ふたつめの道祖神
まさか、本当にやるとは思わなかった……。
畦道にしゃがんで、男は急斜面の下の川で遊んでいる少女たちを見下ろす。
山から吹き降ろす風が川を渡り、強い水の匂いを男の足許まで運んできていた。
深雪が両手にハヤらしきものを掴んでいる。まどかたちの歓声が上がった。
「深雪さん、凄いっ」
少女は純粋に感動しているらしく、痛いくらい手を叩いている。
こんなことしてるんなら、帰ればいいのに。
組織に帰っても、何が楽しいわけでもないが、少なくとも、いつも居る場所だ。
落ち着く。
手持ち無沙汰ぎみの男には、世間の男たちが、煙草が吸いたくなる心境というのがよくわかった。
立花さんめ、俺に子どもの世話を押し付けやがって。
そう思ったとき、頭にふわりと影がかかり、なにかが載った。振り向くと、長いスカートを揺らした薫が立っていた。
「日射病になりますよ。
ちょっと格好悪いけど、どうぞ」
頭に手をやると、農作業に使う鍔の広い帽子が載っていた。
幾つも持って来たらしい帽子を手に、薫は下に向かって叫ぶ。
「お嬢さん、お忘れになってたお帽子お持ちしました。
深雪! まどか! 帽子被ったら?」
「あ、ごめん薫。待って、これバケツに入れるから。きゃっ」
まどかの手が滑り、ハヤが川に落下する。
まどかに文句を言いながらも、深雪はハヤを追いかけて、川を走る。
「深雪、気をつけないと。その辺、藻で滑るわよ」
親のように注意をする薫を見ながら、男は笑った。
「薫さんって、みんなのお目付け役なんですね」
微笑ましくて男は言ったのだが、薫は恥ずかしそうに手を振った。
「困ってるんです。みんな、あの調子だから、私一人、小言ババアあみたいで」
『小言ババア』という言葉が、愛らしい薫に全く似合っていなくて、男はまた笑った。
それにしても、どうして、薫一人がこんなに落ち着いているのだろう。
母が少女を殺しかけたという家庭環境のせいかもしれないし、元々の性格のせいかもしれないが。
まどかや深雪に共通して見られる人懐っこさや、明け透けさは薫にはない。
この長閑な田舎の生活の、何が彼女を大人にしたのだろう。
そう思ったとき、ふと少女の姿が頭を過ぎった。彼女もまた、子どもであって子どもでない。
薫と違い、普段は子どもっぽいのだが、何かの拍子に、ざわりと肌が泡立つほど大人の女の顔を見せる。
少女は中三、薫は高二。
どちらもまだ、あどけなさだけで生きていける年のはずだ。なのに、何故―?
そのとき、ふいに薫が口を開いた。
「お嬢さんの側に居ると飽きないでしょう」
まあ、確かに、飽きるような暇は与えてくれない。
「……疲れますけどね」
ついそう洩らすと、薫は笑う。
「でも、お嬢さんたってのご希望で、ボディガードにつかれたって聞きましたけど」
「よくご存じですね」
そのことは、自分たちと当主、あとはせいぜい、直接あの事件に関わった者しか知らないはずだった。
ええ、と薫は落ち着きなく、目を動かす。
「実は―― 立花さんに聞いたので」
なるほど、と思っていると、薫は小さく手を合わせた。
「あの、私がうっかりしゃべってしまったこと。立花さんには黙っていてくださいますか?」
合わせた手の上から縋るように見上げたその眼つきに、やっぱり、この人が犯人だという説は却下だなと思った。
そんな回りくどいことをしなくても、彼女に頼まれれば、立花だとて、ほいほい会いに来てしまうに違いない。
いいですよ、と男は笑いながら言った。
「それに、だいたい立花さんとそんな話しませんから」
そうなんですか? と薫はちょっと不安そうな顔を覗かせた。
「あんまり、あの人と個人的な話することないですしね。だって、薫さんと付き合ってることさえ知らなかったんですから」
「もしかして……嫌われてます?」
恋人らしい心配をして、薫は訊いた。
「とんでもない。信頼されてますよ。
その余計なことを言わないところがいいんですよ。人の悪口も絶対言わないし」
ちょっと融通きかないけど、と心の中だけで付け加える。
「でも、さすがの立花さんも恋人には秘密の話とかもするんですね」
信頼しているのだろうという意味を込めて言ったのだが、薫は曖昧に微笑んだだけだった。
会話を打ち切るように立ち上がる。
「あの、みんな上がらないみたいだから、冷たいものでも持ってきますね」
まどかたちが被らなかった帽子を男の脇に置き、細い畦道を御堂邸に向かって戻っていく。
その後ろ姿を見ながら、あまい薫の空気から逃れて、少し冷静になった男は思った。
例え恋人にでも、あの立花がそんな話をするだろうか。
少女とのことは、機密事項になっているはずなのに。
足許の帽子は鍔が広いのが災いして、ふわりと風に浮かび上がった。
川に向かって滑るように落ちていくのを、男は、ただ目で追っていた。
「でねー、でねー、深雪さんが、どんこをたくさん獲ってねー」
「はいはい、わかりましたから、さっさと足を洗ってあがってください」
こういうところで遊ぶのは、本当に初めてだったらしい少女は、御堂邸に戻っても、多少興奮気味だった。
こうしてると、ちゃんと十五の子どもに……いや、もうちょっと幼く見えるかな。
そんなことを思っていると、縁側に腰を掛け、濡れた白い脚を拭いていた少女が言った。
「あ、家の中にも道祖神がある」
男が視線の先を追うと、離れの影がかかっているところに、ぽつんと石の仏のようなものがあった。
庭木の陰にもなっていて、ちょっと見えにくい。
それは、まどかの家の前にあったものと似ていた。
「なんで家の中にあるのかしら」
「珍しいんですか?」
「言ったじゃない。道祖神って、そこから先へ魔が入ってこないように村の境とかに祀られるものだって」
少女はそこにあったサンダルを引っ掛け、道祖神に近づいていく。
「道祖神は、村の境を守る神であると同時に、この世とあの世の境を司る神でもあるわ」
生者と死者を繋ぐ神。
少女は、石に刻まれた男女二体の像を見下ろす。
日影になっているせいか、苔生してはいたが、これもまた、そんなに古いものとは思えなかった。
「あんた、猿田彦って知ってる?
