第3話


「しんっじらんない……あいつに恋人がいるなんてっ

 今までそんなの、一度も聞いたことがなかったじゃない!」

「アイザック、お前は知ってたのか?」

「知ってたら今、俺はこんなことしていない」

「シザさんの恋人ってどんな人なんでしょう?」

「きっと同類の、似たものカップルよどうせっ。

 あの手の男は自分が一番だと思ってるから、自分に似た女を選んでいるはずよ。

 きっと初対面からこちらを見下ろして来るような、顔だけいい性悪女に違いないわよ!」

 ミルドレッドがハンカチを噛んで悔しそうに言っている。

「なーんかあいつに恋人っていう絵がもうそもそも思い浮かばないんですけど……」

 ルシアもしきりに首を捻っている。

「シザに恋人がいることは分かったが、何故俺たちはこんなところでコソコソ盗み見を……というか店にアレクが来てしまうぞ」

「しーっ! 駄目よそんな普通に喋っちゃ! ダニエルったら屈託ないんだから! もぉあいつ勘がいいからこれ以上近づけないわ!」

 オペラグラスを使いながら、ミルドレッドがジリジリしてる。

「おれここからだとシザ米粒にしか見えねーぞ」

「あんた視力まで老いて来たんじゃないの」

「老いてない! まだ三十代だ! つーかルシアてめーあいつの恋愛になんか興味ないとかいって結局こうやって来てんじゃねえか!」

「ないよ。でも気になるじゃん。あんな性悪男と恋人になるってどんな感じの女なのか」



『18:16分 アルテミス空港到着機 降着口は四階、二番ゲートになります』



 アナウンスが掛かると、シザは読んでいた雑誌を側の棚に返しラウンジから出て来た。

 アルテミス空港はこの都市が世界に誇る巨大ハブ空港である。

 特別捜査官の中でもその容姿と長身もあって、シザ・ファルネジア人混みの中では一際目を引く。

 すれ違う人も「あれっ⁉」という顔をして振り返るのだが、シザがあまりに平然としているため、一瞬躊躇うらしい。

 加えてシザという青年は、かなりオンとオフの使い分けがはっきりしている。

 街中にいても、快く握手やサインに応じる時も彼はあった。だが、プライベートを邪魔されたくないと明確な意志がある場合、彼はファンであっても「今は遠慮してもらえますか」とかなり冷たく突き放すことがあった。

 結果としてデビューから五年経つ現在、彼のスタンスは完全にファンの知るところになった。

 つまり「話し掛けてみないと分からない」である。


 シザはその日は、明らかに『話し掛けるな』オーラを纏って、空港の人の波の中を歩いていた。

 中には気づいて写真やサインを取らせてほしいなという顔をする者もいるのだが、まるで重戦車のように人の視線を弾き飛ばして歩いていくシザには、人は圧倒されるらしかった。

 結果、ひどく遠巻きに携帯などで写真を撮るのがやっとという状況だ。

 降着口から、人々が下りてくる。

 シザは何かを探すように首を動かし、人の群れの奥を見ている。

 シザ・ファルネジアがこの空港に現われるとは思っていない人々は、やはり彼を見るたびにまず、ぎょっとした顔をする。


 現在、養父を殺した罪でシザは国際指名手配を受けている。


 つまり【グレーター・アルテミス】から一歩でも国外に出た途端、彼は逮捕される状況なのである。だからシザはこの空港から海外に飛び立つということが出来ない。用のない場所なのだ。それに、自らが指名手配犯なのだと改めて知らしめて来る、ここは忌々しい場所でもあるだろう。

 これは【グレーター・アルテミス】に住まう全ての市民が把握している事実でもあった。

 尚更空港にシザがいるとは彼らは思いもしていない。

 実際シザ自身にとっても、空港の印象はそんなものだ。

 だが今日は。


 人の波に多少流されるようにしてゲートに現われた姿を、すぐに見つける。

 その途端、平然としていた彼の表情に、初めて感情が現われた。


「――ユラ!」


 淡い紫色の花束を抱えた少年が声に反応し、軽く駆け出して来る。

 他の人間の姿などシザの視界からは一切消えていた。


「シザさん」


 やって来たユラを抱えれば、彼がそう呼んでくれた一言にシザは嬉しくて仕方が無くなった。両腕で深く、その華奢な身体を抱きしめる。

「待ってた。……会いたかったよ」

「はい……ぼくも。一度トリエンテの事務所に戻る予定だったんですけど……我慢出来なくて、直接こっちに来てしまいました。ご迷惑じゃなかったですか……? その、仕事とか……」

「仕事はもう終わらせました。明日は元々一日休みにしてあります」

 シザは気にしたユラの額に、そっと唇を寄せる。

 ユラはそれを聞いて安堵したようだった。

 シザの胸に顔を寄せて両腕で包まれてると、帰って来たんだなぁと彼は心の底から思えた。


(ぼくの 帰る場所)


