御堂邸
「ちょっとこう陰惨な感じですよね」
「人んち見ながら、なに失礼なこと言ってんのよ」
御堂邸の裏山は、木の生い茂る急斜面で、今にも落ちてきそうだった。
山陰の気を集めたかのようなその家も、さっきまでの日差しに照らし出された田園の面影もなく、湿った木の香を此処まで放っているかのようだった。
玄関脇の水道の前に、白いニットを着た女がしゃがんでいた。自然にウェーブを描き、肩を流れる明るい色の髪。
深雪たちと違い、日焼けなどしていない白いふっくらとした手が、地面に置かれた金魚鉢に餌を振っていた。
「薫!」
陽気な深雪の声に、彼女は振り返る。
長い睫にガラス玉みたいな茶色い瞳。唇の色は、リップを塗っているわけでもないのに、透き通るような桃色だった。
「お嬢さん?」
薫は少女の姿を認め、眉をひそめた。
「ごーめんごめん。立花、直前に腹痛起こして来られなくなっちゃってさ。急遽、ピンチヒッター」
腹痛? と言いかけ、まどかたちの存在に気づくと、
「ありがと。お嬢さんたち案内してきてくれて」
と言う。
「いやいや、いいってことよ」
と深雪は、にやにや笑う。
「じゃあ、私たちプール行くから。またねーっ」
そう言って、やけに素早く庭を出て行った。
まどかは、あちらとこちらを見比べたあとで、慌てて頭を下げると、深雪の後を追いかけていく。
屋敷の中は、全ての戸も襖も開け放たれ、風通しがよかった。
昔の建物特有の薄暗さもまた、陰惨さよりは、涼しさを感じさせるものへと変わっていた。
何処からか聞こえてくる振り子時計の音が聞きながら、少女は脱いだ帽子を手に廊下を歩いていた。
「あの、立花さんが腹痛って……」
先導する薫が遠慮がちに振り向く。
本来、此処に来るべきだったのは、男の上司であり、この地区担当の立花だったのだが、急病のため、少女たちがピンチヒッターで来ることになったのだった。
ああ、と少女は笑う。
「心配するほどのことじゃないわ。あれも人の子だったってことでしょ?
なんだったら、お見舞い行ってきたら? 此処で待っててあげるわよ」
そう言うと、
「べ、別に、関係ありませんっ。こちらでお待ちください。すぐに母を呼んで参りますので」
と二間続きの広い部屋を少女たちに示し、足早にそこを去っていく。
「ふふん、可愛いわね」
それを見送り呟く少女に男が問うた。
「あの、薫さんの方が貴方より年上だってわかってます?
っていうか、薫さんって、もしかして立花さんが好きなんですか?」
はあ? と少女は振り返る。
「なに言ってんのよ。付き合ってんのよ、あの二人」
「あの立花さんとですか!?」
あのって何だ? と思っていると、
「だってあの人、いっつも、しかめつらしい陸軍の青年将校みたいな顔して―」
と言う。
思わず少女は噴き出した。立花という男を表すのにこれ以上の表現はなかったからだ。
「恋愛なんかするほど、マメでも気がきいてるようでもないんですけど」
男のその言葉に、少女は、
「あんたもまだまだね」
とその鼻先を指で弾く。
何がですか、と言いながらも、男は鼻を押さえ、赤くなった。
二人が通された部屋に座り、庭を見ていると、静かに襖が開いて、目鼻立ちのくっきりした美女が入ってきた。
桔梗色の着物を着、乱れなく髪を結い上げているその女が、御堂悟の妻、綾子だった。
綾子は上座にいる少女たちの向かいに腰を下ろすと、薫がお茶を配るのを待って、口を開いた。
「お久しぶりです、姫宮様」
一応手をつき、頭を下げるが、どちらが次期当主だかわからない威厳があった。
「せっかくいらして頂いてなんなんですが、悟は今いません」
「今、いません?」
さすがの少女も身を乗り出して、訊き返す。
「なんでも、急に出張になったらしくて」
不敬とも取れるほど鷹揚なその口調で、詫びるでもなく言う。
「いや、出張ってね……」
一生に一度、いや、二度の儀式だ。
幾ら表向きの職業があると言っても、そんなことあっていいものだろうかと思ったのだが、綾子は一向に気にする様子もない。
「二、三日待っていただくようになるかもしれません。
立花さんがいらっしゃるんだろうから、まあいいかと思ってたんですが。姫宮様では困りましたね」
「厭味ですか?」