天孫降臨のときに、道を塞いで行く手を阻んだ神よ。
そのあと、天宇受売神に魅せられて、道を開き神を先導する、猿にも似た赤ら顔の異形の神ね。
祭りのとき、猿田彦の扮装をした人が先頭に立って歩いたりするから見たことあるかもね。
猿田彦はそのうち、庚申の思想と相まって、三猿の姿で道に祀られ、道祖神と混同していった」
少女は自分にこそ道を開けというように、石像に向かって手を広げる。
そのとき、後ろから声がした。
「道祖神でも、こういう男神と女神の並んだ双体道祖神は、性の守護神ですね。その力で境を守ると言われていますが」
振り返ると、いつ戻ってきたのか、立花が立っていた。
「これ、新しい像にしては珍しいわよね。二人が正面向いて、ただ立ってるだけなんだもの。
だいたい、こういう形式は、製作年代が古いものが多いでしょう?」
そうなんですか、と男は問う。
「普通、勺をしてるとか、握手してるとか、抱きあってるとか、何かあるんだけどね。
だって、二人の仲むつまじさで、悪霊を追い払うわけでしょう?」
言いながら、少女は像の裏を見ようと上体を伸ばす。その動きが止まった。
彼女の目はそこを凝視している。
「どうかしたんですか?」
「――昭和四十七年建立」
……四十七年、とその場にしゃがんだ少女は、口の中で繰り返した。
「何か問題でも?」
と男が問うと、いや、と言いよどむ。
男は、少女の手が横に座る立花の膝に触れているのに気がついた。
立花が少女を見る。少女は、それに気づいたように、ふっと手を離し、立ち上がった。
「さて、と。
綾子さんがお待ちかねのようだから、お昼にしましょうか」
御手洗いから出てきた少女は、御堂の裏庭から、微かに夾竹桃の匂いがしているのに気がついた。
裏の廊下の小窓から吹き込むその香りを深く吸い込む。
ふと見ると、その小窓だけが新しい。
なんとはなしに振り返ってみると、開け放たれた幾つもの襖を越えて表の庭が見えた。
そこには、あの道祖神があった。まっすぐこちらを見ている。
「もしかして――」
少女はスカートのポケットから、小さな丸いプラスチックのケースを出した。
それは彼女の掌で、ゆらゆらと針を動かしている。
「やっぱり……」
少女は小窓から外を覗いた。
シダの垂れ下がる横穴が見える。
「あれは、綾子さんが西瓜を冷やしてた横穴?」
「お嬢さん」
ふいに掛かった声に、少女はそれを取り落とした。
プラスチックのケースが床にぶつかり転がる。
薫の目がそれを追う前に素早く拾い上げると、ポケットに突っ込み笑顔を作った。
「なに? 薫」
「あの、今日、帰られるって立花さんに伺ったんですが」
「そうみたい。
悟が戻ってから、今度は自分が来るって言ってるわ。
まあ確かに、すぐに儀式をしないのなら、私が居る意味はないしね」
「お嬢さんはまだ帰られたくないんでしょう?」
「そうなんだけど。
立花がさっさと宿も引き払っちゃったしさ」
「此処に泊まられればいいじゃないですか」
残念そうに言う薫に、少女は冗談めかして言う。
「じゃあ、薫。
立花に言って、引き止めてくれる?」
「――いいですよ」
まさか頷くと思っていなかった少女は笑顔を止めた。
「私、立花さんにお願いしてみます。
どうしても、お嬢さんにもう一晩居て欲しいと」
薫は思い詰めた顔で少女を見上げて言った。
「お嬢さん。
今夜、私と寝てください――」
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