天使の見た妖精

和泉茉樹

天使の見た妖精

      ◆


 天使。

 内田麻理菜は目の前の女性を見てそう思った。

「どしましたか?」

 ニコニコ笑っている事務所の先輩であるメウの少し癖の残る日本語に、麻理菜はハッとして両手をバタバタと振った。

「い、いいいいい、いえ、メウさん、美人だなぁって、その、思いまして……」

 麻理菜の言葉にメウがふにゃあっと笑みを深めると、一瞬で間合いを詰めて麻理菜に抱きついた。片腕が腰に回され、もう一方の手が麻理菜の後頭部にあった。メウの頭が麻理菜の肩に、麻理菜の肩にメウの頭がある。

 甘い匂いと柔らかいあれこれに麻理菜の思考はどこかへすっ飛んでいた。

「麻理菜ちゃんこそ可愛いです。可愛い女の子、大好きです」

「へ、は、はいいい」

 さわさわと後頭部を撫でられる麻理菜の耳に、「それくらいにして」という冷ややかな声が聞こえた。

 さっとメウが麻理菜を解放すると不満そうな顔で声の主の方を見た。

「桐山さん、いつも厳しです」

「レッスンをちゃんとこなして終わってから、そういうことをするように」

 桐山は事務所の女性マネージャーで、メウが所属するアイドルグループ「Girls Be Ambitious」の担当ではないが、事務所に所属するアイドルの表舞台での活動から、裏でのレッスンや会議まで、広い範囲を管理している。

 事務所、I.M.Pは所属するアイドルグループが二つと、研究生が四人いるだけの小さな事務所で、マネージャーも三人しかいない。一人は大学を卒業したばかりで、まだ桐山が現場に連れてくることはない。どうも事務所とは名ばかりの狭いオフィスで共同設立者三人に可愛がられているらしかった。もちろんいかがわしい意味ではなく、仕事を教わっているのだ。

 麻理菜たちがいるのは事務所が週に一度、借りているレッスン場で、しかしかなり手狭だ。今、そこにメウと麻理菜、麻理菜と同じ研究生三人、そして桐山がいるのだが、人口密度が高くて変な圧迫感があった。

 これからダンスレッスンだけれど、まだ教える側の人物が来ていない。桐山は苛立った様子で腕時計を見ていた。スマートウォッチが普及したいまどき珍しい、普通の腕時計だ。

 メウが他の研究生の方へ行ってしまったので、なんとなくそれを目で追いつつ、麻理菜は今度は遠くからメウを観察した。

 メウは韓国人で、年齢は二十歳くらいだろうけれど、麻理菜はよく知らない。今はダンスレッスンのためにラフな服装をしているけれど、スタイルはもの凄く良さそうだ。細身で、引き締まっているのが想像できる。

