週末、博物館にて。
リス(lys)
前編
館内に入り、まず目に飛び込んできたのは巨大なティラノサウルスの化石。
「うわ、……こんなに大きいんだ」
初めて恐竜の化石を見た私は、その大きさと恐ろしさに圧倒される。更に恐怖を演出する、半身だけを照らすライトアップ。
恐竜のことなんて何一つ知らない私でも、ティラノサウルスぐらいは知っていた……つもりだった。
巨大な頭、肉を切り裂くための鋭い牙、太い脚の骨。もう何千万年も昔に死に絶え決して動くことはないと分かっていても、本能的に恐ろしさを感じるフォルム。
きっと哺乳類の遺伝子レベルで組み込まれた恐怖なのだろう。
「迫力、ありますよね」
彼が静かながらも興奮が抑えられない口調で、目を輝かせて見上げている。
彼とは職場の同僚だが部署が違い、あまり話したことはなかった。たまに休憩室で会えば世間話をする程度。お互いに社交的な方でもない。だから彼が恐竜や生物に興味があるなんて全く知らなかったし、私は興味がなかったからこの博物館に来たことも無い。
いくら興味がない私でも本物を見ると……結構興奮する。元々好きだった人ならば尚更だろう。
「ここにはよく来てたんですか?」
「いえ、大人になってからは全然。……子供の時、遠足とかで来ませんでした?」
「あぁ、私、出身は遠い県外なんですよ。就職でこっちに来ただけで。」
「……そうだったんだ。僕は出身は隣の県なんですけど、この辺りの子供は遠足でバスでここに来るんですよ。」
私達はお互いの出身地も知らないぐらいの仲だった。それがこうして、今日ふたりで博物館に来ているのがなんだか不思議だ。
金曜昼間の館内には、会社帰りのスーツ姿の彼と、私しかいない。
他愛ない会話をしながら、足音を響かせて館内を回る。
壁際に、巨大な魚の頭のような骨の展示を見つける。
「ダン……ええと……?」
プレートに書いてある名前が難しい。
「ダンクルオステウス。これは、恐竜よりもっとずっと昔の時代の魚です。体の後ろ側は軟骨だったとも考えられていて、こうして頭の骨しか化石として見つかってないんです。だから彼らの姿形は、本当のところは分からない」
……なるほど。詳しい。
「……あれみたいですね。石板に刻んだ文字は何千年も残るけど、パソコンなんかの記録媒体だとすぐ情報が失われる、みたいな……?」
彼がこちらを見て、「ふふ、そうですね」と笑みを浮かべて言う。自分が的外れなことを言っていることはわかった。恥ずかしくて、「あっちも見ましょう」と足早に奥へ進む。はい、と楽しげな声で返事をしながら、彼がついてくる。
ティラノサウルスよりも更に巨大な恐竜たちの群れ。首が長いもの、角が大きいもの、背中にトゲがあるものなど様々だ。見上げすぎて首が痛くなる。
「アルゼンチノ……サウルス。……アルゼンチン?」
「そうです。アルゼンチンで化石が発掘された。恐竜の名前は、発掘場所や発掘者の名前がつけられることも多いんです」
よし。なんとか会話についていけている。
「日本だと、福井県などで化石が発掘されていて。フクイティタン、フクイラプトルと名付けられた恐竜もいる。ティタンは英語名だとタイタン。神話で巨人のことです。ラプトルは、略奪者という意味。それから……鈴木さんが発見したフタバスズキリュウとか。これは正確には恐竜とは違うみたいなんですが。このグループは首長竜といって、……」
……こんなに饒舌な人だったとは。彼の説明をなんとか理解しようと一生懸命聞いていると、彼がハッ、と気付いたように口を手で覆う。
「…………すみません。ひとりでテンション上がってしまって……」
バツが悪そうに顔を背けてしまった。耳が、赤い。
思わず、ふふ、と笑って答える。
「いえ、聞いてて楽しいですよ。ちゃんと理解できてるかはわからないですけど……」
「……ちょっと、舞い上がってるみたいで……」
大きな手で顔を覆ってしまった。……そんな反応をされると、こっちも照れる。
「……次行きましょう。あっ、恐竜だけじゃないんですね、ここ……」
