる道がある。


 少し先に、ぽうっと灯りがともった。


 それに誘われるように少女は進んでいく。猿のような形をしたものが、笠と蓑を被り、提灯で道を照らしていた。


 彼が照らす道の向こうに、微かに白い扉が見えた気がして、少女は歩み出す。



 

 いつの間にか、少女は本家の庭に居た。


 しかし、何か違和感があった。あんなところにヤマモミジが植わっていたろうか。


 視界も変だ。

 灯篭よりも位置が低い。


 ある確信を持って己れの手を見る。


 細く長い奇麗な指だったが、それでも今のものよりひとまわり小さかった。


 紅い着物の袖が見える。

 それは昔よく着ていたお気に入りの着物だった。


 誰かが水を打ったのか、しっとりとした鞍馬石の飛び石の上を、二歩で歩く。


 歩くたび、髪飾りにつけられた鈴が耳許で、ちりちりと揺れ、目の端を緑の飾り紐が行ったり来たりした。


 庭の片隅にそれはあった。


 ブナとシャラの木に囲まれた木の祠。

 注連縄のかかった祠の中には、辛うじて人の潜れるサイズの扉があった。


 古びたそれに手を伸ばそうとしたとき、

「宮様っ!」


 聞き慣れた声。次の瞬間、まだ少年のような声の主が、その腕(かいな)に少女を抱いた。


 振り返ると、和服姿の美しい女が立っていた。


 憤怒の表情をした御堂綾子だった。


 彼女は美しい顔を歪め、光るものを振り上げている。

 少年は己れの体で少女を庇おうとした。


 ――駄目っ!


 次の瞬間、背筋に熱いものがぶつかった。

 瞼を閉じてなお、瞳を焼く真白の光が辺りを包む。




 しん、とした気配に目を開ける。

 綾子が目の前に倒れていた。


 ――今のは……。


 少女は乱れた髪から落ちかけた髪飾りを押さえ、振り返る。


 扉に通じる祠が崩れていた。

 何か強い熱が突き抜けたように、黒く焼け焦げている。


「う……」

 膝の上で誰かがうめいた。


「立花っ。立花っ!」

 少女は腰を浮かし、その手で抱きとめる。


 立花が目を開けた。

「……宮様?」


 少女がほっとしたとき、遥か上空から声が降ってきた。


『よかった……』

 少女は曇天の空を睨み上げる。



 

 一面の竹林に、竹の花が咲いていた。

 天変地異の前触れと言われる竹の花。


 だが、実際は孟宗竹で六十年、真竹でも百二十年周期で咲く。

 単に、それだけ珍しいということだ。


 ただ、竹は一斉に花をつけたあと、広大な竹林を枯らす。


 僅かな種子に未来を託すその潔さ。

 人類には真似のできないことだった。


 少女はその花に頬を寄せた。


 でも、そうだ。

 あの年にあんなに真竹の花が咲くはずはなかったのに。


 昭和四十年に一度、日本各地で真竹の花が咲いて、竹やぶが枯れたばかりだった。


 あの年に、咲くはずなんかなかったのに。

 そう思った少女は自問自答する。


 ――あの年? 待って。今はいつ?


 強い風に煽られた竹が、ドミノのようにぶつかり、あちこちでカンカンと澄んだ音がした。


「待って。

 私は……誰?」


 竹の音に混じって声が聞こえた。


『光あれ、と神は言った。

 光はあった。


 ――ねえ、神が滅びよ、と言ったら、世界は滅びるのかしら』


『さあねえ。

 いつか自分がカミサマにでもなったら、試してみたら?』


 竹は甲高い音を立てて揺れ続ける。さわさわと葉ずれの音がしていた。


 その音は声と重なり繰り返される。


 光あれ、と神が言ったら

 滅びよ、と神が言ったら


 いつか、自分が神にでもなったら


 試してみれば?


「いやっ」

 しゃがみ込んだ少女の手の中でやわらかい感触があった。


 鼓動を押さえるように大きく息をしたあと、ゆっくりと広げてみると、そこには竹の花があった。


 これから最後の願いをかけて、命を引き出すはずのものを、私は。




 強い風が吹き、いつの間にか、日は落ちていた。


 夕暮れの海岸。

 天にはそこだけ変わりのない真白の月。


 だれもいない

 だれもいない

 だれもいない


 少女は落日の輝きを見せる海を見つめる。

 生暖かい風が長い絹の髪をかきあげた。


 波打ち際に立つ少女の足先に、何度も海がぶつかってくる。


 命を産み出す海ではない。すべて終え、枯れ果てたあとの海。


 いまにも斜陽の重さに耐え切れず、落ちてきそうな空に向かい、少女は両手を差し上げる。


 


  光、あれ――



 

 はっと、少女は目を覚ました。


 そこは自分の部屋だった。

 夏でもないのに、寝巻きもシーツも湿っていて、気持ち悪かった。


「着替えなきゃ……」


 カーテンの引かれた部屋の中は暗く、窓際に置かれたパソコンだけが小山のような影を作っていた。


 微かにドアを叩く音がした。

 立ち上がりもせず、どうぞ、と言う。


 薄く戸が開き、廊下の明かりが差し込んできた。

 だが、それは一瞬だった。


 辺りを憚るように、すぐに戸は閉まる。


「廊下、誰も居ないの?」

「今日は会議の日ですよ」


「たいした話し合いでもないのに、長いこと」

 嘲るように少女は嗤う。


 傍に来た彼は、少女の横に腰掛ける。

 黙って見上げると、腕に触れてきた。


 ネグリジェが湿っているのに気づいたのか、また―― 何か夢を見られましたか? と問う。


「あんまり、いい夢じゃないわね。もっとも、どっちが夢だか、私にはよくわかんないんだけど」


 彼は他の部分には触れずに、ただ、唇だけで触れてきた。


 囁くように言う。

「……こっちが現実ですよ」


 現実?

 そうだろうか。私には、世界が滅びたあのときよりも、今の方が悪夢に思える。


 何もないこの世界の方が――。


 永遠に目覚めることのない悪夢。


 少女は自分を抱き寄せる男に身を寄せた。


 もう一度、この世界が消えても、私はもう人類を助けない。


 唇を僅かに離して、少女は言った。


「……滅びてしまえ」



 

 目を覚ますと、今までとは違う、確かな夜気のようなものを感じた。


 やっぱり、これが現実か。


 溜息を漏らしたとき、微かな啜り泣きが耳を打った。

 少女が起きたのを感じて、堪えようとしたようだが、うまくいかず、しゃくりあげていた。


 ひとつ息をつき、呼びかける。


「おはよう、薫。

 ――いい夢見れた?」


 びくりと窓際の影が震え、泣き声が止まった。



 

 子どもの頃。

 一度だけ人の夢を盗み見た。


 その夢が恐ろしくて、私は母の背に縋って眠るようになった。


 私があの人に縋るようになったのも、あの人の中に母の背に似たものを感じたから。


 だけど、あの人の側に居ても、私が癒されることはもうないのに、どうして、離れることができないんだろう。


 助けてください、神様。

 祈るようにそう思うけれど、その言葉に意味はない。


 だって、私をこの地獄に堕としているものこそ、神なのだから――。










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