第8話

もしかして、私が帰りたいと思っている事が露呈した?全てを容易に見透かしてしまいそうな相手の双眸に射抜かれて、グラスを持っている指先に汗が滲む。



「それ良いね?涼夏ちゃん明日何の予定もないってさっき言ってたし、今から女の子一人で帰るのも危ないし、ここに泊まって行きなよー」

「でも…「涼夏ちゃんの部屋定期的にお掃除してるし、内装もそのままだからすぐ眠れるし良いじゃーん!私も涼夏ちゃんと久しぶりにゆっくり過ごしたいな」」



 さっきまで救世主の天使に見えた梨歩が忽ち小悪魔に見えてくる。味方を失った私は、慌てて脳内に保存されているこれまでの人生で得た経験と知識にフル検索をかけて断る方法を模索してみる。



「涼夏が泊まってくれるなんて何年振りかな?家族水入らずで過ごせるのは幸せだね」



 しかし検索結果が出るよりも先に、どうやらこちらの会話を聞いていたらしい父親が笑顔で平和に満ち満ちた発言を投下した事で、絶望的な状況に追い込まれる事になった。



「え、涼夏ちゃん今日泊まってくれるの?それじゃあ明日の朝ご飯はいつも以上に張り切らなくちゃ」



 こちらの心情を当然ながら一切存じ上げていない由美さんが、瞳をキラキラ輝かせてトドメの一撃を放った事で…―。



「お、お気遣いなく…手料理を食べられるだけで嬉しいので…朝ご飯楽しみにしてます」



 実に呆気なく己の敗北が決定した。こんなアウェーな空気の中「いいえ、帰ります」と言ってそそくさと実家を去れる程のメンタルを私は持ち合わせていない。きっと、陽のカテゴリに属している梨歩や父親にかかれば、嫌味なく上手にお泊りを断って帰れるのだろうけれど、無論私にはそんな器用さもない。


 今の心境を一言で表すならばまさに「がっくし」。その場で項垂れたい気持ちをぐっと堪えて、胸中で蠢く様々な感情を抑える様にゴクゴクとソフトドリンクを流し込む。



「明日までいっぱい涼夏お姉ちゃんと過ごせるの、俺楽しみ」



 激しく落ち込んでいる私の鼓膜を突いたのは、妖しく口の両端を上昇させている苺君の柔らかな声だった。




***



 日付が変わりそうになった頃、賑やかだった食事会はお開きとなりアルコールを入れた梨歩、父親、由美さんの三人は絵に描いた様な酔っ払いに仕上がってしまった。



「私が後片付けしておくから、皆もう休んで」

「ぇえ?涼夏ちゃんだけにはさせられないよ~」

「気持ちだけで十分だから」

「ほんとにお願いしてもいいろ?」

「良いよ(呂律すら回ってない人には任せられない)」



 直立するのもやっとといった具合の梨歩に苦笑が漏れる。こんな状態の梨歩が後片付けなんてやったら確実に食器を割る事くらい想像に難くない。テーブルの上の空になった食器を集め始める私に「ごめんね涼夏、お言葉に甘えても良い?」と父親が質問を投げてきたからコクンと小さく頷いた。



「負担かけちゃってごめんなさいね、涼夏ちゃん。このお礼は絶対するからね」

「大丈夫ですよ、私の方こそ余り準備を手伝えなかったので片付けくらいさせて下さい」

「なんて良い子なの涼夏ちゃん…明日の朝ごはんは期待しててね」

「楽しみにしてますね」



 申し訳なさそうな表情を浮かべている父と由美さんも、顔が苺の如く真っ赤に染まっている。片付けをやろうとする三人をどうにか納得させ各々の自室へと散った三人を見送れば、途端にリビングが静寂に包まれた。


 シンクに溜まっている溢れんばかりの食器の山が家族が五人になった事を物語っている。父親も梨歩もとても幸せそうだった。由美さんだって終始口許が緩んでいたし、すっかり家族の形ができ始めていた。


 問題は苺君だ。危険な匂いを纏っている彼が、家族の形を不意に壊してしまうのではないかと心配になる。けれど、彼の危険性を訴えたところで誰も信じてはくれないだろうし、私が訴えたとして妙な雰囲気にさせてしまうだけに決まっているのだから訴える事自体が野暮だろう。



 彼は、この家族の一員になった事についてどう思っているのだろうか。家族団欒の席で何度も彼は口を開いていたけれど、どれも本心ではない気がして仕方がなかった。


 私はこの家に住んでいないしほぼ帰ってくる事もないから親の再婚も普通に受け入れられたけれど、まだ学生でこの家に住むしか選択肢のない彼はもしかすると複雑な感情を抱いているのかもしれない。



 だからその反動で私にあんな攻撃的な行動を取った可能性も…―。



「十分にあるよね」

「何のこと?」



 静けさを割く様に落ちた私の言葉が消えるよりも先に、すぐ隣から色っぽい声が鼓膜を掠めて思わず肩が揺れた。

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