 日本語もかなり達者な方で、発音はほとんどネイティブと変わらないほど正確だ。時折、少し発音が乱れるところは逆に愛嬌になっている。

 研究生の大迫心と風間京と笑っているメウの横顔に、麻理菜は思わず見惚れる。

 メウさん、美人だなぁ。

 自分はどうだろうとふと気になってしまい、レッスン場の鏡張りの壁の方を見ていた。

 鏡に映っているのは、どこかにいそうな女の子だ。

 短い黒髪に縁取られた顔は、あまり目立つところはない。

 自分がここにいることが、不思議に思えてくる。

 大迫心も、風間京も、もう一人の研究生の松原菊も、みんなどこか特別だ。

 心はスラリと背が高くて、ランウェイを歩かせたら、と思わせる。

 京は背が低いけれど愛嬌があって、どこか小動物を連想させる人懐っこさがあった。

 菊は見るからに物静かそうで、今もレッスン場の壁際で一人で文庫本を読んでいる。それがまた絵になっていて、オーラがある。

 じゃあ自分は、と麻理菜は鏡に映る自分自身を念入りに観察したが、平凡としか思えなかった。

 鏡の中ではまだメウと心、京が話をしている。楽しそうだ。

 私、間違った世界にいるかも。

 そんな言葉が脳裏をよぎった時、鏡の中のメウと目が合った。その鏡の中のメウが手招きしてくる。

 本能的に一歩前に踏み出したけれど、それは鏡の方へ近寄っただけで、本当のメウは全く違う方向にいるとすぐに理解が及んだ。

 自分の前抜けさに少し悲しくなりながら麻理菜はメウの方を振り向こうとしたが、その時にちょうどレッスン場のドアが開いた。

「すみません、遅くなりました」

 入ってきたのはI.M.Pに所属するアイドルグループ「QUEEN B」のメンバーである雲野あかりだった。

 QUEEN Bは結成から三年が過ぎていて、その間にいくつものオリジナル楽曲をリリースして、動画投稿サイトでは再生数が三万回に届きそうなものもあるグループになっている。

 再生数三万回は、メジャーな歌手やトップアイドルのMVの再生数と比べると百分の一以下、あるいは千分の一以下だけれど、アイドル業界ではある程度の数字と言える。アイドル業界が膨張して、ジャンルとしても細分化されつつ現在では、仮にMVをしっかり作っても再生数が一万回に届かないことなどざらにあるのだ。

 それでもアイドルというものが金になるのは、ライブイベントの存在があるからで、そこでの特典会が大きな収入源だった。一人のファンと話し、チェキを撮り、サインを書くというだけで利益はかなり大きい。ファンが増えれば増えるほど、熱狂的なファンを獲得できればできるほど、この利益は跳ね上がっていく仕組みだ。もはやMV作成も音楽配信さえも、宣伝のため、布教のための手段に過ぎない。

 QUEEN Bも毎年行われるアイドルフェスに参加するようになり、まだ小さなステージにしか立てないものの、確実にファンは増えているし、固定客も十分な数に達している。

 雲野あかりがこのレッスン場に来たのは、講師役としてだった。

 麻理菜は詳細には知らないけれど、QUEEN Bの結成当初はダンスの講師を雇うこともできず、独学でダンスを学んだらしい。それが活動していくうちに事務所にも余裕ができて、QUEEN Bはちゃんとした講師にダンスを指導してもらうことができるようになった。

 それでも事務所はまだまだ貧弱で、研究生にダンス講師をつける余裕はない。

 結果、QUEEN Bでは一番ダンスが達者なあかりが講師役となり、研究生にダンスの基礎的なことを教えることになっているのだった。メウがこの場にいるのは、彼女は少しダンスが苦手で、補習というか、追加レッスンのような形で参加しているということになる。

 遅刻しそうだったからか、すでにレッスン着だったあかりが靴を履き替えているところへ桐山が「時間は守りなさい」と声をかけている。あかりは「すみません」と答えながら靴の紐を締め直し、「始めていいですか」と桐山に確認した。桐山は無言で頷き、壁際へ下がる。この時にはメウも、麻理菜たち研究生四人も待ち構える形になっていた。

 まずはストレッチから始まり、次は基礎的な筋トレ、それからあかりが手拍子で刻むテンポに合わせてステップを踏んで行く。

 研究生四人のうちでは麻理菜だけがダンス未経験なので、この時点でも置いていかれそうになる。そもそも体も硬いし、筋肉も体についていない、体力もないのでヘトヘトだった。

 中学でも高校でも家庭科部だったことを恨めしく思いながら、必死に体を動かす。

 やっと基礎の確認が終わり、ここのところレッスンで教材にしている昔の邦楽に合わせての実際的なダンスになる。振付をつけたのはあかりで、基礎的な動きの連続なのだけれど麻理菜はついていくのがやっとで、細部にまで気が回らなかった。

