第8話 オレンジの香り

 オーナー室へと続く廊下の先、シンプルなホワイトのシャツに、ダークグレーのベストを重ねて。そこに合わせるのはベストと同系色のズボンという、大変シンプルな着こなしをしているはずなのに様になるブロンドの男性の後ろ姿は、どう考えても私が知る中では一人しか思い浮かばなくて。


「オーナー」


 呼びかければ立ち止まって振り向いてくれたその人に、小さく頭を下げながら朝の挨拶をした。


「おはようございます。今日は早いですね――」

「おはよう、ライラ」

「――!?」


 私がオーナーから目を離したのは一瞬だったはずなのに、いつの間にか目の前にいたことに驚いてしまって、思わず言葉を失ってしまう。いい革靴を履いているはずだから、一歩でも踏み出せば音が聞こえてくるはずなのに、それすらなかった。

 けれど、この直後。さらなる衝撃に見舞われた私は、完全に思考停止したまま固まってしまうことになる。


「今日も可愛いな」

「ッ!?」


 オーナーの口から聞いたことのない声色で紡がれたのは、本当に私に向けられたのかと疑いたくなるような言葉。そもそも「似合う」と言われたことはあるけれど、こんなにも直接的に「可愛い」と言われたことは、一度もないはずで。それなのに光の加減で変化しているように見える不思議な色合いの瞳は、私を見つめながら優しく細められるのだ。


(こっ…………これっ、誰っ!?)


 あまりにも私が知っている普段のオーナーとはかけ離れすぎていて、もしかして実は双子の兄弟だったとか、そういうオチが待っているのではないかと疑いたくなってしまう。

 客観的にこの状況を考えると、私がオーナーに口説かれているようにも見える気がして。ついおかしな思考に飛んでしまったと、軽く頭を振ってそれを否定する。そんなことはどう考えてもあり得ないのだからと、自分を納得させようとして。


「ライラ」

「っ!!」


 けれど思っていた以上に近すぎる距離で聞こえてきた声に、私は再度固まってしまった。

 もはや頭が正常に働いてくれているのかすら、自分では判断できないような中。それでも名前を呼ばれたからと、そっと視線だけでオーナーを見上げてみれば、ゆっくりと近付いてきている綺麗な顔があって。


(ひゃああぁぁ!?)


 声にならない声を心の中だけで叫びながら、私は反射的にぎゅっと目をつぶる。

 そのことに何かしらの効果があるわけではなく、むしろ本当にただの反射だったせいで、意図せずして視界以外の感覚が研ぎ澄まされてしまった中。


「好きだ」


 耳元で落とされた、男性らしい低い声での小さな小さなささやきに、私は完全に限界を迎えてしまって。


「~~~~ッ!!」


 言葉にも声にもならないような、不思議な叫び声を上げながら飛び起きたのだった。


「…………ゆめ……?」


 どくどくと大きく脈打つ心臓のあたりに手を当てながら、自分の状況を把握するためにあたりを見回す。どうやらここは私の部屋の中で、外もまだ暗いということは夜中なのだろう。そして今日の出来事を思い出そうとして……。


「うっ……。そうだった、仕事中に寝落ちしちゃったんだった……」


 予定していた今日の作業が終わったらしいオーナーに起こしてもらい、さらには「疲れてるだろうから作業は明日にして、今日は帰れ」と苦笑しながら言われてしまったのだ。

 実際疲れていたのは事実だからと、ありがたく帰らせてもらって。夕食を済ませてベッドに入って、すぐに眠りについたところまでは思い出せた。というか、おそらくそこまでが全てだろう。


「うぅ……」


 夢見が悪かったというのとは少し違うが、先ほどまでの夢の内容を思い出すよりも先に耳を手で覆ってしまう。まだあの優しい声が残っているような気がして、どうしても落ち着かないのだ。


「というか、なんで私あんな夢を……!」


 ヴェルを起こしてしまわないように、小声で反省する。と同時に、目覚めた今もまだドキドキがおさまらなくて、夢の中でささやかれた耳をおさえているのとは反対の手で、もう一度胸に手を当てた。その途端、なんだか恥ずかしくなってしまって。


「うぅぅ~~……」


 なるべく小さく丸くなりながら、早く忘れようとすればするほど、なぜか夢の内容を鮮明に思い出してしまい。


(なんか……夢の中でまで、オレンジの甘酸っぱい香りがしてたような気がする)


 今日一日オレンジの香りに包まれながら仕事をしていたせいかもしれないが、逆にあの香りを思い出すたびにオーナーの顔まで浮かぶようになってしまって。結局このあとしばらく眠れなかったのは、言うまでもない。



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