お互いにギクシャクした動きで、誰も居ない館内を更に奥へ進む。
進んだ先は、恐竜ではなく動物の剥製ゾーン。ホッキョクグマやペンギン、アザラシなど様々な動物の剥製や、巨大なクジラやサメなどの骨格標本が展示されている。
「クジラは好きですよ。私小さい時から、漠然とシロナガスクジラに生まれ変わりたいと思ってたんです」
「それは、……なかなか珍しいお子さんですね。なにか理由が?」
彼がくすくす笑いながら聞いてくる。
「理由……。多分なにかで世界一大きい生き物だって聞いて、いいな、と思ったのかも……?」
「……大きい生き物、かっこいいですよね」
彼がニコリと微笑みながら私を見つめる。
……こんなふうに、優しく笑う人だったんだ。動揺してしまって思わず目を逸らす。
クジラの骨格標本を見ながら彼が言う。
「クジラって、進化の過程で一度陸に上がって、また海に戻ったって知ってました?」
「へぇ。……陸、嫌だったんでしょうか」
フフッ、と彼が静かに笑う。
「……そうですね。嫌になったのかな」
「でも、偉いですね。ちゃんと海に戻って」
「偉い?」
「だって、……無理して陸に居続けたら、絶滅してたかもしれないじゃないですか。陸に執着しないで……さっさと見切りをつけて、新天地を目指した。まぁ、もともと生き物が発生した海に、逆戻りしちゃったのかもしれないけど」
「…………なるほど」
彼が今度は笑わずに、少し目を見開いて私を見る。
……なんかまた的外れなことを言ってしまったんだろうか。
顎に手を当て、ウンウン頷いてから彼が話し始める。
「……進化って、生物が自分で進みたい方向に変化したように思われるんですけど、それも実は違うらしくて」
「そうなんですか?」
キリンは高いところの葉を食べたいから、首が伸びたのだと思っていたけど。
「はい。生存競争のなかで、たまたまその個体が生き残るのに有利な特徴を持っていたから生き残れた。同じように生き残れた個体同士で繁殖して、その特徴が更に受け継がれて……。だから生物が望んでというよりは……ただの結果に過ぎないんです。ただ、偶然、死ななかっただけ」
クジラが海へ戻ったのも海に戻りたかったわけじゃなくて、ただ海の中が得意な個体が生き残れただけ。やっぱり私は的外れなことを言っていたようだ。
「でも……執着しないで新天地へ、っていうのも、面白い表現だなぁと思って」
「え?」
「進化は、別に優劣でもないし、意志でもない。淘汰と適応を繰り返して生きる場を変えただけ。それでも、外から見るとまるで新天地に……その種にとっての楽園にたどり着いたんじゃないか、と思わせてくれる。だから、……あなたのその表現、僕は好きです」
彼がふわりと笑って言う。
なんだか照れくさくて、「そうですか……?」と言いつつ顔を逸らす。
展示ケースの中の剥製と目が合う。数多くの、様々な種の剥製たちが佇む。まるで、みんな生きているかのような姿で。
「剥製って凄いですよね。まだ生きているみたい」
夜中に目を光らせてホーホー鳴くフクロウ、獲物目掛けて降り立ったばかりの猛禽類、今宵の糧を見つけてゆっくり忍び寄るジャガー……。
命を終えても生きていた瞬間を切り取り、いつまでも残る。物理的に崩壊するまでは。
「……あなただったら嬉しいですか? こうして、生きたままの美しい姿でずっと残り続けるのって」
彼が優しく微笑みながら私に問う。
……考えたこともなかった。
「う〜ん……。人間も昔からミイラを作ったりするし……死に化粧だってする。それに……綺麗に写真を撮って大事に残しておくのも同じなのかも知れないですね。生きていたときのまま、ずっとそのまま残したいっていう願望が人間にはあるのかな」
彼は頷きながら聞いている。
「私だったら、そうですね……ふふ、どっちでもいいです。死んだ私にはもう関係ないことなんで」
私が笑いながらそう言うと、彼はすこし呆気に取られた顔になって、それから小さく「面白いな……」と呟いて、笑った。