「……元気でしたか」

 シザの優しい声が、耳元で響く。

 ユラは頷いた。

 本当に涙が込み上げて来て、慌てて押さえ込む。

 ユラが【グレーター・アルテミス】に戻るのは二年ぶりなのだ。

 そして彼の印象としてはこの二年は、シザと離れているという観点からして、二十年ほど会えていなかったくらいの気分に近かった。

 だからきっと泣いてもシザは分かってくれるだろうけど、ユラは自分で、今は泣きたくないと思ったのだ。

 再会出来たことを今は笑ってただ喜びたい。


「シザさんの方が……大丈夫でしたか? 僕なんかより、ずっと危険な仕事をしてるから……シザさん、メールでも仕事のことはあんまり話してくれないから……きっと心配させないようにそうしてくれてるんだろうなと思ったけど……、無理してないか心配です」


「仕事は大丈夫です。心配いりません。僕が仕事のことを話さないのは、話すと『今日も出来の悪い同僚を僕が全部フォローしてあげたよ』って毎回自分の自慢話になってしまうからですよ」

 心配そうだったユラは美しい、紫水晶のような瞳をぱちぱちさせてからようやく、くすくす……と笑った。

 シザが今【アポクリファ・リーグ】に参戦していて、所属している【獅子宮警察レオ】の同僚がアイザック・ネレスという三十代の年上の人だということも、ユラは聞いていた。

 初期の頃は、あんまり使える同僚という感じの人ではないですね、というのは聞いた気がする。

 でも今、シザの顔を見れば分かる。

 仕事は確かに充実しているのだろう。ユラは安心した。

「……自慢話になってもいいから、……シザさんがどんな風にお仕事してるのか……聞けたらぼくは嬉しいです」

 シザは目を眇めて、優しく笑った。

「分かりました。じゃあこれからはそうします。

 ……仕事は順調ですけど、でも、僕は元気ではなかったです」

 ユラの柔らかいプラチナブロンドを撫でながら、シザは呟く。


「……貴方に触れられなかったから、元気ではなかったです」


 力を込められた手に、二年前【グレーター・アルテミス】で別れた時のことを思い出す。

 二人で決めたこと。

 ユラは当時まだトリエンテ王国の音楽院に在学中で、成績優秀者のみが推薦を受けて、一年間、各国を回りながら演奏公演をしていたのである。

 その途中で、ユラは出場した音楽コンクールでグランプリを受け、卒業後そのままもう一年音楽修行のために各国で公演をしないかと、コンクールのスポンサーから話を持ち掛けられたのである。

 ユラはとても迷った。

 一年。

 そういう約束でシザと離れた。

 彼の元に戻りたかったし、音楽家として自分がどこまでやっていけるかも、自身ではまだ分からず不安だった。

 でもユラに出来ることは昔から、ピアノを弾くことくらいしかない。

 シザは生活する為に特別捜査官を始めた。昔からあまり好きではなかった、自分の能力を仕事で使うようになった。

『この力で人を救えるなら悪くない話』――シザはそう軽く話したが、ユラにだけはその心の葛藤が分かった。

 

 もし自分がもう一年音楽と向き合って、それを本当に仕事に出来れば、もうシザばかりに苦しい想いをさせないで済むと思った。

 

 ずっとずっと、そうしたいと思っていたことだ。

 それはまさにユラの幼い頃からの夢だったと言ってもいい。

 シザは「ユラの望むことをやってほしい」とこの話を応援してくれた。

 彼のその応援が、結果としてユラの背を押したのだった。


 ユラは音楽事務所と契約をし、一年の約束で音楽活動をした。


 そしてようやく今日、帰って来たのである。

 シザとは、約束をしていた。

 一年後【グレーター・アルテミス】に戻ったらすること。


 今後どうするか二人で話し合うこと。

 シザの問いにユラが返事をすること。

 ……シザを、名前で呼ぶこと。


 シザの問いというのは。

 二年前、一年間会えなくなるからと、その間に同級生、オケの誰か、或いは音楽そのもの――。

 一年の間にユラの心が何に強く揺さぶられるか分からないから、はっきり伝えておきたいと、出発の前日に告げられたことだった。


『僕はユラが好きだ』


 知っていると思うけど、と付け加えてシザは言った。

『もちろん、この気持ちは兄としての立場とは切り離して……そう思ってる』

『……兄さん』

『でも僕は今まで、ずっとユラの側にいた。お前の傷や痛みも全て知ってるつもりだ。

 僕はユラが好きだから、絶対にお前を傷つけたくない。

 もし……ユラが僕とそういう風になりたくないのなら、想いは殺せる。

 単なる優しい兄として、ユラが誰かと幸せになるまで、側にいられればそれでいい。

 絶対にユラの心を踏み躙ったりしない。誓うよ』


 養父であるダリオ・ゴールドは、戸籍上の父親でありながらユラに手を出した。

 ……ユラはその記憶に、未だに時折苦しめられているのをシザは知っていた。

 最初の半年くらいは【グレーター・アルテミス】で一緒に暮らした。

 その時によく、ユラは魘されていたのだ。

 自分が付いていてやらねばならないと強く思う反面、ユラは通うはずだったトリエンテ王国の名門音楽院への進学を、諦めようとしていた。

【グレーター・アルテミス】のアカデミーに通ってシザと離れずに暮らすことは、ユラ自身の望みでもあった。

 