 家でも姿見を前に動きを確認したりするのだけど、レッスン場だと変に緊張してしまう。

 音楽が流れ始め、メウと研究生四人で踊り始める。一人ひとりにちゃんとポジションがあり、フォーメーションも変わっていく。

 麻理菜が斜め前へ出ようとすると、京とぶつかりそうになり、とっさに京の方は避けながらもダンスを継続したけれど、麻理菜は姿勢が完全に変わってしまった。

 しかも移動にも失敗して、流れていく音楽を把握して立ち位置を取り戻そうとするけれど、狙った場所にはすでに菊がいて、つまり立とうとした場所は麻理菜の勘違いで、本当は別の場所で、音楽は先へ進んでしまい、えっと、どこに立てば……、どこに行けば……。

 音楽がサビに突入したところでやっと自分の立ち位置が判明し、ダンスに復帰するけれど、ワンコーラスで練習しているのですぐに音楽が止まってしまう。

 五人が最後の姿勢を維持して、あかりが何か言おうとした時、「麻理菜、立ち位置が違う」と、今まで黙っていた桐山が指摘した。

 麻理菜は姿勢を解かないまま、首だけ動かして他の四人との立ち位置を確認した。それから床を見る。床には立ち位置を示す目印があるのだ。

 確かに麻理菜は一つずれた目印の上に立っていた。

「本番だったら」桐山の無感情な視線が麻理菜を見据えて、それに射すくめられた麻理菜は動けなかった。「観客に笑われるよ」

 すみません、となんとか答える麻理菜を助けるためでもないだろうが、「もう一回やろうか」とあかりが声をかけ、五人全員に改善点を伝え始める。京や菊、心には指先や顔の向き、視線の方向など細かなことが伝えられるのに対して、麻理菜には「もっと音に合わせて動かないと」とか「フォーメーション移動の時は」とか、あまりに初歩的なことが指摘されて、麻理菜はいたたまれなかった。

 麻理菜がどんよりと落ち込んでも、レッスンが急に終わったりはしない。落ち込んだままでも、レッスンを続けるしかない。気分を切り替えられたらいいのだけれど、麻理菜にはそんな余裕はなかった。

 レッスンは二時間以上続き、終わる頃には麻理菜はすぐに座り込みたかった。最後に五人であかりに挨拶をして、それで一区切りだ。空気が途端に緩み、真っ先にメウが「あかり先輩、厳しすぎです」と声を漏らした。

 研究生の心、菊、京の三人も口々にあかりに冗談を言っているけれど、麻理菜は自分はそれに参加できないな、と感じて黙っていた。自分があかりに冗談を向けるためには、もっとダンスが上手くならないと……。

 桐山が研究生に声をかけ、一週間以内のスケジュールを確認した。研究生四人はいずれグループを結成して世間にお披露目されるはずだけれど、まだ詳細は決まっていない。まだレッスンに次ぐレッスンの日々だ。

 見通しが立たないことで、麻理菜は疑心暗鬼にとらわれることもあった。

 もしかしたら研究生四人でグループを組むことはなくて、自分を除いた三人だけでグループが結成されてしまうのではないか。

 スケジュール確認が終わり、桐山にみんなで挨拶をすると、桐山は今度はあかりと何か話し始めた。

 帰ろうか。

 麻理菜は自分の荷物の方へ向かう。

 その時になってメウが麻理菜の荷物であるリュックサックのすぐそばに立って、ニコニコしているのに気づいた。

「麻理菜ちゃん、一緒に帰ろ。ダメ?」

 そう声をかけられ、麻理菜は一瞬、立ち竦んでしまった。

 どうしてメウは自分に優しくしてくれるのだろう。

 研究生三人は靴を履き替え、それぞれにレッスン場を出て行く。麻理菜は靴を履き替えながら、それをリュックに押し込みながら、メウのことを考えていた。麻理菜の中で勝手に走りまくる想像など知らないように、メウは唯一の荷物らしいシューズバッグを床に置いて、上体だけでダンスの振りを確認して鏡に映る姿を一心に見ていた。