シーラカンス、カブトガニ、オウムガイの剥製。
名前だけは私も知っていた。生きた化石たち。
「……シーラカンスは、約4億年前に地球に誕生しました。その後の恐竜たちの絶滅の時期も生き延びて、大きく姿を変えずに現在まで生き続けている」
途方もない長い時間だ。人間なんてたった数十年前と比べても、身長や顔つきが変わってきているというのに。
「さっきの、進化はただの適応の結果だっていう話からすると……この子達はもうさっさと正解を見つけちゃったんですね。生き延びるための」
彼がまた少し笑って「そうですね……本人達はそれと気付かずに」と答える。
いや……正解ってなんだろう。絶滅した生き物は、生き方を間違っていたのか? 不正解を選んで絶滅した種族は、本当に不幸だったんだろうか。
生き方を正解不正解で外から論じるなんて、
……傲慢だな。
「正解、というより、ええと……じゃあこんな考え方はどうですか?」
彼が軽く首を傾げてこちらを見る。
「神様が、この子達の姿だけを気に入ったんです。だからこの子達だけが姿を変えずに生き続けられるように、地球の気候を操作してきた。他の生物は、別にどうなってもよかった」
彼が「神様、酷いな……」と言いながら、下を向いて肩を震わせて笑う。
「……酷いですよね、神様って」
私も彼と一緒に笑った。
きっと神様は、……人間のことも別にどうなってもよかったんだろう。
最後は昆虫の標本エリア。
色とりどりの蝶。様々な種類のカブトムシやクワガタ。名前も知らない虫。
「虫、苦手ですか?」
彼が私を気遣うように言う。
「苦手は苦手ですけど、まぁ……標本なら、ギリギリ……」
じっくりとは見られないけど、少し離れて見る分には……なんとかなりそうだ。
「僕も大人になってからは昔より苦手になりました。こういう人多いですよね」
苦笑しながら彼が言う。私も子供の時は虫を触れていたような気がするけど……いつの間にか駄目になった。
ふと疑問に思う。
「そう考えると……本能で恐れてるわけじゃないのかな。う〜ん……何を考えているか分からない、予想できない動きが怖いのかな。虫に意思があるのかも分からないけど……」
静寂の中、ふたりでしばらく考えたけど答えは見つからなかった。
「昆虫の標本の作り方って知ってますか?」
「ん〜、……死んでしまったら、……なにか薬品を塗って、形を整えて……?」
そもそも虫が苦手だから、標本の作り方なんて考えたこともなかった。
彼が小さく笑いながら首を振る。
「まだ生きているうちに、綺麗なうちに、薬品で殺して、針を刺すんです」
「………………へぇ」
あんまり知りたくなかったな……。私たちしかいない館内が、より一層静けさを増したように感じる。
「……私には何かを言う権利はないですけどね。私だってたくさんの蚊を潰してきた。蚊だって……たんさんの人間を殺してきた」
そこには、意思なんて無い。ただそうなってしまった結果があるだけだ。
彼がまた小さく笑う。今日の彼はよく笑い、とても楽しそうにしている。そもそも私と彼は、これまでほとんど、まともに会話をしたこともなかった。
「……もっと早く、あなたを誘っていれば良かった」
彼が、ほんの少し寂しそうな顔で微笑む。彼のそんな顔を見たのも初めてだった。
「でも、……そうしたら、今日この場所には来なかったかもしれません。私は、今日、あなたとここに来られて良かったと思ってます」
笑ってそう言うと、彼は驚いたように少し目を見開いて、それから少し恥ずかしそうにまた笑顔を見せた。
そろそろ閉館の時間。
でも今日は、退館を促すアナウンスは鳴らない。
外から爆発音が聞こえ、館内の電気がフッ、と消える。
一度は収まっていたはずの群衆の暴動、その激しさが最高潮に高まってきたのが外から薄っすらと聞こえる。
私たちは初めて、ギュッ、と手を繋いだ。
彼の手が、こんなに大きいなんて知らなかった。
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