 シザがラヴァトン財団のドノバン・グリムハルツから養子にならないかと言われた時、考える間もなく頷いたのは、ユラのことがあったからだ。

『弟の三年間の学校生活の一切を、支援してほしい』

 それが可能なら貴方の養子になると、シザは言ったのだ。

【グレーター・アルテミス】のホテル王は否応もなかった。

『構わんよ』

 ではトリエンテには護衛もつけさせようと、そんな手配は手慣れた様子で、彼は他国でのユラの学校生活をバックアップしてくれた。

 淋しかったり悩む時は、いつでも帰ってきていいからとそう言って、ユラはトリエンテの名高い音楽院の寮に入った。

 半月に一度は、ユラは【グレーター・アルテミス】に戻って来れた。


 養父の件では、ユラは事件発生当時すでに【グレーター・アルテミス】行きの飛行機に乗っていたことが証明されており、加えてシザが殺害を隠していないことからユラにまで捜査当局の追及が及ぶことは無かった。

 このトリエンテ王国の音楽院は非常に格が高く、純粋な音楽家育成の使命感を持っていたことから、ユラが入学した後、ノグラント連邦捜査局が『ユラ・エンデに少し話を聞きたい』と面会を求めて来たことに学院長が激怒し、二度と警察にうちの学院の敷地を踏ませるなと、そういう姿勢を取ってくれたことは、シザにとってありがたかった。

 ドノバンの用意した護衛も、音楽院から一歩出た、ユラの穏やかな世界を守ってくれた。

 

 表面上は年相応の、穏やかな学院生活を送れていたと思うが、シザには感受性の強いユラが、今も過去の記憶に苦しめられていることが分かっていた。

 

 ドノバン・グリムハルツは普段ユラに関してはほとんど無関心だったが時々、トリエンテに仕事で行くとユラの授業風景を見たり、定期公演などがあるとふらりと見て来ることがあった。

 シザと食事をする時に、彼はユラの音楽家としての素質について話す為だろう。


「人間は喜びと同じくらい、悲しみにも心を揺さぶられる。

 ユラ・エンデの音楽家としての根底には、常に過去の痛みが垣間見える。

 その悲しみを脱却して、幸せになりたいという願望と、

 逃れ難い痛みに対しての怯えも。

 過去の痛みがユラの音楽に、同年代の子供にはない深みを与えてる。

 私は才能の無い奴は実の子だろうが義理の子だろうが切り捨てることに躊躇いもないが、ユラは見込みがあるぞ。

 その気があるなら、卒業後はラヴァトン財団でピアニストとしてプロデュースしてやろうか」


「お断りします」


 シザは即答した。

「ユラの音楽は、彼が傷ついているから素晴らしいなんて言う人に、彼の面倒を見てほしくないです」

 豪勇な起業家として知られるドノバンは声を立てて笑った。

「ユラの音楽は傷つく前から素晴らしかったですよ。

 当時の僕が、そんな綺麗な音楽を生み出せる弟に嫉妬して、ちょっと嫌いになったくらいですから。

 あれもまた、能力同様、天がユラに与えてくれた才能なんです。

 それを彼が傷ついてるから深みがあるなんて、貴方も企業家としては一流かもしれないですけど、音楽を見る目はないですね」

 養子の毒舌にも、ドノバンはおかしそうに笑っているだけだ。

「ユラは本来自分の想いや心を表現するのが苦手だし、下手なんです。

 そういう素の自分では出来ないことを音楽に委ねると、普段表に出せない彼の想いが自然と浮かび上がる。

 ユラの音楽の根底にあるものは、ひたすら誠実に音楽に向き合っているという姿勢そのものです。それこそ優れた音楽家の何よりの条件なのでは?」


「誠実に向かい合った所で、何も実りのあるものを得ることが無ければ非凡で終わるさ。

 ピアニストとしては悪くないし、技術もある。ただ唯一、音楽に色気がないのは退屈だ」


 シザが眉を寄せて睨むと、ドノバンは含んだような笑みを浮かべたまま視線を返して来る。



「まぁ、恋愛でもすれば……な」




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