第9話
自宅に着くと、いつものように笑顔でユラが玄関まで出て、出迎えてくれる。
屋敷にいるお手伝いたちが「お帰りなさい」と挨拶し、養父もお帰りとにこやかに迎えた。
表面上は、穏やかな家の風景である。
その夜、ベッドに入って一時間ほどしたころ、部屋の扉が開いた。
シザは身を起こす。
入り口にユラが立っていた。
彼は着替えておらず、昼間の服のままだった。
「ユラ」
紫水晶の瞳が揺らめく。
「……ごめん、なさい……顔が見たかっただけ……」
肩を落としてユラが自室に戻ろうとした。
シザが呼び止めるよりも早く。
一度目を閉じ勇気を絞り出すように、ユラは立ち止まってもう一度、シザの方を見てくれた。
光を望む、アメシストの美しい揺らめきがシザを見つめる。
「……たすけて」
シザはベッドから降りるとユラに歩み寄って、部屋に引き入れる。
ユラをベッドの端に座らせた。
「少し待って。すぐ着替える」
シザは言うなり、服を着替え始めた。
ユラはそっと彼の方を見る。
ノグラント連邦共和国の大学に通うようになってから、この二年ほどでシザの背は瞬く間に伸びた。
十六歳。
シャツを着た時に見えた裸の背は細身だったが、それでもユラからすれば兄の背は、ひどく大きく見えた。
「ユラのコートは?」
「……部屋の入口にかかってる……」
取って来るとシザは言って、一度部屋を出て行った。
すぐに彼は戻って来て、部屋の扉を閉める。
明かりをつけず、窓から差し込む月明かりの中だけで。
シザは自分の鞄を手に取ると、封筒を差し出した。
そしてベッドに座るユラの前に膝をつくと、弟の手を握ってその瞳を見上げた。
「ユラ。よく聞いて。
この中に、飛行機のチケットが入ってる。
【グレーター・アルテミス】に行くためのものだよ」
「……【グレーター・アルテミス】……?」
幼い頃から、狭い世界に閉じ込められて過ごして来たユラはぎこちなく、その街の名前をくちずさむ。
「そこに入ってる、手紙に全て書いてある。
【グレーター・アルテミス】のことも、これからどうするかも」
ユラは驚いて、手元の封筒を見下ろした。
「とりあえずのお金も、全部入ってるから。
これから僕と空港に行こう。ユラは先に発って、手紙に書いてある【グレーター・アルテミス】のホテルに入って、あとは何の心配もしないで待ってて。僕も後から必ず行く」
「兄さんも一緒に……」
ユラは泣きそうな表情で、シザの腕を掴んだ。
シザはユラの身体を強く抱きしめる。
「――僕はまだここで、やるべきことがある。」
兄弟の視線が交じり合った。
ユラの瞳が揺れるが、シザの瞳は揺れなかった。
「【グレーター・アルテミス】はアポクリファの街なんだ。
アポクリファしか居住権が許可されない、アポクリファの為の街。
そこでなら、僕たちは生き直せる」
シザが言わんとすることを察して、ユラは彼の肩に顔を埋めた。
「……一緒がいい。僕も兄さんと一緒にいる」
「だめだ。これ以上……あいつのことでユラを苦しめたくない」
「……、」
「すぐに僕も【グレーター・アルテミス】に向かうから。心配しないで。ユラ。待ってて」
「……僕のこと、ひとりにしない……?」
シザは涙を零したユラの瞼の上に、そっと口づけを落とした。
想いを込めた――それは誓いの印でもあった。
「しない。僕たちは同じ血が流れる、この世でたった二人の兄弟だ。
この世界に味方が一人もいないなら、僕たち二人は、絶対に離れては駄目なんだ。
僕にはユラが必要だから……絶対に離れたりしない」
搭乗口を越えて、幾度も幾度も不安そうにユラは振り返った。
「今日だけは強くなって。ユラ。今日だけでいい。僕を信じて、言う通りにしてくれ。
明日からは、強がらなくていいから。
後は僕が全てユラのことは守るから」
――心を決めて。
歩き出したユラの方に駆け出して、その身体を抱きしめてやりたかった。
……ユラの存在をこの世で唯一の光にして。
支えて来たのは自分の方だ。
一人だったら、これほど強くはなれなかった。
今、ようやく訪れ始めた穏やかな日常……それを、今も幼い頃と変わらずユラと過ごせることを。
(僕はそれだけは、底意地の悪い運命の神にも感謝をして)
手の平を握り締める。
(僕のこの手は、ユラの手を掴むためのもので、見放すためにあるんじゃない)
幸せになるんだ。
そして自分たちで証明する。
どんな不運も、邪悪な人の心も思惑も、
僕とユラの宿縁だけは決して切り離せなかったと。
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