 麻理菜がリュックを背負うと、行こ、とメウが歩き出す。まだ部屋に残っているあかりと桐山に挨拶をして、二人で廊下から階段へ、そして地上へ降りて、屋外の初夏にしては強い日差しの中に踏み出す。

「コーヒーでも飲んで帰る、良い?」

 メウの方からそう言われて、なんとなく言葉を返すのが躊躇われて麻理菜は無言で頷いた。微笑んでいるメウが歩き出すその背中についていく。

「麻理菜ちゃん、もっと自信持って」

 不意にそう言われて、知らず知らずに俯いていた麻理菜は顔を上げた。メウは麻理菜の方は見ていない。前を向いている。

「みんな、最初から何でもできるわけじゃ、ないよ。私の日本語も、そだったよ」

 やっぱり麻理菜はうまく答えられなかった。何かがこみ上げそうな気がして、でもどうしてそうなるのか理解できなくて、先を行くメウの背中を見ていた。

「ダンスも、歌もそだった。最初はみんな、難しい。でも、やってればうまくなるよ」

「そう、ですか?」

 そう答えた時に、麻理菜の中の何かが決壊して、足が止まってしまった。その次には目元が熱くなって、視界が滲んで、息が詰まった。

 麻理菜の様子に気づいたメウが数歩先を行ってから足を止めて、戻ってきた。

 そしてメウの手がそっと、麻理菜の頭の上に乗る。

「心配しないで。きっと、うまくいくよ」

 そうですか? と言ったのに、麻理菜の声はぐしゃぐしゃだった。

 昼過ぎに通りを行く無関係な人たちが二人を避けていくのがわかった。メウに迷惑をかけているな、と麻理菜は思った。でも涙は止まらないし、息も整わなかった。体が震えてしまって、どうしようもなかった。

「うまくいく」

 メウの声は優しいけれど、力強かった。

「参考になるか、わからないけど」

 そう言ってメウが麻理菜の頭を撫でる。

「私、韓国にいる時、妖精を見たと思いました。その人、日本でアイドルをしていました。とても美しくて、嘘みたいでした。本当にいるのかな、そう思いました。日本に行けば、会えるかな、って思いました」

 麻理菜は顔を上げて、メウを見ていた。メウは笑っている。麻理菜の視界はいつの間にか正常に戻りつつあった。

「その人は今も、アイドルしてます。私、まだ本当に会ったことありません。でもいつか、会えると思ってます。だから頑張れます。麻理菜ちゃんにも、同じようなこと、ありませんか?」

 メウの言葉に、麻理菜はただ頷いた。

 麻理菜にも憧れたアイドルがいた。だから、アイドルになろうと思ったのだ。

 自分なんかが、と思うこともあったけど、ここまで進んできたのは意地のようなものだった。平凡な自分でも、ダンスも歌も下手な自分でも、何かができると思ったからだ。何かができなくても、努力すればできるようになると思ったから。

 それでも挫けそうになる心を、メウが今、救ってくれている。

 麻理菜はメウに「ありがとうございます」と心から礼を言った。メウはニコニコと笑って、「泣くのはダメだよ」というと一度だけ強く麻理菜の頭をぐっと押さえた。はい、と答えた時には麻理菜も笑顔になれていた。

 なんて簡単な奴。

 自分でもそう思いながら、歩き出したメウに麻理菜はついていく。

 メウはやっぱり天使だな。

 メウは誰かにとって、メウが見たという妖精みたいなアイドルの立場になるんじゃないかな。

 麻理菜はそう思ったけれど、言葉にはしなかった。

 恥ずかしかったからだ。

 そして今は、今だけは、メウは自分だけの天使でいて欲しいとも思った。

 眩しすぎる太陽の下を、二人は進んでいく。

 メウの冗談に麻理菜は笑い、それにメウも笑っている。

 泣いてばかりじゃダメだ。

 麻理菜はもう少しは頑張れそうな自分、少しだけ楽に笑えるようになった自分に気づいた。



(了)

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