第7話
別に私が悪い事をした訳でもないのに、ドクドクと脈打つ心臓はまるで悪い事を犯した人のそれだ。彼にキスをされたという衝撃が強かったせいか、ありがたくない事に脳味噌が全てを鮮明に記憶している。おかげであのキスを反芻しようものなら、あの時と同じ冷や汗が背筋を伝って不快だった。
住む家がそもそも違うし、私はここに頻繁に帰って来る訳でもないのだから決心する程でもないのだろうけど、彼とはしっかりと距離を取って関わらないでおこうと心に決める。
きっと、私の直感は正しかった。彼はやはり恐いし、危険な匂いが漂っている。由美さんは裏表もなさそうだし、父親も幸せそうだから水を差す事なんて言いたくないけれど…博よ、あんたとんでもない子が息子になってるよ。
「私ね、ずっと娘も欲しいと思っていたから、涼夏ちゃんや梨歩ちゃんが娘になってくれて嬉しいの。お母さんって思って欲しいなんて烏滸がましい事は言わないから、仲良くしてくれると嬉しいわ」
顎の前で両手を合わせながら、私と梨歩に対し優しく目を細める由美さんは母性と優しさに溢れていて、控えめに言っても女神の様だった。
とても失礼な事とは分かっているが、どうしてこんなに素敵な人からあの子が生まれたのだろうかという疑問が当たり前に浮く。
「涼夏お姉ちゃんはお酒飲まないの?」
すっかり油断していたせいで、突然飛んで来た質問に肩が跳ねた。恐る恐る視線を滑らせれば、所謂お誕生日席で頬杖を突きながら首を微かに傾けている彼と視線が絡んだ。
どんな風に生きてきたら高校生でこんな色気を放出できるのだろうか。彼の指が縁をなぞっているグラスの中にはりんごジュースが注がれているはずなのに、アルコールじゃない事に違和感を覚える位には彼は大人びている。初対面で彼の年齢をドンピシャに当てられる人間なんているのだろうか。
「苺君あのね、涼夏ちゃんは超お酒弱いの。だから滅多に飲まないんだよ…ね?涼夏ちゃん」
「え?…あ、うん」
ほんのりと頬を赤く染めた梨歩がぐいっと私の肩を抱き寄せて私の代わりに苺君に回答した。できる限り彼と会話をしたくないと思っていた私の目には、梨歩が救世主に映る。
「ふーん、そうなんだぁ」
頬杖を突いたまま短く相槌を打った彼から逃れる様に視線を逸らす。壁に掛かっている時計を確認すれば、もう少しで九時半になるところだった。
顔合わせと自己紹介という本日の最重要任務は遂行したのだから、頃合いを見計らってそろそろ帰っても不自然ではないだろう。結局、久しぶりの手料理を味わう事は最後の最後まで叶わなかったけれど、脳内を真っ白く染める衝撃的な出来事があったのだから仕方がない。
ああ、早く帰りたい。一分一秒でも早く彼のいるこの空間から逃げ出したい。たかだか数時間しか離れていないというのに、既に独り暮らしをしている自分の部屋が恋しくて堪らない。
「俺、新しくお姉ちゃんができるって聞いて実は凄く不安だったんだけど、綺麗で優しいお姉ちゃん二人で凄くホッとした。二人さえ良ければもっと仲良くなりたいな」
「……」
な、な、何を企んでいるのだろうか。余りにも胡散臭い台詞に微かに眉間に皺が寄る。好青年そのものな笑みを咲かせて言葉を落とした苺君に対し、すっかりお酒が回っている梨歩が「きゃー勿論だよ!もう苺君ってば可愛過ぎ」なんて返事をした。
梨歩、悪い事は言わないから前言を即刻撤回した方が良いよ。この子は梨歩が思っているようなお利口さんでもなければ、良い義弟でもないと思うよ。
まんまと苺君に騙されている自分の妹に心配が募っていく。こんなにも純真な梨歩と苺君がひとつ屋根の下に住んでいて大丈夫なのだろうか、梨歩が彼の毒牙にかかってしまうんじゃないだろうか。
「本当?良かったぁ」
梨歩の返事を受けた苺君がわざとらしく目尻を柔らかく下げて、唇に弧を描いた。私の目に映る彼は、端から梨歩がどういう返事をするのか分かっていたかの様だった。彼の双眸が不意にこちらに向けられて、心臓が大きく脈を打った。
蛇に睨まれた蛙の心情が今なら分かる気がした。
「こうして姉弟三人集まる機会って滅多にないかもしれないから、今日くらいはお姉ちゃん二人と一緒に過ごしてお互いを知れる日にしたいな」
「え…」
「涼夏お姉ちゃんがここに泊まってくれたら、もっと沢山会話できるね」
「……」
ゆるり、彼の口角が持ち上げられ、そして私は彼の企みを察した。
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