ふたたび旅館2

 

 露天風呂は満天の星空だった。

「すごーい。蛍みたい」


 思わず声を上げた少女に、低い声がかかる。


「へえ。貴方にしてはいいこといいますね」

「なによ。まるで情緒がないみたいに……」


 言いかけて、はた、と少女は気づいた。

「ちょっとあんた、何処に居るのよ!」


 岩のところに立っていた少女は、じゃばじゃばと中に入っていくと、男風呂との境になっている高い竹柵を蹴った。


 ははは、と男の笑い声がする。


「他に客がいたらどうすんのよ」

「じいさんばあさんしか居なかったじゃないですか。

 立花さん、御堂に行っちゃったし」


 そりゃあそうだけど、と言いながら少女は竹柵の側に腰を下ろした。


 濡れた岩の上に座り、足だけ浸ける。

 湯は、ちょっとぬるめだが、外が暑いのでそれでも悪くはなかった。


 源泉を沸かさないまま引いているのだと女将が言っていた。


 湯越しに見ると、足が特別白く見える。

 傍に浮いていた葉屑が湯の流れにそって、遠ざかっていくのが見えた。


「そういえばさっき、立花さん、妙なこと言っていましたね」

「妙なことって?」


「貴方が悟をどうにかしたんじゃないかって。何故です?」


 探るようなその口調に、ああ……と少女はお湯を蹴った。

 飛沫が散って波紋が起こる。


「さあね。どういう意味かしらね」


「……別に貴方と腹を割って話せる仲になりたいとも思いませんが。

 こういう他からの助けがない場所で、秘密を持つのはやめてくれませんか?」


 自分まで巻き添えを喰らうと男は言った。


「立花は私が呑気に田舎の夏休みをやりたがってるとでも思ってるんじゃないの。

 儀式終わらしちゃうとさっさと帰らなきゃいけなくなるから」


「それだけで人ひとり誘拐しますか?」


 いい加減な態度の少女を責めるように男は言う。

 だが、そこで調子を崩すような女ではなかった。


「だって、せっかくこんな遠くまで来たのにさ。

 まだ山登っただけよ。


 あと、虫取って、川で遊ばないと」


 あのねえ……と、男は溜息を返す。


「ねえ、見て。

 月、奇麗よね」


 男には見えないとわかっていて、指で天を示した。


「あんた、天体望遠鏡でクレーター見たことある?

 あれって凄くはっきり見えるじゃない。


 何十万キロも離れたところにあるものなのに。


 あれ見てるとさ。

 どんな夢みたいなことでも本当に起こるような気がしてくるのよ。


 手の届かないものが、すぐそこに見える瞬間―― あんたにわかる?」


 同意を求めるように少女は問うた。

 男からの返事はない。


 月を見上げる。

 裸眼ではぼんやりとしか感じられない白い円。


 それでも、そこに浮き上がる灰色の模様が見える気がして、少女の心は不思議に落ちついた。


 そのとき、ないと思っていた返事があった。


「……そうですね」

 少女は月を見たまま、微かに笑う。




 客室がないせいか、一階の廊下の明かりは、ほとんど落としてあった。


 玄関のところだけが、ぼんやりと明るい。


 幾ら客が少ないからってな……。


 男は最初、二階の自動販売機に行ったのだが、なんと、コンセントが引き抜いてあったので、仕方なく一階まで降りた。


 確か、玄関先にひとつあったはずだと向かうと、どうにかそこだけは生きていた。


 静かなロビーに珈琲の缶が落ちる音が響く。


 ――何を隠している? お嬢。

 どんな手段を使っても此処へ来たかった訳。

 そして、少女がそうすると知っている人物。


 御堂悟が消えたカラクリさえ、本当は何もかもわかっているのではないか、あの聡い女には。


 そう思ったとき、男の脳裏に、あの、ドットの荒い人形が浮かんだ。


 『DOLL』


 それは、古いPC―98のディスプレイの中で、くるくると回っていた。


 あれは誰も居ない少女が、誰も居ない自分のために造った仮想の家族だった。


 それがいつ造られたものなのか。

 少なくとも、その時点でも、少女はまだ子どもの年だった。


 ベッドの傍に置かれたパソコンの中で、DOLLは回る。


 朝になると、おはよう、と言い、夜になるとおやすみ、と言う。


 誕生日には、ケーキに蝋燭を立てて祝ってくれる。


 なにより男を打ちのめしたのは、DOLLの顔が少女自身だったことだ。


 どんなに煩雑なつくりでも、それだけはわかった。


 それほどに、彼女には心を許せる相手がいなかったのだ。


 自分で自分に手を叩く少女を見たとき、男は言葉が出なかった。


 自分が憎み続けてきた人間の孤独。


『私と一緒に来る――?』

 あのとき彼女が差し伸べた手を、どうして自分は取ってしまったのか。


 戸籍を失い、真名を持たない人間になってまで。


 冷たい缶を開け、行こうとして立ち止まる。

 暗がりに強い光を放つ自販機を振り返った。


「あの人、珈琲駄目だったっけ……」











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