唯一、当主直系の孫娘であるにも関わらず、これといった力を持たないせいで、未だ立場のはっきりしない少女が、立花よりも暇なことは本家の池の鯉だって知っている。
「では、お泊りになるお部屋をご用意致しましょう」
と立ち上がりかけた綾子を、少女が制す。
「あ、いいです。旅館取ってますから」
「この家には泊まりたくないということですか?」
「そっ、そんなこと誰も言ってないでしょう」
流し目をくれた綾子の前で、少女は、まさしく蛇に睨まれたカエルだった。
男が、この女、なんでこんなに怯えてるんだ? と言わんばかりに主人を見遣る。
「近くの旅館に露天風呂があったから。入りたいなあと思っただけで、他意はないです」
綾子は一瞬、物言いたげな顔をしたが、すぐ、そうですか、と立ち上がる。
「まあ、夕食はこちらでお召し上がりになるといいです。旅館の方には連絡しておきますから」
そう言うと返事も聞かずに、さっさと部屋を出て行ってしまう。
仮とはいえ、次期当主を前に、あっと驚く傍若無人さだった。
少女は彼女の消えた廊下を見ながら呟く。
「相変わらず、迫力のあるお母さんで……」
す、すみませんっと薫は我がことのように頭を下げる。
いやいや、慣れてるからと笑いながら、少女は膝を回し、彼女に向き直った。
「それよりさ、薫。
どうしてまた、急に番人を継承しようなんて話になったの?」
「何か不都合でも?」
と薫は不安気に瞳を瞬かせる。
いや、と少女は曖昧に笑った。
「実は、まだちょっと早いかなって話があったものだから」
本当は結構な反発があったのだが、少女は薫の気持ちを
薫はまだ高校生だ。
これから他所の大学に出るかもしれないし、結婚して他の土地に住むかもしれない。
そんな先のわからぬものに番人を任せるのはどうかという意見が優勢だったのだが。
悟が忠誠心厚い男であることが幸いし、当主が当人たちの意向を汲む形に落ち着かせたのだ。
そうだったんですか、と少女の口調に事態を察したのか、薫は俯きがちに呟く。
「まあ、私は薫ほどの力があれば、問題ないと思うんだけど」
そう付け加えた少女に、ありがとうございます、と頭を下げたあとで薫は言った。
「たいした理由ではないんです。父の仕事が最近忙しくて。できれば代わって欲しいと言われたので」
「……確かに、忙しそうね」
少女の言葉の内に含まれたものに気づき、すみませんっ、と薫は再び頭を下げる。
「ああいや、厭味じゃなくてさ。仕方ないよ。こっちが本業じゃないんだから」
二人はしばらくお互いの近況などを話していた。
その間、男は暇そうに、庭など見ながら茶を飲んでいた。
「―でも、懐かしいね。私たちが最初に会ったのって、此処だったよね」
そう言いながら、少女は立ち上がり縁側に向かう。
山から吹き降ろす風が此処を通るので、とりわけ涼しい。
そうでしたね、と感慨深げに薫も頷く。
二人の少女の瞳が、同時に片隅にある松の陰を見た。
「お茶、ぬるくなりましたね。入れ替えてきましょう。
今度は冷たいのにしましょうか」
そうね、と柱に手をつき、少女は振り返る。
「ついでに、外の二人にも持ってってあげたら?」
え? と湯飲みを集めようとしていた薫が動きを止める。
少女はうねった松の側の、苔むした大岩に向かって声を張り上げた。
「そこ、暑くありません? 深雪さん、まどかさん」
立ち上がった薫がお茶をかえす。
岩陰から、苦笑いしながら深雪が、おずおずとまどかが姿を現す。
裸足で庭に駆け下りた薫は親友二人の腕を掴んだ。
「なっ、なんでっ、どうしてっ!?」
深雪は悪びれもせず笑って頭を掻く。
「ごーめんごめん、まどかがどうしてもってー」
「あ、ひどいっ。深雪が行こうって!」
薫は二人の手を掴んだまま、崩れ落ちるように座り込む。
一族内部の話を随分としてしまっていたからだ。
「薫ごめんーっ」
「しっかりして、薫~」
縁側から三人を見ていた少女は男を振り返り、睨んだ。
「あんた、気づいてたんでしょう?」
いいえ、全然、と男は素知らぬ顔で、最後のお茶を飲み干していた。
少女に導かれ、まどかたちは座敷に上がっていた。
まどかは緊張のあまり硬くなっていたが、深雪は未だ全てを笑って誤魔化そうとしていた。
「さあって、どうしましょうかねえ」
