第5話

何の前触れもなく訪れた急展開に息が止まった。寝ていると思っていたはずの人間が次の瞬間には自分の上で笑っているのだから、そりゃあ誰でも吃驚すると思う。


 寝顔だけでも確実に美しい人間と分かる程に整っていたけれど、目を開いている彼は想像を遥かに凌駕していた。やはり美し過ぎて恐い。



「あの、驚かせるつもりはなかったの」



 脳の処理が終わるよりも先に、言葉が口を突いて出ていた。じっとこちらを射抜いている色素の薄い双眸は温度がない様に感じる。ブランケットを持っている方の手首が彼に掴まれていてまるで自由がなかった。


 彼からするとひょっとしなくても私はただの不審者でしかないのかもしれない。見ず知らずの人間だし、寝ている自分の傍に気づいたら人間がいるだなんて背筋が凍るシチュエーションだ。そう考えると、自分が途轍もなく危ない人間に思えて冷や汗が滲む。



「エアコンの風が直接当たってたから、ブランケットを被せようとしたの」

「……」

「変な事なんてするつもりはなかったの」



 弁解の言葉を重ねれば重ねる程に言い訳みたいに聞こえるのは気のせいだろうか。余計に怪しい人間になっている気がして仕方がない。冷や汗も止まらない。



「どうして?」



 表情を変える事無く、彼がコテンと首を横に折った。



「へ?」

「だから、どうして?」



 丁寧に同じ言葉を繰り返してくれたけれど、全く意味が分からない。どうして?ってどういう事?思考を巡らせてみても質問の意味に辿り着けなくて、眉間に皺を寄せる。


 実際に目を開けて喋って、瞬きだってしているのに、それでも彼からはその美しさのせいで人間味を感じない。



「どうして、変な事するつもりなかったの?」



 察しの悪いこちらを気遣ってくれたのか、漸く質問の全文を言葉にしてくれたらしい。だけど質問の内容が明るみになった所で私の眉間の皺は深くなるばかりだった。



「変な事、して欲しかったのに残念」



 数秒の間を置いて、そう放った彼が口角を妖しく吊り上げた。


 ドクンと心臓が大きく脈を打つ。相手が綺麗だからではない、本能的に漠然とした危険を感じたからだ。



「じゃあ俺から変な事しよっか」



 日向ぼっこをする猫みたいに彼が目を細めた。そしてそのまま、当たり前の様に彼は私の唇を自らのそれで塞いでいた。


 静けさが重く感じるリビングで、エアコンの稼働音だけがやけに大きく響いていた。



 頭が真っ白になった…そう言いたいところだったけれど、頭が真っ白になる余裕すらなかった。


 何が起きているのだろうか。夢だろうか。どうか夢であって欲しい。それか、連日の猛暑で頭が煮えて可笑しな幻覚を見ているだけであって欲しい。



 現実逃避する様に脳が働こうとしていても、角度を変えて深くなる口付けが強制的に私を現実へと引き摺り戻す。抵抗をしてみてもビクともせず、そのまま相手の舌が私の唇を割って入って、口腔内を侵した。



「やめ…っ」



 逃げ場の限られている私の舌はあっさりと捕まり、相手の熱いそれに絡み取られて言葉の自由までも剥奪される。身を捩り、酸素が徐々に減っていく苦しみから涙が目に浮かんでバタバタと脚を動かした。


 恐い、やっぱり恐い。まだ全然知らないけれど、私は彼が恐い。



「ただいまー」



 絶望を感じた矢先だった。玄関ドアが勢いよく開く音が聞こえて、すぐに陽気な父親の声がリビングにまで届いた。



「ハァ…ハァ…ハァ」



 思いがけない救世主の登場に唇と手首が解放され、急いで上体を起こす。無理矢理奪われていた唇は、彼の余韻がここぞとばかりに残っていて灼ける様に熱い。



「残念、邪魔が入っちゃった」

「……」

「やっと会えたね」


“涼夏ちゃん”



 父親の帰宅に焦る様子なんて少しもなく、余裕たっぷりに笑んだ彼が私には悪魔に見えた。

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