そんな彼女に、多少事態を察しているらしいまどかは手をすり合わせ、懇願する。
「お願い、お嬢さん。
誰にも言いませんから、殺すとか言わないで」
「やだなあ、殺すだなんて、せいぜい記憶を消すくらいですよ」
少女は、こいつが一番わかっていないのでは? という顔で笑いながら言った。
何処がせいぜいだよ、おい、と男ならずとも突っ込みたくなるところだったろう。
だが、深雪はこの期に及んでまだ、抗議の声を上げていた。
「えーっ。消しちゃうんですかー!?」
それを受けた少女は、ファミレスの如き愛想のよさと気軽さで訊いた。
「じゃあ、深雪さん、記憶消されるのと命消されるの、どっちがいいですか?」
その笑顔に、お飲み物は珈琲になさいますか? 紅茶になさいますか? という幻聴が聞こえたほどだ。
それが返って怖かったらしく、深雪がついに泣きを入れる。
「後生だから、お嬢さ~ん」
だが、少女は何処までも軽く、手を振った。
「だーいじょうぶですって、深雪さん。
記憶消したら、消されたことさえ忘れますもん」
この、ひとでなし……と男が思っていると、そうですねえ、と少女は顎に手をやり、ちょっと考える素振りをしたあとで、
「じゃあ。私たちが滞在してる間は消さないでおいてあげてもいいですよ」
と恩着せがましく言う。
ほんとですか! とすぐに話に乗った深雪が身を乗り出した。
「此処のご主人が帰ってくるまでの間、暇つぶしの相手をしてくれるのなら」
「じゃあじゃあじゃあっ、その間お役に立てたら、記憶、消さないでくれますか?」
大胆にも、深雪は少女に取り引きを持ちかける。
少女は愛想がよすぎて何を考えているのかわからない顔で頷いた。
「……いいですよ」
「やったあっ」
深雪がまどかに抱きつく。
まどかは口許に僅かに笑みを見せながらも、まだ不安を消せないでいるようだった。
お嬢さん、ちょっと、薫が立ち上がる。
「いいんですか?」
襖の陰で薫は言った。
「いや、よかないけどさ」
薫は頬に手をやり、溜息を洩らす。
「お嬢さん、どうして止められなかったんです?
もっと早くから気づいてらしたんでしょう?」
「だって……あんまり楽しそうだったから」
噴き出した少女に、薫は仕方のない子どもを前にしたように軽く睨んで見せる。
「笑い事じゃないんですよ」
「だーいじょうぶだって。
薫の友達でしょ? 信用してるから。
それに何かあれば本当に記憶消しちゃうもの。
ああ、でも、立花には黙っててよ、あいつ煩いから」
急に出したその名に薫は詰まり、眉根を寄せる。
「仕方ありませんね。
でも、不測の事態が起こった場合には、立花さんにご報告致します。
それでよろしいですね?」
うん、と少女は頷く。
これでは、どちらが上だかわかったものではない。
それにしても、お嬢さん、と薫は話題を変えた。
「どうして旅館だなんて。
此処に泊まられたらよろしいのに」
「私、他所のお家だと緊張して寝られないのよね」
「また、嘘ばっかりおっしゃって」
可愛らしく拗ねてみせる薫の仕草が、まるで不実な恋人を責めているようで、少女は笑った。
「そうだね、昔みたいに枕を並べて寝たかったね」
その言葉に薫が表情を止めたとき、襖の向こうから男の泣きそうな声がした。
「お嬢~、何処行っちゃったんですかあっ」
実は、さっきから男が深雪たちに質問攻めにあっているのをわかっていて、放置しておいたのだ。
そろそろ助けてやるか、と行こうとしたとき、薫が手を引いた。
なに? と振り返ると、薫は目を逸らす。
「いえ、なんでもありません」
「……薫?」
はい、と薫はゆっくり手を離し、目を上げる。
その顔を見て、少し迷ったあとで少女は言った。
「あの二人に、あれと私が名乗れないの、誤魔化しておいてよね」
薫は頷いた。
本当に言いたかったのはそんな話ではなかったのだが。
少女には名乗るべき名前がない。
生まれたときから、微妙な立場にあった孫娘の名前を当主は明かさなかった。
故に、少女は漠然と『姫宮』或いは『お嬢さん』と呼ばれている。
そしてまた、それとは違う理由で、男にも名前がなかった。
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